13 フラグ

 ヤンとニナはレイフを介して普通の顔見知りらしい。たまに三人でお茶をしたりするような関係。ヤンとレイフが親友だというのであれば、ニナとも関係が悪いはずはない。今日までは。

 校舎の端の、職員室や人の出入りが多い場所から一番遠いところにある、今は使われていない元物置部屋。僕はその手前の柱の陰で身を潜めてニナとヤンが来るのを待った。

 ヤンが言うには、レイフとヤンの隠れ家らしい。鍵は四つ葉会会長であるヤンが管理していて、授業をサボって一人になりたい時などにお菓子でもつまみながらここでだらだらと時間を過ごすんだとか。学園モノにありそうな話だ。

 忙しくて手が離せないレイフから渡すよう頼まれた物があると言って、ヤンがニナを連れてここへ来る。その物とは例の黒い靄を中和する薬で、人前ではやり取りできないからと。カーリンに警戒はしてもヤンにはそんなことはないニナは噂の真偽をヤンから確かめたかったのだろう、これまでの良好な関係もあって、何の疑いもなくすんなり隠れ家へ来ることを了承したらしい。校舎の端な上使われていない一角であるために、とても静かだ。少し遠くからの話し声も中身がわからないまでも誰かという判別はできた。

 感謝します、というあっさりとしたニナの声がした。物怖じしないニナは二つ上の学年のヤンであっても口調を変えることはないようだ。

「ここに来るのは初めて?」

 身を隠す僕の前を通過して、ヤンはドアの鍵穴に鍵を差す。

「……レイ様から聞いてましたが初めて来ます。いつか三人でお茶しようとはおっしゃってました」

「そう」

 二人は部屋の中に入った。

 そこにカーリンが入れるはずもなく。ちょっと寂しく思った。カーリンが良い子だったら四人で楽しいだろうに。

 それは言っても仕方のないこと。ここからが大事だ。僕は廊下に誰もいないことを確かめてから二人がいなくなったドアに近づき、鍵穴に刺さったままの鍵をそっと回して抜いた。とりあえずお茶を飲もうかと二人でティーセットを準備している中、カチリと鍵が掛かった音など聞こえないだろう。

 外からしか掛からない鍵。ヤンはわざとドアに残していった。

 これでニナは部屋から出られない。僕が鍵を開けない限り。

 そのまま僕は見張りも兼ねてドアに聞き耳を立てる。

「薬師に黒いもやを中和する飲み薬を作ってもらえた。あのモンスターから採取した体液を分解してどうとかって言ってたけど専門外なんで俺には詳しく説明できない。中身が気になるようだったらそいつ紹介するよ」

 これは本当のことらしい。靄を吐いた中ボスの体液とやらはメインストーリーではなかなか手に入らない代物らしいけどまあそこは。

 そもそも靄の件はこのルートでは出て来ないはずだし。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。これをこのまま飲めばいいのですね」

 靄が消えて魔力も戻ってくるのだろうニナにとって中和薬は喜ばしいことなのに、その声は少しも明るくない。この場にレイフがいないことがニナにいろいろ考えさせるのかもしれない。今更急ぐことでもないはずだから、レイフが直接手渡してくれたっていいのだ。今の状態で死に至るわけではないのだし。この先はわからないにしても手渡すくらいの時間はあるだろう。

「うん。でさ、レイのことなんだけど」

「はい」

「君からの質問は受け付けない前提で話すけど。この薬が手に入ったからもういいだろうって。あいつからの伝言」

 そんなことは多分言ってないんだろうな。僕は嘘をつくことに抵抗があったからあんな曖昧なことになってしまったけど、ヤンは気にならないのだろう。ニナに確かめる術を持たせなければ嘘も嘘とバレない。

「え……もういいって……どういう……」

「質問は受けないって言ったけど」

「でも」

「君とレイは黒い靄で繋がれているだけで、靄の件が片づけはそれで終わる。そうだろう?」

「でも、レイ様は」

「君を愛してるって? そういうのってどうとでも変わるだろうね。ここにあいつがいないのが答えだ」

 本当にニナに何も言わせないつもりだ。

「……あの噂、本当なのですか?」

「何のことか俺にはわからないけど、火の無い所に煙は立たぬって言うだろ」

 やっぱり信じてないのか。まあ信じたくはないか。

「ヤン様はカーリン様があのような噂を立てられて嫌な気分にならないのですか?」

「君は質問ばかりしてるね。まあいい、いずれユングクヴィスト家から婚約破棄の話がいくだろう。君もこんな学校へ通うことなく晴れて自由の身だ。あいつも肩の荷が下りただろうな」

「私は」

「心配しなくてもいい、君のご両親や君にはちゃんと払うものは払われるよ」

 うわ……金で解決か。

「私はそんなことを言ってるんじゃない!」

 ガタンと椅子が倒れる音がした。彼女らしい怒り方だ。だけど僕が言うのもあれだけど、君は平民でヤンは……あれ? 何だろう、貴族? まあ多分特権階級的な家なのだろう。良家、なんて曖昧に言われてるけどカーリンの家のことを成り上がりって呼んでたくらいだし。

「勇ましいね。俺、そういうの嫌いじゃないよ」

「……すみません、失礼しました。ですが、私はレイ様ともう一度会いたいです」

「どうだろうね? 君と会う必要がないからここにいないわけだし。それに先日君はレイと会っても会話にならなかったんだろう?」

「それは……」

「レイは言ってたよ、君に話すことはないって」

 話せることじゃなかったってことじゃ。

「レイの口から直接別れ話を聞くよりマシだろ」

「…………」

 ついにニナは黙ってしまった。

「俺が退学の手続きをしておくよ。これでも四つ葉会の会長なんでね。校長先生とも懇意だ。このまま薬を持って、レイと会わずに出ておいき」

「いやです。レイ様と会わずにこのまま消えることはできません」

「うん? 体が寂しいのなら、俺が相手しようか? ニナ・アンドレー」

 ひいいいいいいい。何てことを。

「君みたいな強気な子は嫌いじゃなくてね、組み敷けるのは非常に光栄だ」

 ヤンは余裕のある声で、まるでダンスでも誘ってるように。……僕はこの場から逃げたい……聞くに堪えない。

「……ヤン様はカーリン様と婚約をされているのでは?」

 ニナは怯むことなくヤンに言い返す。

「ああ、まあ、そう。でもまだ結婚してないし。だから俺は自由の身というわけだ」

「カーリン様が悲しみますよ」

「まさか。あの女がめそめそ泣く姿なんて想像できないな。俺のことなんか何とも思ってないよ。それにこれはカリンのお願いでもある」

 大変な言われようだが仕方ない。

「え?」

「いつでもいいから君を泣かせるようなことをしてくれってさ、方法はお好きにどうぞだと。あの女は君を貶めることができるなら何でも利用するのさ。まあでも、もう君もいなくなるしカリンもすっきりするだろう」

「私はここを去りません。貴方やカーリン様が何と言おうと」

「カリンは君と一緒なんだよ」

 ?

「……どういう意味ですか?」

「君と同じ平民の子だ。だから君を嫌う。同族嫌悪ってやつかな。なのにレイをものにしようとしているのがたまらなく嫌なんだろう」

 え?

「…………」

「これで君はカリンの秘密を知ってしまった。あの女は君を全力で排除しようとするよ。トップシークレットだからね。彼女にしたら。ほら君、急いで逃げないと」

 僕は。いや、カーリンは。

 私と一緒なのに!

 そうか……そういうことか。

「いえ、カーリン様はそんなひどいことはしません」

「ほう」

「あの方の目を見ればわかります。そこまでできない人です」

「言うね」

「臆病者だと言っているわけではありません。カーリン様は優しい方です。そういう目をしていらっしゃいます」

「ふうん」

 ヒロインにそんな事言われるなんて悪役令嬢の立つ瀬がないじゃないか…。

「カリンの見立てはまあ悪くない。だが俺へは間違ってるな君は。俺はそう紳士でもなければ親友に義理立てするような性格でもない。家のことは兄貴たちがやってるから俺がフラフラしてても誰も何も言わないのさ。見たところレイは君に手を出していない。あいつはあれで奥手だ。君を満足させる自信はあるよ、俺」

 ゲスいんですけど、ヤン。

「人を呼びます、ヤン様」

「呼んでも誰も来ないよ。魔法も使えない。ここはそういう部屋だ。外から鍵も掛かってて君は勝手にここから出ることはできない。君がここを出る時はレイと縁を切った時のみだ。俺に抱かれるっていうオプションは君次第だな。合意っていうのはもちろん歓迎だけどそうでなくても俺は一向に構わないよ」

 ギギギと、テーブルの足が引きずられたような音がする。

 ドアの向こうで二人がどんな様子なのか。わからないのがとてももどかしい。

「やめてください」

 ニナ……。ヤンだって寸止めで酷いことはしないと思うけどヒヤヒヤする。

「やめると思う?」

「私がこの薬を飲めば貴方を眠らせることができるかもしれません」

「それができるなら俺はその前に君をテーブルに縫い付けてるよ。魔法は使えないって言っただろう? ここは物置部屋だったが、その前は反省部屋と言われてたところだ。問題を起こした生徒を無力化状態でしばらく閉じ込めておくのさ。だから俺もこうやって力ずくで君を押さえつけるしかない」

「や、やめ……っ」

 カップが割れる音がした。

 これは本当に芝居なのか?

「だからやめないって言ったろ。君がレイと切れると言うならやめてもいいが」

 言ってることがめちゃくちゃじゃないか? ヤンは何がしたいんだ。

「……貴方の脅しには屈しない」

「だろうね。じゃあ交渉決裂。君は俺に抱かれるしかない。そうなればレイに顔向けできないな」

「! やっ」

 衣擦れの音……が?

「いくら気が強くても力では俺に勝てないよ、君は」

 床を蹴る音がする。必死に逃げているようなひどく必死な。

 僕の心臓がどくりと大きく鳴った。

「やめてっ」

 あ。

 ニナの声があの日のカーリンの、僕の声と重なる。

 や、やめ……。

 息が。

 誰もいないのに僕の体が動かなくなる。呼吸がうまくできなくて。

 ドアの向こうではもみ合うような音が。

 も、もうやめ……。

 僕は立っていられなくなり、壁伝いにずるずると廊下に膝をついた。

 その時。

「やっぱりここか!」

 鋭い声がして、肩を押された。

「レイフ、さ……ま」

 何とか顔を上げると葵がいた。やっと、来た……。

「ニーナに何かあったらお前にも同じことをする。鍵を寄越せ!」

 胸ぐらを掴まれた僕は壁に押し付けられる。本気だ。相手が男だろうが女だろうがこいつには関係ない。でもさ、一応主人公なんだから悪役でも女子には少しは優しくしないと……って、僕だからか……。

 僕とヤンがニナを呼び出して退学を迫ると口を滑らせたのはマリアンかボエルか。

 間に合ったのか、ヤンが待ったのかわからないけどこれでニナはここから出られる。

 僕は震える手でレイフに鍵を渡した。

 そんな僕など当然構わずレイフは乱暴にドアを開け、中に入っていった。

 ニナ、よかった……あんな思いはしたら駄目、だ……。

 多分無事に役目を終えた、そう思った途端、気が遠くなった。

 完全に意識が落ちる前にレイフとニナがばたばたと僕の前を走り去って。

「おい、カリ……唯! そうか。今のお前には辛かったか……悪かったな」

 ヤンに頭を撫でられた気がした。

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