ぎゅっと抱きしめて!
こう
第1話 貧弱令嬢の婚約解消
「今…何と仰いまして?」
震える手で茶器を卓に戻したカナリーは、青ざめた唇でなんとか声を絞り出した。
しかしか細く震えた声は弱々しく、彼女の動揺が如実に表れていた。円い卓を挟んで対面に座る、問題発言をした相手にもしっかり伝わってしまう。
短く刈り上げた黒髪。日に焼けて彫りの深い顔立ち。大柄で黒い華服の上からでもわかる武に長けた体付きの男は、黒曜石のような目に苦渋を滲ませ硬く拳を握った。
「婚約を、解消して欲しい」
「そんな…」
聞き間違いではなかった。
あまりに唐突な発言に、くらりと視界が回る。背後に控えた護衛がカナリーを支える動きを見せたが、なんとか踏みとどまった。こめかみを押えてなんとか正気を保ちながら、15の頃から3年間婚約関係にあった相手を見上げた。
「何故突然、そんな…理由は…」
まさか気付かぬ内に相手を不快にさせてしまっていたのだろうか。震えるカナリーに、男は重々しく首を振った。
「あなたは悪くない。全て俺が悪い」
硬く握った拳を見下ろしてから、男は顔を上げてカナリーを見た。黒曜石の瞳が真っ直ぐカナリーを見詰める。
「俺はあなたを抱きしめることができない」
断言に、今度こそ衝撃で目眩を感じた。
卓に手を突いて転倒を防ぎ、ぷるぷる震えながら男を見上げる。
「そんな…そんなにわたくしに魅力がないと?」
「違う! あなたはとても魅力的だ…透き通るような白い肌。華奢な肩に小さい頭。絹のような金髪に細い庇護欲を誘う手足…何より朝露の乗った若葉のように潤んだ瞳…あなたは大多数の男性が一度は考える、俺が守りたい美少女の偶像といっても過言ではない」
真っ直ぐこちらを見詰めながら告げられる言葉の羅列に、砕けた乙女心がちょっとだけ修復される。ひび割れに塗り薬を塗ったくらい。
だが、だがしかし。そこまで褒めるなら何故。抱きしめられないなどと。
大多数、ということは。
「あなたにとっては、そうではないということですか…」
ぐっと黙り込む男。カナリーは再びぷるぷる震えた。
短いようで、長い静寂。
獣の呻き声のような囁きが、男の喉から漏れた。
「俺には無理だ」
「そんな」
「俺があなたを抱きしめると…折ってしまう!」
「え?」
「駄目! 折れちゃう!」
「ええっ?」
突然ガバッと自分自身を抱くように腕を回し、椅子から立ち上がる男。
そうするとカナリーは完全に見上げる形になった。座っていても感じる身長差。立ち上がられると、圧倒的な高さの違いに首が痛くなる。
彼は自分を抱きしめながら叫んだ。
「俺は! 愛する人は力一杯抱きしめたい!」
「わ、わたくしでは駄目だと!?」
「力を入れたら絶対折れる!」
「折れません!」
「いや一度折った!」
そういえばそうだ。
以前、二人で庭の花を観賞した時。差し出された手を繋いで、カナリーの指の骨がポッキリ折れた。
「だ、大丈夫です治りました。それに一度折れたので丈夫になっているはずです!」
「次は砕くかもしれない! 申し訳ない、トラウマだ!」
「そんな!」
折られたのはカナリーだが、不可抗力で相手の指を折った婚約者の方が精神的に痛手を負ったらしい。すっかり青ざめている。
カナリーは昔から身体が貧弱だった。病弱ではないのだが、身体が他の人より脆い。
捻挫。脱臼。骨折。ちょっとした衝撃でぽきっと折れてしまうか弱い身体で生まれた。
折れそうなほど細いとか比喩に使われるが、カナリーの場合は本当に折れる。
「大変申し訳ないが、俺は俺が抱きしめても無事で居られる女性と婚姻したい」
「わ、わたくし頑張って鍛えます! お肉が付けばきっともっと頑丈に…」
「いいや、駄目なんだ。すまないカナリー…俺は俺の力に耐えられる屈強な女性と出会ってしまった…!」
青ざめていた男の頬が赤く染まる。カナリーはその発言で更に青ざめた。
最初に婚約解消を求められてから考えていた可能性。実直なこの男に限ってと思っていたが、まさか。
「ま、まさかわたくしというものがありながら…!?」
「先日の武道会で俺は運命と出会った」
「お待ちください武道会で? 宴ではなく?」
遠くを見詰めながら続けられた言葉に、カナリーは盛大に戸惑った。
それは男女の新しい出会いの場に相応しくない気がする。
「彼女は歴戦の戦士達をちぎっては投げ、ちぎっては投げ決勝戦で俺と相対した」
「武道会ですね」
武人達が力量を競い合う武道会は男女別に分かれていたと思ったが、何故そこで女性と婚約者が決勝戦で戦うことになっているのか。謎は残るが武道会で間違いない。
「この俺の拳を受けても倒れず、果敢に組み付き一歩も後退しない力強さに俺は…!」
相手が女性だろうと容赦なく戦ったらしい。
「拳で互いを高め合う、そんな存在こそが俺の求めていた伴侶だと気付いてしまったのだ」
それはカナリーには無理だ。間違いない。
カナリーは真っ白になった。
「本当にすまない。俺は彼女…シンミアと共に覇道を歩むことにした」
「覇道…我が家の当主として家を盛り立てる約束は…」
「すまない…本当にすまない! やはり俺には武人の道しかないのだ!」
「あっ!」
叫び、男が走り去る。カナリーは慌てて立ち上がり、しかし卓に躓いてその場に転んだ。背後に控えていた護衛が彼女を抱き留め、地面に叩き付けられる事態は防がれる。
「そんな! マインテン様! マインテン様ー!」
婚約者…マインテン・ニーランドは立ち止まらない。
カナリーはよろよろ起き上がり、なんとか引き留めようと門まで向かった。
だって具体的な話を一つもしていない。当主へ話はつけているのか。認められたのか。それとも単独独走大暴走なのか。
護衛に支えられながら、ひいはあ言いながら門までやって来て、馬に乗った婚約者と…並び立つもう一頭の馬に跨がる女性を見て仰天した。
簪などの装飾品を一切使用せず、一つに括っただけの赤銅色の整えられていない髪。肌は日焼けで浅黒く、鼻面にはそばかすが散っている。しかし堂々とした姿勢と生命力に溢れた佇まいが彼女を鮮烈に輝かせていた。
何より…巨人と言っても過言ではないマインテンと並んでも見劣りしない巨躯。
石榴色の男性用の華服が長い手足を隠しているが、覗く手首や大きな靴から彼女の手足がカナリーとは圧倒的に違う、丈夫な身体なのだと伝えてくる。手綱を握る手に浮かぶ血管が活力に溢れている。
た、逞しい…! なんて逞しい体躯の女性なの! 健康美の塊だわ!
カナリーが呆然と見上げている間に、二人はお互いだけを見て微笑み合った。
「さあ行こうシンミア。共に覇道の高みを目指して」
「光栄ですマインテン様。生涯を掛けて共に武を極めましょう…!」
声も、逞しい…!
腹の底から発声している。低く聞き取りやすい女性の声。
そして二人は馬の腹を蹴り、軽快に走り去っていった。
舞う土埃。あっという間に小さくなった二人を見送り、カナリーは今度こそ卒倒した。
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