第193話 水竜が死んでいる

 バスポビリエ州に入って最初の晩は食料調達のための村をちょうどいい位置に見つけることが出来なかった。事前に下調べをする時間をとれなかったせいだ。

 街道から外れた林の中でそれぞれの幕屋を張り、雪で湿った枯れ木になんとか着火して焚火にする。小さな平鍋で薄焼きパンを作り、短剣で削いだ燻製干し肉を巻いたものを翌日朝の分も作った。寒い屋外で毛布をかぶって齧る薄焼きパンは意外とおいしかった。


 その後は予定通り、小湖海方面に向けて街道を東進する。目指すのはバスポビリエ州州都ベレキタニス、その南東に流れているタイニースという川だ。その川がスダータタル族長国との国境の役割を果たしている。

 ベレキタニスも、その手前にある街ブレクセニも小湖海の北岸に面した都市だ。


 小湖海という名前には湖という意味が含まれているが、全方位が陸地に囲まれているわけではない。小湖海は大湖海と繋がっていて、大湖海は南西の端で大陸西部の南に横たわる大青海に繋がる。

 外海といっさい繋がらず、本当の意味で湖のような地形になっている内海も存在はする。スダータタルの東に広がっている裏海というのがそれだ。


 この魔物溢れる世界において、海というのは開拓しようのない絶対的な危険領域であり、そこから得られる恵みはあまり期待できない。

 だが沿岸部は内陸に比べると気候の変化が穏やかだ。深い積雪がないというだけでも人間は生活しやすく、そのためチルカナジアにおいて、海が面する州の面積当たり人口は王都のあるアシオタル州よりも多い。


 バスポビリエ州に入って二日目の晩は農村で宿をとることが出来た。

 旅の最初からそうすればよかったのだが、住民に「あそこの宿は身分証が要るのか」と訊いたら必要ないという。すこし怪しげな質問だとも思うが、カナトが入国した時も身分証無しで泊まれる宿はけっこうあったそうだ。

 村にあったのは足の不自由な老婦人が営む小さな宿だった。

 一年の最後の夜を、野宿ではなく寝台の上で過ごすことが出来た。



 目が覚めてから2刻間。真東よりも少し北の空にようやく太陽が顔を出したのを合図に出発する。

 宿で食べた朝食はウミヘビの煮込みということだったが、老婦人はそれが魔物なのかそうでないのかを知らなかった。

 実際食材としてみるならそんなことはどちらでもいい。海沿いではない村の住民に海棲魔物の知識は必要ないのだろう。



 一面の雪景色の中を歩いて行く。道の両側には膝下くらいの深さまで雪が積もっていて、その中を歩いて行けと言われたならなかなか苦労するだろう。

 だが州都に向かう街道は当然ながら人通りが多く、ちょうど荷車が一台通れるくらいの幅で雪は踏み固められている。革の靴底は雪の上でつるつると滑りやすく、走ることは難しかった。速足での移動では1刻間で5キーメルテほどしか進めない。そのうえやみの日照時間は本当に短い。距離を稼ぐために明るい間はずっと歩き続けなければならない。


 クトークを発って以来イリアはきちんと武装している。

 頭部には鉄兜を被り、毛編み服の上に黒革の全身鎧。肘から先は質屋で買った鉄手甲に取り換えてある。

 鎧の上から毛皮上着。丈が短く足元が少し寒い。


 中身がいっぱいに詰まった背負い袋の上には畳んだ幕屋を括りつけてあって、さらに上から雪よけのための防水雨具をかけてある。

 そして左手には硬晶を抜き取った回転盤を改造した小盾を持っている。改造と言っても真ん中の穴に持ち手がわりに獣毛綱を通し、結び目で固定しただけだ。

 小さく軽く、そして厚みもそれほど無いので頼りになる防具ではない。無いよりマシだろうかという程度。

 そして背負い袋の下、後ろ腰には新しい武器の戦鎚がぶら下がってる。鎚頭が右側にきていて、使う際は引っ張り出すようにして抜くことになる。


 カナトも胴鎧を着て歩くことにしたようだ。どうやら故郷で鎧は体温を奪うから冬場は気をつけるよう教わったらしいのだが、それは鉄鎧の場合である。革鎧はそんなことはなく、むしろ防寒になるので着たほうがいい。

 手には多腕おおうで戦の時に買った耐熱手袋。さらに毛布にひもを通して外套のように羽織ったことで、ほとんど寒くはなくなったと言っている。

 背中の背負子しょいこに載せてある荷物はイリアとほとんど変わらない。基本的に衣類。包帯などに使うための清潔な綿布に、茶クマの毛皮の寝袋。

 砂糖と小麦粉と、油紙に包まれた乳脂と豚の脂肪の塩漬け。だいたい二日程食べつなげる量だ。木製の器もある。

 それと、真っ白の絹の袋に入れられた真鍮の壺。なによりも大事な物だった。

 武器は右肩に槍を担いでいるだけ。弓は弦を外して背負子に紐で括りつけているのですぐには使えない。どうせまだ練習を始めたばかりで、少し離れた的にもろくに当てられなかった。



 雪は止んで雲も晴れ、紺碧の空に真冬の太陽が輝いている。

 そろそろ昼休憩にしたいと二人は周りを見回しながら街道を歩いた。

 イリアは病み上がりだしカナトはレベル12。雪道なので走っている者は少ないのだが、それでも旅慣れた大人たちと比べれば二人の足は遅く、誰の後にもついて行けないし、追い越さずについてきている者もいない。


 良さそうな場所が見つからないまま数分歩いていると、進行方向左手に雪が一切積もっていない場所が広がっていた。30人ほどが別れ別れに焚火を囲み、棒きれの先に肉の塊を刺して炙っていた。時々大きな笑い声が聞こえる。

 焼けた肉をナイフで削いでは口に運び、傍らの陶器の壺から飲み物をあおっている。

 椅子や敷き皮を使っている者が多いが、枯草の重なる地面に直に座っているのも居る。

 つまり地面はある程度は乾いているという事。雪は溶かされたのではなく、どうやら強力な風魔法で吹き飛ばしてあるようだ。丸く広場のようになっているその周辺が吹き寄せられた雪で盛り上がっていた。


 カナトは警戒心を表情に出してイリアを振り返った。たむろしている者らの風体がまるでならず者のように荒々しいからだろう。

 地面に突き立てられたり荷物にたてかけてある武器もそれぞれ長大で、高いレベルと物理的に高い戦闘能力を感じさせる。



「おい! そこ行く少年たち!」


 話しかけてきたのは薄くなった黒髪を後頭部で一くくりにした男だ。毛皮の胴衣は袖が無く、毛編みの服の下に盛り上がっている腕の筋肉は今のイリアの3倍は太い。やはり酒に酔っているようだ。

 カナトが後ろに隠れるような位置にずれたので、イリアが返答した。


「なんでしょうか?」

「おまえたち旅の者だろう? この辺りの人間じゃないな?」

「はい」

「じゃあまだ知らんのだろう? この先あと少し行けば、とてもいいものがあるからはやく行きたまえ。早く」


 丸い目を大きく見開いて楽しそうに話す。後ろでカナトが「なんだってんだ……」とつぶやいている。


「もったいつけないで教えてください。何があるんです?」

「んんー? 自分の目で見た方がいいと思うんだがなぁー。……だが言ってしまおうかな! 水竜だよ水竜! 浜で水竜が解体中なのだ! 湾内に入り込んでぐったりと弱っていたので、我ら『海獺の石斧』が引き揚げてとどめを刺したのだ!」


 少し変な名前だが、やはり戦士団の者らだったようだ。独特の雰囲気でなんとなくイリアには分かっていた。

 海沿いで活動する戦士団がどんな風に魔物と戦うのかよく知らないが、重い金属鎧を身に着けている者がいないのは落水した時に泳げなくなるからかもしれない。


「本当ならすごいな。行こうぜ」

「ああ」


 いちおう男に挨拶をしてから、少し急ぎ足で進む。四半刻も進むと右手には奇妙な光景が広がっていた。

 遠く沖の方は青黒い水が見える。小湖海と言ってはいるがそれは大湖海と比べて小さいという意味であり、実際は対岸などとうてい見えないほど広大だ。

 その海の手前側、岸に近い部分はほとんど真っ白に覆われている。それは巨大な氷で、数百、あるいは数千もの塊が周期的にうねる水面にもてあそばれ、うごめいていた。



「これが海なんだな……」

「ああ……」


 カナトが6月に入国した際は国境を越えてすぐ、州都ベレキタニスから内陸路のビリエ街道に入ったので海は見ていないのだそうだ。ベルザモック州から出ることなく育ったイリアも初めて目にする光景。

 氷の塊は冬だから浮いているのだろう。ジゼルから海は青く美しいものだと聞いていたので、少し残念な気持ちになる。

 進むにつれて街道はどんどん海に近づいて、やがて陸地が海に向かってなだらかに広がる浜に出た。聞いた通り、そこには氷の海よりさらに衝撃的なものがあった。


 周辺の人里の住人なのだろうか、戦士団員ではなさそうな老若男女が数十人浜に集まり、その中央。氷が打ち寄せる水際に巨大な死体が転がっている。

 がばりと口の開いたその頭部は、もはや側にいる人間と比べると混乱してしまうほどに巨大だ。


「信じらんねえな。いや、話には聞いてたけどよ」

「……ものすごいな」

「行こうぜ、近くで見たい」


 斜面を降りていく。浜は大小の丸い石が敷き詰められたような地面になっている。なんだか嗅いだことのないにおいがイリアの嗅覚を刺激した。

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