第19話 黒頭はその手を汚さない③


 今や亡者同然の体で、意識を失くした襲撃者、闇樂あんらく美猴王びこうおうは無情にも彼の胸倉を両掌で以て、ひん握り力任せに締めつけた。たちまち彼の顔は猩猩色に鬱血しだした。


「ちょ、ちょう待ったって!それ以上やったら死んでまうで!」


 背後から呼び止める声。腕の力を緩めず、美猴王びこうおうは、声の主をじろりと舐めるような視線で睨み付けた。


「いやー、かんにんかんにん。まちがえてもた」


 朗らかな。殺伐とした命と命の獲り合いが行われていた樹海の闇に相応しからぬ声が響いた。うぶな、快活さを持った高い声の主。小柄で、痩せ身の男は、まるで同胞はらからに逢えたような微笑みを携えて近付いてきた。

 美猴王びこうおうは玩具に興味を失った嬰児みどりごの如く、掌を闇樂あんらくから放した。当然、猛りが収まる道理は豪も無く、漲る怒気は男に注がれる。しかし、美猴王びこうおうの間合いに躊躇無く侵入する男に対し、直ぐ様に飛び付く事もしなかった。


「まさか舟に妖怪御一行さまが載ってるやなんて思わへんやろ」


「止めや止めやと合図してんけどな。こっちは」


「いやぁ、怒涛の勢いとはまさにこれやね」


 あけすけも無く虚誕妄説きょたんもうせつをぶち上げながら男は美猴王びこうおうの怒気をからかうように往なしていた。


「こりゃあかんなと。儂、腹ぁくくってあんたの前に顔を出したってわけ」


 へぇ。と感心したように男は目を丸く見開いた。細い顎を指で擦りながら、あからさまに美猴王びこうおうを品定めしている。優面で、常にへらへらと笑っているが不思議と厭な感情が湧かない。


「おや、殴らないんやね?」


 懐からごそごそと何やら取り出した。長細い筒状の物を手にとり、美猴王びこうおうの表情を伺うように、また、にんまりと笑う。


「ままま、立ち話もあれやから。もうすぐお仲間さんもいらっしゃるやろし、座ってあっちで話そ。な。おーい。名無ななしくーん。闇樂あんらくくん助けたげて」


 小柄な男の呼び声間もなく、背後の木の陰から、ぬっと一組の男女が現れた。一見して、名無ななしと呼ばれた男の体格は骨太の頑丈な作り、その顔は眼尻長く切れ、鼻高く一見して堂々たる容貌の明らかな武人であった。

 また隣の女は、黙って控えているのが不思議に思えるほど狂の相を持っていた。飢餓に陥った野獣の如く呼気が荒く、視線の焦点が狂っている。

 二人に共通する、否、二人が二人ともに異邦の独特な雰囲気を持っていた。恐らくあちらにそのつもりが無ければ言語による意志疎通すら不可能であろう。

 二人に軽く指示を投げると、小柄な男は毛筆を馴れた手付きで躍らせた。空間に何か描くように筆を遊ばせる。墨汁が幾らか飛び散ったかと思うと、みるみる漆黒の机と椅子が組み上がっていった。男は椅子に腰掛けると、筒状の物をくるくる掌の中で転がし、薄い皮を伸ばして拡げた。


「なー、これ。解るかな」


「なんだこりゃ」


 薄い皮の上には黒い墨で絵が描いてある。歪に描かれた動物か何か。よく判らない。


「これはな。【地図】っていってな。この地上の事を天上から見て描いたもんなんや。ほら、今いる場所はこの島」


「はぁ?」


 男が指さしたものは、皮の上で小さく横たわる蛹のような形をしていた。美猴王びこうおうは心から唖然とした。この目を凝らしても果ての視えない世界が、天上から眺めれば、虫けらの如き矮小さ。ため息もでない。


「なんだと。じゃあ、ここの、これは何だ?この上のでかいのは?」


「そう!それ!」


 男は嬉しそうに手を叩いた。


東勝神州とうしょうしんしゅう西午貨州さいごけしゅうに跨る大陸でな。どでかいやろ?儂らはそっから海を渡ってこの島に辿り着いたんや」


 そう遠くない距離から自分の名を呼ぶ声が反響していた。喬狐きょうこの呼び声。しかし、茫然として虚脱の状態の美猴王びこうおうの意識には届かず、耳から逆の耳へと反響は通り抜けるばかりだった。


「あぁ」


 男は、意識を呼び起こすように美猴王びこうおうの肩に手を置いた。


「そういえば〜言い忘れとったな。儂らは【九頭竜くとぅるふ商會】言うてな。大陸の商人の集まりなんよ」


「商人ってなんだ?」


「なんやそっからかい。物々交換って解るか?」


 呆れながらも嬉しそうに男が応える。


「例えばあんたが欲しい物を儂らが持っておるとする。あんたは同じくらい価値のある物を儂らにあげて交換する。暴力で奪うんとちゃうで。平和的に交換するんや」


「お前の持ってる筆が便利そうだな」


「あかんあかん、これは儂にしか扱えんわ。でな、交換するにしても儂らに要らんもん持ってこられてもお互いに困るわけやろ」


 ふむ、と美猴王びこうおうは頷いた。実の所、欲しい物は基本奪う事しか頭にないお猿なので、理解とはまだ程遠い地点にいる。


「そこで九頭竜くとぅるふ商會の幹部【黒頭こくと様】が発明したこれの登場や」


 差し出された男の掌に桃色の小さな貝がらが数枚乗っていた。


「これが貨幣や!」


「え、いらねぇよ。こんなもん。なんだこれ」


 かぁぁっ、と男は喉を鳴らした。



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