フリースタイル・ピアニズム『白の復讐』

@Euclid0111

一章『白の復讐』

第1話 『絶対の音楽』

 作品の演奏には、それぞれに異なる性格を与えなければならない。それが出来ない演奏家は自動ピアノと変わるところはない

 ──セルゲイ・ラフマニノフ



 †



 ぽつぽつと降り注ぐ雨を見上げ、白髪の男は自分が今まで眠っていたという事実に遅れて気が付いた。寝ている間に勝手に流れた頬の涙は、おそらく彼にとっては見慣れたものなのだろう。彼は特段気にする様子もなく、涙のしずくを人差し指で軽く拭う。


「進まねえな」


 フロントガラスに降り注ぐ静かな雨音を聴きながら、隣の席の黒髪の男がそう呟いた。渋滞する道路から見える景色は数分前から一向に変わらず、交互に明滅する信号機の三原色と無数の車たちのバックランプの赤が、まだ前には進めないことを鬱陶しく伝えてくる。


「間に合わなかったら今日のお昼は伊藤の奢りだ」

「は⁉ いや、滅多なこと言うんじゃねえよ‼ お前の問題だろ⁉」

「冗談だよ。でも……ぼやいても仕方のないことだね」

伊藤と呼ばれた黒髪の男は、助手席の白髪のほうへと視線を移す。

「仕方が無いって……。遅れて困るのは矢神……お前のほうなんだぞ……?」

「その時はその時だよ」


 そう言う矢神に伊藤はハンドルを握ったまま肩を竦めた。本当に、コイツには危機感というものがないのだろうか……? 伊藤は窓ガラスに映る矢神の姿を見つめ、そんなことを思う。

 白髪に黄金色の瞳。真夜中の静かな月明かりのような静謐な雰囲気を纏ったその男は、これから赴く舞台とはまったく場違いとも思えるような白の作業着を纏い、いつも通りの落ち着き払った表情で窓の向こうをすっと静かに眺めている。


 矢神礼──。

 年齢、二十二歳

 性別、男

 身長、174センチ

 体重、58キロ

 血液型、A型

 誕生日、12月10日


 特技、ピアノの演奏──


 伊藤はようやく動き始めた渋滞の列に視線を移し、ゆっくりとアクセルを踏み込んでいく。エンジンの僅かな振動を感じながら、長蛇の列のその先に見える摩天楼のような巨大なホールを見上げた。あれが、これから自分たちの進む先、目的の場所。挑む世界。『真生堂第一ホール 東会場』だ。


「ようやく進み始めたね」


 隣のピアニストのその声に伊藤はふっと微笑む。


「復讐の時間だ」


 見なくても分かる。今、彼の瞳は、月夜に煌めく獣のそれだ。

 彼の父、矢神櫂はここ、新生堂第一ホール東会場で、圧倒的なピアノ演奏により殺された。

 その仇が、今回の大会「新生堂国際ピアノコンクール」に出場しているのだ。

 矢神は待っていろと呟く。そして、その仇の名を続けて口にした。

 覚悟を刻むようにして。


「神威、レイジ……」



 †



「なんとか間に合ったね」

「開会式には参加出来なかったが……」


 二人は駐車場から会場へと走り、受け付けを済ませると急いで控え室へと向かった。矢神の対戦はBブロックの二回戦。伊藤はピアニストではなくサポーターとしての参加だが、エントランスや廊下にいるピアニストたちの緊張した、ピリピリとした雰囲気には思わず飲まれそうになる。ここにいる奴らは全員音楽に魂を売った怪物たちだ。その怪物たちがこれから行われる演奏を前に、まるで獲物を前にした肉食獣のような表情をしているのだ。


 矢神が待合室の扉を開くと、ちょうど部屋の中から出てこようとしていた出場選手と正面から向かい合わせになった。彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐににこりと微笑み、一歩こちらへと踏み出してくる。


「あはっ! 君、初めて見る顔だ!」


 桜色の髪の少女──。

 まるでアイドルか何かのようなフリルのついたド派手なスカートに、腰まで伸ばしたツインテール。瞳の中にはきら星が瞬き、一目で「一般人」ではないことが分かった。

 伊藤は思わず一歩退き、彼女の顔に目を見張る。見たことがある……なんてものじゃない。現代日本に住んでいて彼女を見たことがない人間などほとんどいない。なぜなら……。


「勇気……ミライ……!」

「ふふっ! そうだよ! 本物の勇気ミライだよ~っ!」


 彼女は正しく「本物」。テレビ、ラジオ、雑誌、あらゆるメディアが彼女のことを取り上げ、駅前や動画サイトの広告でも引っ張りだこの今を輝く「本物のトップアイドル」……。それが彼女……今目の前にいる「勇気ミライ」なのだ。

 そんな彼女を前にして矢神は首を傾げた。


「初めて見るのは当然だと思うよ。僕と君とは初対面だ」

「うん。私、『映像記憶能力』を持ってるの! だから会ったことがあるファンの人たちの顔は全部ちゃ~んと覚えてる! だから、私には分かるの……。君と私とは確かに今回が初めまして。だけど、少しだけ見覚えがある……会ったことは一度もないのに、少しだけ……」


 勇気ミライは矢神の瞳を覗き込み、それから何かに納得したように微笑んだ。


「あ~! なるほどね? 君、矢神櫂さんのご親族だ!」

「なぜそれを……」

「見れば分かるよ~! 顔付きがすごく似てるし! 特にその黄金色の瞳……。一時は世界の音楽界をたった一人で牽引したとも言われた、誰もが知ってる超世界級ピアニスト! うん、忘れるはずがない顔だ!」


 ミライは矢神と伊藤の表情から事情を察したようで、口元に人差し指を添えてニッと笑う。


「えへへ……これは秘密のお話だったかな? でも、へぇ~……面白いことになってるねぇ、今回の大会は」彼女は振り返って言った。「Bブロック第一回戦、私の対戦相手は現ピアニスト界隈で最強格の一人、神威レイジ……つまり、君のお父さんを殺した張本人だ……」


 モニターに表示された対戦表には目の前の彼女と、矢神の復讐相手、両者の名が表示されている。それを見てミライは矢神から顔を逸らす。


「あーあ。残念だったね……君の復讐は敵わないみたい……」


 ミライは部屋から出て、それからにこりと笑って言い放った。


「神威レイジは私が倒す! 私は奴を倒して世界最強のピアニストになるの。だって、世界最強のアイドルの私が世界最強のピアニストの神威レイジを倒したらさあ! それって、もうこの業界では私には敵なしってことでしょ⁉」閉まっていく扉の向こうで、彼女は宣言する。「音楽業界は全~部私のものにするの! そしたらさ、私は矢神櫂を越えた存在になれるってことでしょ⁉ それってきっと最高だよっ‼」


 閉まっていく扉を見送り、伊藤は苦虫を噛んだような表情でモニターを見上げた。勇気ミライは現トップアイドルだが、彼女がスカウトされたのはピアノコンクールでのことだった。つまり、彼女はアイドルだからと言って甘く見ていい相手ではないということだ。


 矢神はモニターに映った彼女を見上げ、それから呟いた。


「最高とか最強とか、とにかく、「最」って言葉が好きなんだね」

「感想そこかよ……。まあいい。とにかく見ようぜ。今のレイジの実力を測るには最高の計測器だろ。アイツは」


 伊藤はモニター越しに、二人の奏者がピアノの前に立ったのを見ると、思わず彼らのその姿に釘付けになった。

 十年前、同じように矢神の父が、レイジとここで戦うのを目の前で見た。その時のことを思い出し……。


「始まるな……」


 新生堂第一ホール大会、Bブロック一回戦が、幕を開ける……。



 †



 ミライは暗い闇の中を確かな足取りで進んで行く。ステージの向こうには、最強のピアニスト、神威レイジが無表情に、無感情に立ち尽くしている。彼はステージ上から客席のほうに一礼し、それからミライのほうにも一礼し、ピアノのほうへと向かった。その姿は燃え尽きた死骸のように覇気の感じられないものだったが、それでもミライは油断をしない。相手は今世界で一番輝いているピアニスト……少しでも手を抜けば、文字通り、『死ぬ』。


 ミライは彼と同じように礼をすると、自らのピアノの前に腰を下ろした。


 この大会は二台のピアノを用いてそれぞれが各々選択した楽曲を演奏し、その優劣を決する。二台が別々の音楽を奏でれば曲がごちゃまぜになって聴き手は混乱してしまう? そんな疑問を感じさせた時点で、そんなピアニストにはこの大会への参加資格などは初めから存在していない。ここにいるのは、『音の世界の狂人』だけなのだ。


 敵の音を凌駕しろ。

 敵の音を圧倒しろ。

 敵の音を破壊しろ。

 敵の音を利用しろ。

 敵の音を躱してみせろ。

 自らの音で、この世界を支配してみせろ──。


 それが、新生堂国際ピアノコンクールの基本原則。敵が何を奏でようと、決して自らの世界を壊してはならない。どのような雑音であってもそれを利用し物語を紡いでいく……。観客の前で自らの世界を構築出来ないような輩には、この競技の中においては存在する価値すら認められないのだ。


 白と黒と、二色で構成された鍵盤の上に互いが指を添え、二つのピアノが、同時に互いの世界を構築していく。

 試合が、始まった──。


 神威レイジ

『交響曲第九番 合唱付き』


 勇気ミライ

『リベルタンゴ』


 鍵盤上を指が走り、音符の粒が会場を交錯する。

 レイジの選曲は言わずと知れた交響曲、『楽聖』ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第九』……。それに対するミライの選曲はアストル・ピアソラ作曲のタンゴ、『リベルタンゴ』だ。


 二つの音色が会場中に響き渡り、矢神は思わず待合室から走り出した。「これはモニター越しに見ていいものじゃない」それを最初の一音で本能的に察知したのだ。伊藤も後を追い、二人は観客席から二人の演奏を見下ろした。

 そこにあったのは、互いに互いを削りあう、二つの音色の世界が紡ぐ、『殺しあい』だった──。

 

 ミライは指をしならせ、敵が計画通りの動きをしていることに笑みを浮かべた。


 ベートーヴェンの『交響曲第九番 合唱付き』は、その名を省略し『第九』もしくは『合唱付き』と呼ばれ、世界中で親しまれる交響曲の中の交響曲。由緒正しいクラシック。日本では年末に歌われることが多いため聞く機会の多い『誰もが知っているクラシック音楽』の筆頭だ。


 確かな技巧を持ったレイジであればどのような楽曲を弾いても観客を魅了することは容易だ。しかし、レイジは序盤から本気らしい。観客が聴いてすぐに分かる楽曲を選択することによって会場との一体感を底上げし、観客の精神を自らの世界で塗りつぶす。この大会の基本的な戦法の一つだ。


 レイジの第九は観客たちの心の奥底へと潜り込み、一瞬にして会場中の全ての心を鷲掴みにした。彼の奏でる正確無比かつ柔軟で隙のない音楽は、観客たちの感情を見事に一体化させ、彼らの心を全て絡めて一つの音楽を作り出してゆく。

 それはさながら、声無き合唱のようであった。


 しかし……。


「させない!」


 隙が無いのなら、こじ開けてしまえばいい。

 それがこの大会の基本原則。

 ミライの奏でるリベルタンゴが瞬時にして観客たちの目の前に踊り出た。


 タンゴ──。

 それは十八世紀後半から十九世紀半ばにかけて、南米で生まれた『ダンス・ミュージック』の一ジャンル。その最大の特徴は「四分の二拍子という決められたリズム」の中で作曲がなされているという点……。これはタンゴがダンス・ミュージックであることに由来している。


 ダンスをするためにはリズムが必要であり、逆に、リズムさえ分かっていれば知らない楽曲でも踊り手は即興でも踊ることが出来る。既に知っている楽曲とリズムが同じだから、それに合わせれば踊れるのだ。

 社交界で人と人とが互いに手を取り合って楽しむために作られた、簡易化されたフォーマット。それが『ダンス・ミュージック』の根底をなす考え方だ。


 しかし、ミライは敢えてそれに『逆らった』。


 誰もが知っている居心地の良い安らぎの世界が、誰も知らない異邦の音楽によってこじ開けられる。世界に、風穴が開けられた……。


 矢神はその光景を見つめ、呟いた。


「リベルタンゴはタンゴの規則性を破壊して作られた『異端のタンゴ』だ……。作曲者であるピアソラはタンゴの「四分の二拍子」というリズムを破壊し、ジャズやロックの要素を取り入れ、『他のタンゴとの互換性をあえて捨て去った』。これによりリベルタンゴはダンス・ミュージックとしてのタンゴを、規則を、殺し……純粋な聴くための、弾くための音楽としての独自性を開花させた……」


 ──敵の音を破壊しろ──


 彼女は、自分の音楽を武器にして、レイジの世界を破壊するつもりだ。


 矢神はミライの指の動きに息をするのも忘れて魅入っていた。

 彼女の演奏は文字通りの『超絶技巧』。

 ジャズの要素を取り入れたこの楽曲は構成自体がシンプルであり、極限まで演奏者のための楽曲となっている。そのため自由に弾くための余白があり、そこに演奏者の個性を取り入れることで独自の解釈が可能なのだ。


「私は……私が私自身であることを武器にする!」


 ミライは自らのパフォーマンスで観客席に呼びかける。それはタンゴであると同時にロックであり、ジャズでもあり、アイドルでもあり、勇気ミライそのものとも呼べる異質な音楽となっていた。

 観客たちの興味が、聴き慣れたクラシック音楽から、聴きなれないリベルタンゴへと移ろっていく。


 圧倒的な力を持った権威あるレイジの第九とは対照的に、権威に刃向かうミライのリベルタンゴ。

 それは、現状の音楽界を自分色に塗り潰し、新たなる世界を創造するという彼女の宣言でもある。

 不可能とも思えるような彼女の絶叫に、観客たちの心情は次第にライドしていく。


 アイドルは夢を見る。


 それは叶わぬ夢かもしれないけれど、だからこそ、ファンはそれを応援したいと思うのだ。


「ここは私のステージだ! そして、私たちのステージでもある!」


 ミライの指が夢を描き、それが音となって会場中を駆け巡る。

 観客たちはミライの描く夢を前に、思わず息を飲んだ。

 なぜ、自分は生きているのか。

 何をするために、生きているのか。

 何のために、日常を送っているのか。

 自分自身が溶けていき、消えて行きそうになる平凡な日常……。

 先の見えない不安な世界……。

 それらすべてを蹴散らして、勇気ミライの楽曲は声高に宣言する。


 お前たちの絶望や不安、すべてまとめて、私の夢に賭けてくれ!!!


 ここで、本物を見せてやる。


 勇気ミライ

 『ポロネーズ第六番 英雄』


 こじ開けた世界に新たな一撃を叩き込む。

「コンビネーション……!」

「ショパンの英雄ポロネーズ……これも弾き手によって表情が変わることに定評のある楽曲だ……! それに……」

 敵の音を利用しろ。

 ミライはピアノ越しに敵の顔を見つめ、ニッと微笑む。


 英雄ポロネーズは『楽聖』ショパンの作曲した楽曲だ。彼は生涯を通して自らの楽曲に副題を付けるということをしなかった。故に彼の紡いだ楽曲の副題は全て彼の周りの人々がその曲から着想を得て、自らの見た幻想を副題として名付けたものだ。それは、この『英雄』もまた例外ではない。


 二月革命の動乱の中、人々は混沌とした世界の中で『英雄』の夢を見ていた。ショパンと同時期の女流作家ジョルジュ・サンドは彼に宛てた手紙の中でこの曲をこう評していた。「霊感! 武力! 活力! 疑いなくこれらの精神はフランス革命に宿る! これよりこのポロネーズは英雄たちの象徴となることだろう!」

 ショパンがそれを期してこの楽曲を作ったかどうかは定かではない。ただ、人々が彼の楽曲に英雄の姿を見たことだけは確かなのだ。革命の、英雄の姿を……。


 クラシックにおける圧倒的な権威として、最強のピアニスト、神威レイジの奏でる『第九』を相手取り、ミライの選曲は状況そのものを武器に変えた。自分自身を武器にした。リベルタンゴによって観客たちの心を惹きつけ、それを踏み台にしてさらに高みへと登っていく。


 『最強』が入れ替わる。それはまさしく『革命』であり、それを望むものは『英雄』と呼んでもいいだろう。


 ミライの『英雄』がレイジの『第九』に追いすがる。互いの世界を削り合いながら、どちらがより優れた音楽なのか、演奏家なのかを競っている。


「初戦でこれかよ……化物が……!」


 伊藤はそう呟き、目の間で行われている幻想的な音の戦いに息を飲む。二台のピアノがその演奏に軋みを上げ、客席の聴衆たちは今まで聞いたこともないようなその異常な光景に、音楽に、動揺を隠せない。あるものは絶叫し半狂乱で踊りだし、あるものは思わず立ち上がり涙を流した。


 二つの音色の世界が全く壊れないまま、人々の脳の中で調和し交じり合い、互いを殺しあいながら調和しているのだ。そのドラッグ染みた情報の暴力に人々は幻覚を見る。


 二つの怪物が、ステージ上で雄叫びを上げている。その声音は、咆哮は、音楽のすべてを内包したピアノの弦による絶叫だ。ミライの怪物は狂ったように踊り狂い、それによって舞った音符の羅列は剣となってレイジを貫き切り裂こうと暴れている。それに対しレイジの放つものは『闇』だ。どこまでも深淵で、一体どこまで続くのか分からない底知れぬ闇……。英雄が駆け闇を斬り割いても、そこにあるものは無限の闇……。ミライが裂き、貫き、削り、破壊し、それでも闇は闇であり続ける。


 『絶対の音楽』


 ミライは、矢神は、伊藤は……。そして、ここにいる聴衆の全ては、既にこの戦いの勝敗を理解していたのかもしれない……。

 レイジの指は厳かに駆け、ひとつひとつの鍵盤が無限の闇を湛えた『第九』を奏でていく。

 完成された楽曲を、完成された演奏家が奏でる……。ただそれだけのことがどれだけ異様な奇跡であるのか……。それを観客の全てが知っているとは思わない。ただ、それを言語化して話すことは出来ずとも、本能的に全員が理解していた。


「絶対だ……。あの音楽は、絶対だ……」


 観客の誰かがそんなことを呟いた。


 ピアノ演奏に限らず、あらゆる楽器を用いた演奏に、『絶対』はない。作曲家自身が自らその楽曲を演奏したとしても、必ず、『絶対』にはならない。それは音楽というものが、作曲家だけではなく、演奏家だけでもなく、聴衆だけでもなく、それら全てのあらゆる要素によって構成されているものだからだ。


 聴き手が耳の悪い時期に聞けばそれがどんなに優れた演奏だろうと、完璧な音楽だろうと、絶対と呼べるものにはならない。つまり、絶対の音楽とは、作り手と受け手とが、それぞれが最高の状態で調律された時にのみ完成する『恍惚』なのだ。


 ミライはピアノ越しに敵の顔を見た。敵は全く表情を変えぬまま、厳格に、重々しく閉ざされた口を開く。


「ひとつのホールに観客を集め、全員に同じ楽曲を聞かせても、皆同じ感想には至らない。それぞれの席によって聞こえ方は違う……。健康状態や精神状態によっても、音楽の評価は変わってしまう。よって、どれだけ優れた演奏家だろうとすべての観客を魅せる演奏は……『絶対の演奏』というものは……原理的に絶対に不可能な奇跡だと言える。だが……」


 男の瞳に、赤い炎が揺らめいた。


「俺の能力は、聴衆全員を『絶対の領域』に連れて行く……」


 瞬間、ミライの瞳にも同じ『赤』が宿り、指が瞬時にして弾けた。


 勇気ミライ

 『交響曲第九番 合唱付き』


「私の能力は……」


 彼女が言い終わる前に、伊藤は呟いた。


「『映像記憶能力』だ……」


  彼女は確か言っていた。自分は一度会った人間なら忘れない。ファン全員の顔を覚えていると。それはアイドルにとっては凄まじい威力を誇る能力だろう。一度でも出会えば、ファンは皆、彼女と互いに顔と顔とを知り合った対等の存在になれるのだ。今を輝く夢の中の存在が、自分のことを認知している。自らにとって神にも等しき存在が、崇拝の対象が、自らの存在を認めてくれる……。そこにいたということを、忘れずに、一生覚えていてくれる……。ただそれだけのことが彼女のファンの心をどれだけ射止めたことだろう。数万、数十万、下手をしたら数百万……。彼女の中には出会ったすべての顔がある。それらすべてが彼女のことを応援する。笑顔にする。彼女が歌い、踊り、手を振り、笑いかけるのは、彼ら彼女らを幸せにするため。そして、その笑顔を見て、自分自身が強くなるため。


 矢神はその演奏を見て口元に手を当てた。ミライは自分の指がもつれていくのを感じ、呟いた。


「あぁ……ダメだ……」


 客席の矢神は呟く。


「焦りが出た……か」


 ミライの『第九』は徐々にほつれ、レイジの闇に圧倒され、「彼女の世界」は崩壊していく。


「自分が何者なのか……会場の異様な雰囲気に呑まれ忘れてしまった。目の前の『絶対』を見て、それを『倒す』のではなく、『再現』しようとしてしまった……」


 矢神はミライの壊れていく世界を見つめながら、悲しげに言った。


「もったいない。みんなが見たかったのは、聴きたかったのは……『勇気ミライの演奏』だったのに……彼女自身がそれを壊してしまった。レイジに対抗するために、レイジになろうとしてしまった……」


 伊藤は矢神の言葉を聞き、もはや取り返しのつかないほどに壊れ果てた彼女の世界を見つめる。


「真似したくなるほど、凄い演奏だったってわけだ……」


 ミライには確かな技量があった。世界最高のピアニストと互角に戦えるほどの超絶技巧があり、敵の動きを予測して作戦を立てる知恵もあった。そして、アイドルとしてトップに踊り出るために彼女を支え続けた特殊能力、『映像記憶能力』があった……。しかし、それら全てが、裏目に出てしまったのだ。


 ミライはレイジの演奏を記憶し、それを完全再現しようと試みた。聴衆の心は既に掴んでいる。だから、彼とまったく同じ演奏が出来ればこの戦いで負けることはない。

 そう踏んで地獄への一歩を踏み出した。それが彼女の間違い。彼女の指は、彼女の記憶について行けるほど柔軟ではなかった。レイジの絶対を掴もうとして、そこから手が滑ってしまった。崩れ続ける崖をどうにか這い上がろうと藻掻き、『絶対』を掴もうと躍起になり、自分自身の戦い方を放棄してしまった。自分が何者なのかを戦いの中で忘れてしまったのだ


「出来ると思ってしまったんだろうな……。実際、出来たのかもしれない。あれだけの技巧があれば。ただ、レイジの演奏は一朝一夕で再現できるものではない。この世界のトップレベルのピアニストは、みんなそうだ。だから、彼女は彼女であり続ければ、よかったのに……」


 出来ることが多すぎた。才能がありすぎた。その有り余る力に振り回されて、彼女は余計なことをして失敗した。

 レイジの瞳は既に赤くはなかった。漆黒の闇を湛えた瞳で、未だ足掻き続ける対戦相手のことを冷ややかに見下ろす。


「私は……私はみんなのことを覚えている……みんなが、私のことを応援してくれて……っ! だから、まだ負けられない!」


「それを一瞬でも忘れてしまったことが命取りだった。残念だが、これでお終いだ」


 最後の音が、ミライの第九を完全に破壊した。

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