腹が空いては良い夢も見れぬ。

鈴木 正秋

第一話

電灯一つない一本道を歩いていた。

手が届く範囲しか見えなくて、少しでも一本道から外れようとすると、途端に足が空を切る感覚に襲われる。

だけど、止まっていると、後ろから現実という壁に突き飛ばされそうな気がして、歩き続けるしかない。

そんな夢だった。


僕は今朝見た夢を思い出しながら、ネクタイを緩めた。

電車から見える灰色の建物からは暖かな光が幾つも漏れており、電車の窓に反射する僕の顔はいつも以上に死んでいる。

三流大学を卒業してから半年、七十六分の一がようやく終わったか。

いや、年金だけで老後は厳しいと言われている、八十六分の一か。まだまだ先は長いな。


『次は熊鹿駅~。熊鹿駅~。お出口は左側です』


僕は羽織っていたジャケットからスマホを取り出すと、誰かから連絡が来ていないか確認する。

大学を卒業すると同時に家族以外の連絡先を削除した僕に連絡なんて来るわけがない。家族から連絡が来るとしても、電話だけだ。


『熊鹿駅~。熊鹿駅~』


社会への不満を叫ぶHIPHOPが流れるワイヤレスイヤホン越しに、現実の電車のアナウンスが聞こえる。

HIPHOPを一時停止させて、僕は現実に戻る。


電車を降り、駅の改札を出て、数分歩くと僕が一人暮らしをしているアパートへとたどり着く。

アパートの屋根が遠くで見えた時、クミンの香りが僕の鼻をなぞった。


近所で誰かがカレーを作っているのか。

舌先をピリリと刺すスパイスとほくほくの野菜たちが、真っ白な米の上に乗せられる。

想像するだけで口の中でじんわりと唾液が分泌されていくのがわかる。


カレーを食べられる家庭を羨ましいと思いつつ、僕は自分のアパートの窓を見ると、ある違和感があった。

僕が住んでいるアパートは一階と二階、それぞれに三つの部屋がある。そして僕の部屋は二階の二〇一号室だ。

その二〇一号室の窓から明かりが見えるのだ。


「もしかして」


僕は小さく呟いてから、ため息を吐いた。

僕の部屋にいる主が大体わかったからだ。もし母親や父親、兄、姉が僕の部屋に来ているなら、僕に電話が一通入る。そういう人たちだ。

しかし、妹の涼花は現在高校二年生で、多くのSNSを活用しているスマホ依存症だ。そのため、僕がラインやインスタなどアカウントを全て削除した時には連絡が不便だから一生連絡とらないかもと言っていた。


そんな妹であるため、僕に何も連絡せずに僕のアパートに来ているのは彼女で間違いないだろう。


トントンとアパートの錆びかかった外階段を昇り、二〇一号室のドアの前に立った。ドアの横にある小窓から人影が動きを止めたのが見えた。ポニーテールの髪型が止まり切れず、小さく揺れていた。


僕はドアノブの鍵を開け、ドアを引いた。


「おかえり。社畜兄貴のためにカレー作っておいてやったぞ」


カレーがべっとりと付いたお玉を片手に高校の制服姿の涼花がお出迎えだ。

これほど不快なことはない。

さて、まずどこから指摘したらいいものか。

まず、と僕は涼花の顔をじっくりと見ながら、僕は人差し指で地面を指さした。


「なんでお前ここにいる?」


「それはもちろん、仕事でお疲れの兄貴のために夕ご飯の準備を…」


と、涼花はこの後に何か続けそうな雰囲気だったが、僕の目とばっちりと合ってしまったからか、言葉を詰まらせ、視線を逸らした。

逃がさないように、僕は涼花の視界に回り込んだ。


「本当は?」


「え、えと。……兄貴が住んでいる街で好きなアーティストのライブがあって……。その前乗りで……」


「やっぱりか」


僕が住んでいる熊鹿市には大きな球場があり、僕のアパートから徒歩十五分で辿り着く。

他に観光地がない辺鄙な場所にあるというのに、そこでは音楽ライブや様々なイベントが行われている。もちろん野球もだ。


そして、涼花は熊鹿市の球場で好きなアーティストがライブをするから、僕のアパートに前日から来たのか。


「まぁ、俺はいいけどよ。母さんにはしっかりと言ってきたんだよな」


「もちろん」


それならいいけど、と言いながら、僕はネクタイを緩めて、ワイシャツの第一ボタンを外した。そして、僕はロッカーの中から来客用の座布団を取り出して、部屋の真ん中に置かれているローテーブルの近くに敷いた。


「兄貴、カレーどのくらい食べる?」


座布団の上に腰を下ろすと同時に、涼花に問われた。

僕はお腹を擦って、「んー」と唸った。

そういえば時間があまり無くて、昼ご飯しっかり食べられなかったんだよな。せっかく涼花が作ってくれたわけだし、多めに言っておくか。


「二人前で」


「りょーかい」


涼花はカレーを温めていたコンロの火を止め、少し離れたところに置かれた炊飯器を開けた。炊飯器の中から白い湯気が立ち昇り、部屋の中をカレーライスの匂いで充満させる。


ああ、腹が減った。


僕はそんなことを思いながら、キッチンで底が浅い大きい皿にご飯を盛っている涼花の背中をちらりと見た。

家でご飯を作ってもらうなんて、何年ぶりだろうか。

大学進学を機に僕は一人暮らしを始めた。一人暮らしをするということはもちろん朝も、昼も、夜も自分でご飯を用意しなければならない。前には実家に帰って、母さんにご飯を作ってもらうこともあったが、就職活動を始めた頃から実家に帰れていない。


「よし!良い感じに盛れた」


キッチンで涼花が声をあげた。

そして、皿の端を持ちながら、僕の方へと恐る恐る近寄ってくる。底が浅い皿を使ったからか、少しでも傾けたら、カレーが零れてしまう。


だけど、涼花はカレーを零すことなく、丁寧にローテーブルの上に皿を置いた。カレーから立ち昇る湯気が僕の鼻先をなぞる。

様々なスパイスが混ざり合った匂いが、僕の肺に取り込まれていく。

皿の左側にはとろとろの茶色に包まれたじゃがいもとにんじん、たまねぎ、豚肉が陣取っており、右側には真っ白な米が陣取っている。


嗅覚と視覚だけでも幸福感で満たされる。

だが、それでも腹が鳴る。


「私特製激辛カレー。残したらカレーを無限に食べさせられる夢を見る呪いにかかるから」


「どんな呪いだよ」


と、僕が笑うと、言った本人である涼花も笑った。

残すわけがない。

僕はカレーの前で手を合わして「いただきます」と小さく呟いた。踵を返してキッチンの方へと向かっていた涼花が「めしあがれ」と言った気がする。


スプーンを手に取ると、カレーとライスの境目に差し込んだ。

全て混ぜてしまうのは勿体ない気がして、皿の真ん中だけで焦げ茶色と白色を混ぜていく。そして、カレーとライスが絡み合ったものをスプーン一杯分掬い取り、口の中へと運んだ。


その時、ピリリと舌先に衝撃が走った。

涼花が言っていた通り、激辛という言葉を冠するに値する辛みがある。だが、それだけではなく、確かな熟成された甘さがあった。


僕は口の中のカレーを飲み込むよりも先に、スプーンでもう一杯目を掬い取った。


「どう?私が作った激辛だけど、甘さもあるカレーは」


涼花が自分の分のカレーを盛って、僕がいつも座っている座椅子に腰を掛けた。

僕はスプーンを置くと、涼花に親指を立てた。


「美味い!」


 もう今朝に見た夢なんか忘れてしまっていた。

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