8 メアリ
手作りのレモンジャムをスコーンに付けて一口頬張る。
美味しい。とても美味しい。
お菓子自体、僕はそう食べる方ではなかったけど、ここへ来てからはおやつの時間が楽しみになってしまった。甘味はしっかりあるけど控えめなのでいつくでも食べてしまえる。いちごジャムがとにかく絶品だ。
平和だ。
朝起きて朝ごはんを食べて学校へ行って楽しく学んで家へ帰る。怒涛の数日のあとのこんな何もない日はとても幸福で。疲れがたまっているのか少し体が重い気がするけど、それを感じられるほど僕自身に余裕があるということだ。気分はすがすがしい。
今はヒロインと主人公の心がぐっと接近するターン。婚約者とはいえ、まだあれこれ越えなければならないものがあるんだそうで。よく考えたら十六歳と十七歳で婚約というのもびっくりだ。そういう世界なんだと言えばそれまでだけど。……カーリンもか。
だからカーリンは出番なしの蚊帳の外。しかし彼女だって人の子。ニナへの意地悪ばかりがやるべきことではない。勉強だってしなければならない。どうもカーリンは勉強が嫌いではないらしく成績も良いらしいのだ。
とは言え、僕個人としての懸念材料がなくなったわけではない。
葵が主人公としてここにいた。その理由。
僕が悪役令嬢をこなせるかどうかを監視するというならいいけど、帰れないようにしようと、僕を殺そうとしているのならばどうするべきなのか。
「カリン様、何か考え事ですか? 私が聞くことで落ち着かれるのでしたらお話しくださいませ」
控えていたメアリがスコーンを手にしたまま固まっている僕に声をかける。行儀が悪いな、僕は。
ああ……メアリは知っているのだろうか。
「レイフ・ユングクヴィスト様が先日教室に来たの」
「レイフ様がですか? カリン様をお尋ねに?」
……メアリはあいつのことを知ってる。
「いえ、婚約者のニナ様が同じ花組だから」
「えっレイフ様がご婚約? それはおめでたいことですね。でもカリン様はヤン様がいらっしゃるとはいえ複雑なのですね」
「いや、あの、それは」
「カリン様が小さな頃からレイフ様を慕っていらっしゃったこと、メアリの心の中だけにずっと留めております」
は? どういう……。
もしかして、だからニナを? 横取りしようとしてるんじゃなくて、横取りされたと思っているのか。
「レイフ様は「お花の指輪の君」ですよね? とても嬉しそうにお話しされる小さなカリン様はそれはとても可愛らしくて」
「ええと、メアリ? 私そんな話した?」
「ええ、カリン様が七歳、私が十歳頃のお話です。旦那様がカリン様をお連れになってとあるお屋敷に行かれた時のことです。その時に一緒に遊んだレイフ様から慰めにお花の指輪をいただいたのだと、私が拝見した時はすでに萎(しお)れていましたが、白いお花の指輪を小さな指にはめて見せてくださいました」
「そ、そうだっけ……」
「みんなで遊んでいる時にカリン様が転んだんだそうです。起こしてくれた後、作ってくださったとおっしゃってましたよ」
そんな話があったのか。
「ヤン様とのご婚約がお決まりになるまではレイフ様の目撃情報やお召し物ののお話をよくされていたじゃないですか」
「ああ、まあ……でも向こうは覚えてないだろうし」
そんな感じだった。名前を確認されるほどに。それ以来、面と向かって会うこともなかったのだろう。カーリンだけが心に残った出来事。
密かに恋心めいたものをずっと持っていたものの、ヤンとの婚約が決まり、そしてレイフはニナと。父親の命令には逆らえなかったんだな。家同士の結婚、か。
「ほら、私にはヤン様がいるし、レイフ様も伴侶を見つけになられてよかったなって」
世の中どうしようもないことはある。こういう経験をしてカーリンも大人になっていくのだろう。
「そうですね、皆様そういうお歳になられて、それぞれのお家を守られていくのですね」
お茶のお代わりをメアリは注いでくれた。
そしてポットを置くと、急に僕の手をがしっと握った。
「カリン様!」
「な、なに?」
メアリはぐっと顔を近づけ、真剣な眼差しで僕を見る。
「私はずっと、ずーっとカリン様のおそばにいたいのです!」
「え、ええ、それはもちろん……」
「口には出せませんが、僭越ながらまことに僭越ながら妹のように思っております」
言ってるじゃん……。
「カリン様の行く末だけが心配です」
まあ、こんな子なら心配にもなるか。
「あ、ありがとう……」
「ですから、このメアリをお放しになりませんよう。この身が動かなくなるまでカリン様にお仕えしたいのです」
「メアリ……」
熱烈な申し出に。
どんだけ心配されてるんだと思わないこともないけど、カーリンに味方がいることだけはわかった。メアリは優しいな。
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