10 忘れ物

 ヤンへの報告は明日でいいということだった。

 僕は僕で報告以外にヤンにカーリンのことを訊きたかったのだけど、用事があるらしい。当然だ。ヤンは僕のお守りをすることだけが仕事ではないだろうし、家のことや学校のこと、もしかしたら他のこっちへ来た人のフォローもしなければならないのかもしれない。

 結局、ニナ、マリアン、ボエルはギリギリポールソン先生の授業に間に合った。しかし御用聞きの仕事をしなかったニナは放課後、先生に呼ばれることになり。マリアンたちはくすくす笑っていたけど、ニナにとってそうダメージになっていない気がする。ニナが自身の評価を落とすと婚約者のレイフにまで波及することはわかっているだろうから上手く言い訳するのかもしれない。レイフに波及して婚約解消、っていうのが僕の、カーリンの狙うところではあるけれど。

 黒いもやのこととか、カーリンのこととか。ゲームをプレイしていたら知っていることなのかもしれないけど、今の僕には知る術がない。ヤンに教えてもらうしかないのだ。

 そのヤンがいないとなると僕はお手上げで。

「宿題でもしよう」

 ベッドから身を起こして机へ向かう。

 早く終わらせてボエルが貸してくれた恋愛小説を最後まで読んでしまいたい。そんなジャンルはこれまで読んだことがないし、女の子向けの小説なんてと最初は拒否反応があったのだが、読み進めるとまんまとはまってしまった。こんな男がいたらそりゃみんな好きになるよ的な男がドジな主人公の前に現れていろいろ助けてくれるというありきたりな話だけど、作者が上手い。予定調和的に先をわかっていてもページをめくってしまうのだ。ちょっと奥手な主人公を応援したくなる。

 僕は通学鞄を開けて、宿題の教科書を取りだす。

 ん?

 あれ? 教科書がない。

 ニナの課題を盗む件はもう終わっている。物のあるないはシナリオには関係ないはずだ。

 ということは、単に僕が花組の教室に忘れただけだ。残念ながら。何やってんだ。

「はあ。取りに行くか」

 教科書がないと宿題ができない。学校に忘れて宿題ができませんでしたじゃ格好悪すぎる。

 十五時。まだ外は明るい。先生もまだ学校にいることだろう。

 たまには一人で外出もしてみたいものだ。箱入り娘の移動はいつも家の誰かがついてくるので案外自由がきかない。

 だとすれば、このドレスのままではだめだ。いくらこそこそしても家の者に見つかるし、一人のんびり街を歩くには邪魔すぎる。

 僕はクローゼットから、ヤンが変装用だと言っていた白いシャツと茶色いズボン、上着を取り出した。それは飾りもなく刺繍もなく無地、大変シンプルで、言い換えれば平民の人々が着ているものだった。しかしすごく久しぶりに見る、僕にとっては当たり前の服。……とてつもなく遠い所へ来てしまったんだと改めて思う。

 シャツとズボンだけでは変装は完成しない。長い髪の毛を隠す帽子がないと。と思ってクローゼットに首を突っ込んだら帽子が二つ見つかった。

 鳥打帽と鹿撃帽。カーリンは帽子の種類を変えるほど変装して歩き回っていたのか、それとも趣味か。鹿撃帽だとなんだかケープとかコートっていう刷り込みがあるから、シャツにズボンなら鳥打帽かな。

 鏡に映るのは、鳥打帽を被った平民の少年。

 それにしてもこの格好、いやに落ち着く気がする。でも僕はこの服に当然思い入れはない。なのに高揚感というか安心感というか。

 ……もしかしてカーリンのもの? カーリンが感じてる?

 ニナと対峙した時と同じだ。僕のものじゃない感情が僕の中にある。僕へのヘルプのつもりかな。それとも、本当に同化しつつあったりして。

 でも、わからないことをいつまでも考えていても仕方ない。とりあえず追い払う。まずは忘れ物を取りに行かなければ。

 僕は家をこっそり抜け出た。

 お金は持ってないからウィンドウショッピングに終わってしまうけど、ズボンで街を歩くのは爽快だった。誰も振り向かないし、声も掛けない。僕は本屋さんで立ち読みをしたり(ちょっと怒られたけど)、路上でバイオリンを弾いている人を飽きるまで見ていたり、野ざらしで置いてあるベンチに座って空を眺めたり、野良猫を撫でてみたりした。

 カーリンももしかしたらこんな風に変装セットを使っていたのだろうか。お嬢様をやるのも結構疲れると思うんだけど。

 散歩のようにのんびり歩いて、ようやく学校へ着いた。一時間ほど街をうろうろしていただろうか。

 正門は開いていたけど、多分、この出で立ちでは入れてもらえないだろう。門には警備のような人がいる。クラスと名前を言ったところで疑われ、下手したら大騒ぎになるかもしれない。

 と、なると。

 実は門から死角になる塀の下に人が通れるくらいの穴が開いている。誰かが開けたのか偶然劣化して開いたのかそのあたりはわからないのだけど、生徒の間では有名な話で。普段は草で隠されているのだが面白半分で出たり入ったりしている男子生徒をたまに見かける。ドレス姿では通り抜けられないサイズの穴なので、女子でそんなことをする人はいないのだが、今なら僕は通ることができる。

 不法侵入のような真似事にわくわくしながら学校へ入り、スパイよろしく人と鉢合わせしないよう慎重に花組の教室までたどり着いた僕は無事教科書をゲットした。

 とりあえず一安心だ。明日みんなの前で恥ずかしい思いをすることはない。僕は持ってきた洋風の風呂敷みたいなものをポケットから取り出して、教科書を丁寧に包む。

 ちょっとした冒険だった。いや、家に戻るまでが冒険。気を抜かず風呂敷を胸に抱いて教室を出て、慎重に塀の下をくぐった。

 その途端、急にあたりが薄暗くなった。

「え?」

 どういうことだ。こんな景色の変わり方って。まるで時間で区切られているように。ここは時計が十七時をさせば一気に夕方になるのか。明るい青空が少しずつ茜色に、そして暗い青に変わっていく、なんてことはないんだな……。明かりのフェーダーが加速度的に落とされる感じ。

 あまり遅いとメアリに抜け出したことを気づかれてしまう。急いで帰ろう。

 急ぎ足で戻った方がいいかもしれないと立ち上がった時。

「小僧、何やってんだ? お宝でも盗んで来たのか?」

「!」

 僕は二人の男に囲まれた。

 二十代後半のような、平民の服を着た、姿勢悪くポケットに両手を突っ込んだチンピラ風情の男たち。

 二人と一人。分が悪いのは言わずもがな僕。逃げるのがセオリー。僕は脱兎のごとく男たちの間をすり抜けようとした。

 けど、そうは問屋が卸さなかった。

「おっと、待て待て」

 小僧と言われるだけあって男と比べたら僕の体はひと回りふた回り小さい。簡単に腕を掴まれてしまった。そもそも歩き疲れたのか思った以上に僕の動きは緩慢だった。さっさと目的を遂行せず、遊んだツケか。

「それこっちに寄越せ。大人しく寄越せば痛い目に合わせないぜ」

「嫌だ。これはお宝なんかじゃない」

 冗談じゃない。とられてたまるか。

 僕は体をよじって男を振り切ろうとした。

 が。

「ん?」

 しまっ……。

 思いっきりだったためか身を捩った勢いで被っていた鳥打帽が落ち、まとめていた艷やかな髪がばさりと肩に落ちた。

「お前、女か!」

 その言葉でもう一人の男の顔に下卑た笑みが浮かんだ。

「チンケに盗みやるより俺たちと遊んだ方が稼げるぜ、なあ?」

 腕を掴まれたまま顔を寄せられ、首筋を舐められた。酒臭い息とねばねばした舌の感触に鳥肌が立ち、吐きそうになる。

「やめ……ろ」

 もう一人の男が羽交い締めにし、シャツのボタンを引きちぎった。

「!!」

 背筋に悪寒が走り、体中を虫が這いずり回った気がした。

「離せっ!」

 ありったけの力で暴れてみたが。

「元気が有り余ってるな小娘。ガキは大人しくしな」

 ニヤニヤと笑う男の汚い手で口をふさがれた。

 薄暗い街灯の下を歩く人はいない。僕とこの男たちだけだ。周辺には店も家もないのだから夜になれば人がいないのは当たり前で。

 もがいてもふりほどけない。大きな男たちに自由を奪われて何をされるのか、分からないほど子供じゃない。

 カーリンは僕じゃないけど、僕でもある。外部から受ける諸々は僕の感情に直結する。

「綺麗な髪してんじゃねえか。こりゃ中も上物か?」

 首筋から手を入れられ髪をぐしゃぐしゃに乱される。男の指の感触が気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。なのに僕は何も抵抗できない。

 男はシャツの上から僕の、カーリンの胸をそろりと撫でた。

「っ!」

 僕の体は小さな電流が走ったように震えた。これってヤンの時と……。違う。僕だってカーリンだってこんな奴らに“いい”と感じるはずが。気持ち悪いのか気持ちいいのかなんて気持ち悪いに決まってる……。

「ひひひ、感度良さそうじゃねえか小娘よ」

 嫌だ。誰か。助けて。ヤンの顔が浮かぶ。注意されていたのに僕は。

 涙で視界が滲む。情けなくて悔しくて怖くて。

「おい、何をやってる」

 人が、来た……。

「んだあ? お前にゃ関係ねえよ。俺たちはお楽しみ中だ。邪魔すんな」

「いいから離れろ」

 そう言って近づいてきた男は薄暗い中でも淡くしかしはっきりと光る長剣を突きつけた。

「!」

 ここに来てようやく見えた、街灯の明かりに照らされた男の顔は。

「ひっ! な、なんだよっ騎士サマかよっ。平民の俺たちに物騒なモン向けんなって」

「じゃあとっとと消えろ」

「わ、わかったよ」

 あっという間に、男二人は僕を置いて逃げ出した。

「…………」

 突然羽交い絞めから解放された僕は足に力が入らず、ずるずるとへたりこんだ。

 た、助かっ……。

「馬鹿かっ!」

 そこら中に聞こえるような罵声が頭の上から降ってきた。……と言っても周りには誰もいないのだけども。

「こんな時間にこんなとこで、しかも一人でこんな格好で。あんたは何やってんだ!」

 怒られて当然だ。罵られて当然だ。返す言葉なんてない。どう考えても僕が悪くて、顔を上げられそうにない。

 ヤンの忠告を軽く考えていた。僕は男だし、今日はまだ外は明るかった。

「きょ、教科書を忘れたから……」

「そんなもんなくったって死にゃしないだろ!」

「でも宿題が」

「どこまで真面目なんだ。いつもそればっかり。いい加減にしろよ、勉強しか能がないのかよ!」

 は?

 さすがにカチンときた。勉強しか能がないって、どういうことだよ。

「ちゃんとやっていかないと恥ずかしいだろっ!」

 僕は葵を見上げると、我を忘れて怒鳴っていた。

 カーリンの評価が下がるしみんなに笑われる。偉そうにしてるくせに忘れ物をして宿題をやれないなんてと。それは僕は嫌だ。

「いい子ぶるのやめろよ!」

「いい子ぶってなんかない!」

 学生の本分は勉強だろ。勉強をするのが当たり前だ。進むべき道が見えているのならなおさら。

「自己満足で周りに迷惑かけんなよ!」

 自己満足……?

 僕が? 

「たかが宿題一つでみんなに迷惑かけてんだぞ。街の中やフィールドを探し回って。家にバレればあんたのメイドがみんなに責められることになるんだぞ」

 そうだ、メアリ。僕の行方不明はカーリン付きのメアリの不手際になるんだ。

「…………」

 彼女は何も悪くないのに。僕が勝手に。どうしよう。メアリを裏切るようなことになってしまったのか。あんなに僕を気遣ってくれてたのに。

「ごめん、なさい……」

 確かに浅はかだったかもしれない。この世界に慣れていないのに学校までならと高をくくっていた。

「ヤンにフラフラするなと言われただろ?」

「薄暗いところには行くなとは……」

「馬鹿野郎っ、同じことだろ!」

 再び怒鳴られ。

「ごめん……なさい……」

 葵は、レイフは自分の上着を脱いで僕にかけてくれた。それはとても大きくて僕をすっぽり包む。

 酷い格好をしていた。何もかもぐちゃぐちゃで。

 確かにみんなに迷惑をかけた。他所の家のレイフにまで。ヤンからレイフに連絡がいったのだろう。

 ……良かった。見つけてくれて。もし、誰も見つけてくれなかったら。

「ぅ……」

 僕は最悪の結末が浮かび、嘔吐えづいた。そうなったら僕の心は死んでいただろう。下手したら本当に死んでいたかもしれない。

「ヤンも探し回ってる。立てるか?」

 これ以上迷惑をかけられないと僕は立ち上が、ろうとしたのだけど足に力が入らない。

「……乗れ」

 レイフは膝をついて僕に背中を向けた。

「ありがとう、ございます……」

 レイフの肩に手をかけ、何とか身を起こすとふわりと体が浮いた。

「目ぇつぶっとけ。すぐ着くから」

 レイフは僕をおんぶしてくれ、家まで連れて行ってくれた。

 本当に、すぐという言葉の通り早く着いた。びっくりするぐらい、僕が歩いて学校まできたよりずっとずっとずっと早い時間で、だ。レイフの言うまま、目を瞑っていたから何がどうなったのかわからないけど。

 その頃には僕も体力を取り戻していて、門の前で背中から降ろされた時はちゃんと自分の足で立てた。

「いいか、確認だ。あんたんとこのメイドがあんたが家にいないことに気づいてヤンに相談して、ヤンから俺へ一緒に探してほしいと連絡があった。ヤンとメイドが口裏を合わせてヤンの家にお茶をしに行っていたと、あんたの両親へはそう連絡がいっていて、あんたの両親はあんたが一人で勝手に外出したことは知らない。わかったか?」

「はい……」

 早口言葉のようにあんたを連呼されてそればかりが頭に残ってしまったが、とにかく今日のことはカーリンの両親には知らせないでおくということらしい。

 確かに正直に話せることではない。一人でふらふらと街に出て行った末に男に襲われそうになったなんて聞けば、発狂されるかもしれない。

 僕はとにかくみんなに迷惑をかけた。平謝りをするしかない。何も知らないメアリにはどんな謝罪をしたら許されるだろう。

「葵……」

 カーリン目線で見るとなんて大きいのだろう。しっかり者で、口が悪くて怒るけど優しいところもある。

「アオイ? 俺はレイフだが」

 どこまでも白を切るらしい葵に僕は根負けした。葵がどう思っていたとしても僕は葵の兄貴だ。嫌われても僕はこれまで通り接する。だから。

「助けてくれてありがとう」

 僕は葵に頭を下げた。

「ヤンに頼まれたからな。あんたを好きとか嫌いとか関係ない」

 そっけなく葵は返す。まあそうだろう。レイフとヤンは仲が良いのだろうし。あっちでもこっちでも。

「僕の身勝手でみんなに迷惑をかけた。明日からはあの人ヤンの言う通りちゃんとする」

 それでもちゃんとお礼を言っておきたい。助けてくれたのは葵だ。

「……あんた、現実をちゃんと見ろよ」

 呆れたような声でそう言うと葵は僕に背を向け、じゃあ帰るからと闇の中へ歩き出した。するとすぐに姿が見えなくなった。

「現実? ちゃんと見てるよ。あ、いや。僕の現実って……どこだ……?」

 いやいや、それも問題としてはあるんだけども。

 それよりも。今。

 葵は消えなかったか? 遠目に見えなくなったとかじゃない。僕から数歩歩いて、一瞬にして消えた気がした。さっきの高速移動?といい、一体葵って。

 僕の頭はパンク寸前でもうこれ以上何も考えられなかった。葵に殺されるかもしれないということさえ、すっかり頭から抜け落ちていた。

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