第155話 何事もなく
本に使えるような薄く叩きのばされた獣皮紙が上等品であり、安物は分厚い。使い捨ての書類であっても公的な物に植物再生紙を使うのはまずいようで、いいかげんに作られた安い獣皮紙が用いられることが多い。
3つの印証をその獣皮紙に写しとり、地下上水路最外周11キーメルテを右周りに巡って元の位置。
耐えられないとカナトは老人のいる水門の部屋まで戻って、さらに、一度外に出たいと言って階段を昇っていった。イリアエミリアもついて行く。
「クソッ! 腰がだるい!」
「大丈夫か? 俺たちだけで続きしようか?」
槍を放り出し、腰に手を当てて背中をそらせたカナトは鼻の横に皺を寄せて振り向いた。
「……そうはいかないだろ。途中で灯りが消えちまったら、お前ら中で迷って出られなくなるだろうが」
ぶつぶつ言いながらまた地下に戻っていく。
灯壺の火が消えてしまっても火打石があるわけだが、灯壺自体を水路の中に落としたりすればカナトの言う通りになる。火魔法適正者が居るといないとでは安心感が違った。
最外周の1つ内側、二週目の点検に入る。定期点検が必要な理由は、つまり上水路の中での魔物が育ったり繁殖したりするのを防ぐことだ。
水路の上流、アクラ川からの水取り込み口には金網があるらしいのだが、ごく小さな幼体や卵を防げない。だから少なくとも3日に一度は誰かが歩き回る規則ができているのだ。
2週目で写すべき印証は2つ。西側の1つをとって少し進んだあたり。イリアが持つ、ガラス覆い付き灯壺の光に何かが照らし出された。
壁面はもともと湿って黒っぽい色をしている。通路面もおなじ材質。なので気付くのが遅れたが、数メルテ先の通路の上にコブのように盛り上がっている黒い陰。
イリアが灯壺を体の後ろに回すと、エミリアが受け取った。
わずかに身じろぎするそのコブに徐々に近づいていく。あと少しで短鉄棍の間合い。
2つの丸い瞳が現れ、炎の灯りを反射して黄色くきらめいた。その下に、赤ん坊の頭くらい飲みこみそうな大きな口が開く。
口中に牙は見えないが、舌と粘膜のぬらめきにイリアは鳥肌が立つのを感じた。
一歩踏み込み足元の路面をこするようにして振りぬいた短鉄棍が頭部を打ち抜いた。軽い手ごたえで相手はとんでいき、水路に落ちることは無く通路にひっくり返った。
追撃できる距離に詰め、明りが近づいてくるのを待つ。
「……え? し、死んでる⁉」
太い尻尾、イボだらけの表皮。白っぽい腹を見せピクリとも動かない。力を失った四肢はだらしなくたれさがっている。
「嘘だろ、殺しちゃった。どうしよう…… 気絶してしまう……?」
「あー、それたぶん魔物じゃないよ」
「え?」
「オオカオリイモリだと思う。珍しい生き物だよ。いい匂いがするでしょ?」
言われてみると、辺りにはなにやら香辛料の、特に木ピプロに似たような爽やかな香りが漂っている。
体長が1メルテもありそうな大きな生き物。イモリというなら両生類だろうか。魔物でも半魔物でもない生き物は殺しても【不殺(仮)】に問題は起きないようだ。
前からある程度分かっていた事ではある。蚊やハエは普段から退治しているし、魚を捌いたこともある。
もし魔物・半魔物でない生き物を殺すだけで昏睡状態に陥るならアリやなにかを踏み殺してもそうなっているはずで、外を歩くたびに倒れてしまう。
「肉は揚げ物とかにするとおいしいよ。滋養に良いらしいから、カナトが持ち帰ったらいいんじゃない? 嫌いじゃないならアヤさんに」
「いいのか?」
「うん。そのかわり今日の報酬は防具の購入に全額充てたい。イリアもそれでいい?」
「え? まあ、いいよ。うん」
やはり虫とは違う。川マスを捌いたときも胸の中に寒々しいものが通り抜けたが、1メルテもある四肢を持つ生き物を殺してしまうのはそれ以上だ。
咄嗟の事だったから心的衝撃はまだ小さい。情けないが、きちんと殺すつもりで殺せるかと聞かれれば分からなかった。
これからは相手の危険性や頑健さを十分確認してから殴らねばならない。既にレベルは13になっているのだ。子供のころのように無頓着にしていてはいけない。
オオカオリイモリの死体は最後尾のカナトが持って、そのまま巡回を続ける。2周目と同じく1刻半で回り切り、また水門番の老人の部屋まで戻った。
カナトはまた地上への階段に向かって駆けて行った。狭くて腰がつらいこと以上に、狭い場所が苦手なようだ。
イモリの死体は老人が預かってくれた。
日の光の届かない地下を通ってここまで流れているからか、上水路の水はアクラ川そのものよりもかなり冷たいようだ。そこに晒しておいてくれるという。
戻ってきたカナトと一緒に3周目。問題無く進んで約1刻間。最後の印証がもうすぐというところでついに魔物が出てしまった。
魚の背びれのようなトサカの生えたヘビの魔物。その姿の通り、名前はトサカミズヘビというらしい。同じようなヒレが、魚のエラに当たる部分にも生えている。
体長3メルテほどの半水棲魔物はアクラ川本流に生息する物とは違い色が真っ白だった。
細かい牙がずらりと、何十本も並んだ口を広げて襲い掛かってくる。対象は当然先頭に居るイリアだ。
短鉄棍で横から打つと、頭部が勢いそのまま通路の壁にぶつかった。
殺してしまわないように手加減をした。特に手ごたえがない。
もう一度、こんどは低く襲い掛かってくるトサカミズヘビ。とにかく動きが遅く見える。
余裕があるせいかこの時初めて気づいたが、イリアは自分の心拍も遅く感じていた。普段の生活でそういうことは無く『速さ』の恩恵で戦闘時だけ時間感覚がずれるという現象を初めて実感した。
二度同じように殴られたことで魔物は大人しくなり、鈍い動きのままでずるりと水路の中に落ちた。「あ、もったいない」と呟いたのはカナトだったようだ。
トサカミズヘビのふるまいは、【不殺(仮)】の効果で『凶化』が解けたとき特有のそれとみて間違いない。
それなのにイリアには成長素の感覚がなかった。エミリアに魔眼で見てもらっても成長素は溜まっていないという。
トサカミズヘビの仮想レベルは8前後らしいのだが、8であればまだぎりぎり成長素は取れるはず。ということは逃げた白い個体は7かそれ以下だったことになる。
成長素の取れない弱い相手であっても【不殺(仮)】の作用は働くらしい。仮想レベル低下の作用もあるのだろうか。それは魔石を抜いて調べなければ分からない事だった。
最後の印証まで移し終わって、水門番の老人に確認、署名してもらう。
トサカミズヘビの事も報告しておく。逃がしたことを咎められたりはしない。
危険が全くないとは言えないが魚食が中心で積極的に人を捕食する魔物ではないし、ある程度数が多くなったという判断があって初めて、水魔法、もしくは水精霊顕現魔法が得意な者による駆除隊が組まれるのだろう。
カナトはオオカオリイモリの死体を引き上げるとさっさと地上に戻ってしまった。
エミリアの態度がなにやらおかしい。
「どうしたの。背中でも痒いの?」
「なんでもないから、早く私たちも戻りましょうよ」
「あー、嬢ちゃん。
「……」
「5刻間も歩き回ってりゃ普通そうなるわな。ここの水門は上水路の水を下水路に流し込む、その量の調節のためにあるんだ。つまりこの水はいくら汚したって構わない。世界一贅沢に水を使える水洗厠だぞ」
「……」
「どうした? 早く行ってきなさい。地上に上がったってその辺りでするわけにいかんだろ」
エミリアはやけに不機嫌そうな顔をして、老人の指し示した小さな扉に向かって歩いていった。
キラチフ山域でも小用のために隊から離れることはあったし、きちんと扉のある厠を使えるのだから恥ずかしがることは無いとおもうのだが。
灯壺を持って行ってしまったので途端に暗くなり、階段から差し込むわずかな明りでなんとか老人の姿が分かる。暗いのに慣れているのか、老人は壁際の折り畳みの寝椅子に腰かけ、寝そべった。
イリアも厠を使いたかったので、エミリアが出てくるのを待つ。
その間老人に聞いてみた所、この水路にカエルが居ないのは虫が居ないからだそうだ。
同じ両生類でもカエルは目で見て虫を食べるのに対し、オオカオリイモリは魚食性で、目が良くないが水中でにおいを頼りに餌をとるという。
生き物の生態に妙に詳しい老人だった。
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