10「君はすでに小僧を救っている」
「涙とは、感情が濃縮して溢れ出たものなのだろう。良いものも、悪いものも——まあ大抵は悪いものなのだろうがね」
落ち着かせるような口調で、白眉が言う。そのすぐ横には、力無く座り込んだ真希がうなだれている。
「私は蛇だから感情の濃縮技術も無ければ涙も流せない。だから君の気持ちに共感することは叶わないわけだが……少しは落ち着いたかい」
白眉の問いに、真希は無言で頷いた。泣き疲れた彼女はしばらくの間ただ地面を見ていたが、やがて呟いた。
「……なんで、谷地くん、怒っちゃったのかな」
また無言の時間が訪れた。真希は地面に座り込んだまま、赤く泣き腫らした目で白眉を見た。
「……谷地くんを助けたかったのに……ただ、それだけなのに」
すぐ隣に横たわって眠る達巳に目を向けて、絞り出すような声で言う。白眉は身体を伸ばして真希に近づき、首を傾けた。
「君のその想いには決して非は無いが、それでもその手段は軽率であったと言わざるを得ない」
「でも、見て見ぬふりなんかできないよ!」
「私は、君のことを責めているわけでは無いんだ。私は小僧などより断然君の味方だからね」
白眉らしからぬ冗談めいた口調で、彼は言った。それはまるで、真希の気を紛らわせて落ち着かせようとしているようであった。
「君は、なぜ小僧が怒ったのか、と問うた。その答えを探るために、もっとシンプルに考えてみようか」
ゆっくりと、優しく諭すように白眉は続ける。
「私は長年ヒトを見てきた。その私から言えることは、ヒトという種族は親と子の繋がりが強い生き物だということさ。君は、意図せずして小僧の前で小僧の親を侮蔑してしまった」
「……でも、谷地くんはお母さんから虐待されていて……」
「間違いでは無いかもしれないね。けれどもね。一つの事実の形が、万人の目に同じ形に映るかというとそれは違うのだよ」
両頬に手を当てて考え込む真希の正面に向かい合って、白眉はゆっくりと自らの口を大きく開いた。細く鋭い牙が露わになった。
「君達ヒトや、数多の動物にとっては『歯』とは獲物を狩る武器であると共に食物を咀嚼するための道具でもあるだろう?」
唐突な話題の変化に戸惑いつつも、真希はゆっくり頷いた。
「しかし我々蛇は違う。我々蛇は食物を咀嚼する必要が無い。つまり我々蛇にとって、この『歯』とは純然たる武器。他の生物を傷つけ殺すためだけのモノなのさ。それがまさに『見えてるものの違い』だ」
「う、うん……」
依然困惑を隠しきれない真希の様子に気づきつつも、マイペースに白眉は続ける。
「ヒトは非力だが、道具を使う頭があった。それによって厳しい自然界を生き残ってきたわけだね。……小僧の母親はそんなヒトの中でも特に非力だ。精神肉体両方ともにね。それでもヒトには道具を使う頭がある。……道具。そう、例えば、君の目にはただの文房具に見えるであろうホッチキスが、小僧の目には牙を剥き出す蛇の口に見えたことだろうね。これもまた『見えてるものの違い』だろう」
真希は少し考えて、その言葉の意味に気づいた瞬間反射的に自分の腕をギュッと強く握った。その顔は青ざめていた。
「……分からない……分からないよ」
震え声で真希は呟く。
「そんなに酷いことをされても、谷地くんはお母さんのことを好きでいられるの?」
「小僧の家族は母親だけなのさ」
真希は横目に達巳を見ながら、おずおずと尋ねる。
「……なんで……?」
「私のせいだよ」
白眉は淡白にはっきりと言い切った。
「そもそも、私は小僧に憑く以前に奴の父親に憑いていた」
話を聞きながら、真希は白眉の語り口調に小さな変化が生じるのを感じ取った。無感情に聞こえたその声に、どこか嫌悪感のようなものが含まれた。
「小僧の父親は、若い頃からあまり素行が良いとは言えない人物だった。端的に言えばクズだった。——表情の無い私が顔を顰めるほどに、咀嚼する能の無い私が苦虫を噛み潰したような感を覚えるほどに——奴の言動は歪んでいた。そうして常に頭の中で小言を言ってくる私が大層疎ましかったのだろう。だから私を追い出すために、奴は——」
そこまで話して、白眉は一瞬言い淀んだ後に、続けた。
「——奴は、私を追い出すためだけに子を作った。子ができればそちらへ私が移ることを知っていたのだ。口車に乗せやすい騙しやすい女を見つけてきて、そいつを利用した。その結果……小僧が産まれた」
「じゃあ……」
真希が悲痛な声を吐いた。
「じゃあ、谷地くんは……」
そこから先は、言葉にすることができなかった。ただ、真希の目からはまた涙が溢れ出た。
そんな彼女をジッと見て赤い舌をゆっくりと動かしつつ、白眉は最後まで話を続けた。
「私を追い出し、晴れて念願の自由の身となった小僧の父親は、そのまま行方をくらました。今やどこで何をしているのかなど、知る由もない」
白眉のその言葉には、筆舌に尽くし難い感情が乗っているように、真希には思えてならなかった。
「……谷地くんはお父さんの顔を知らないんだ」
「声も、名前もね。母親が教えようとしなかった。一切を語ろうとしなかった。まあ当然の事だろうね。あの男に捨てられて、小僧の母親は強い精神的ショックを受けたらしい。もとより心が弱かった事も相まって、かなり感情の不安定な人物となってしまった。それでもね、それでも小僧にとっては、ただ一人の親なのだ。そしてまた、あの女にとっても小僧は実子。心身共に弱っていながらも一人でここまで小僧を育て上げた。そして、小僧はそれを理解している。桜乃。君が先ほど小僧の前で否定し、罵倒したのは、小僧の親なのだよ」
真希は打ちのめされたようになって俯いた。力無く肩を落とし、呟く。
「わたしは、どうすれば良かったの……?」
「どうだろう。私にも答えは分からない。……ただ私に言えることは、君と話している時の小僧はとても幸せだっただろう、ということだ」
真希は顔が熱くなるのを感じた。頬に手を当てながらゆっくりと尋ねる。
「や、谷地くんが言ってたの……?」
「言ってはいない。だが分かるさ。私は小僧が産まれた時からずっと見てきたのだから」
真希を真っ直ぐに見て、白眉は断言した。
「小僧にとって君は、かけがえの無い友人なのだ」
「友人……」
「君は優しい子だ。例えどんなに間違い、失敗をしたとしても、その優しさを見失わないでほしい。そうしたらいずれ君はたくさんの者達を支え、癒し、救うことができるはずだ」
真希を見つめながら白眉が言う。真希は無意識に前髪を弄りながら自虐的に笑った。
「そうかな……どうだろう、そうだったら良いけど……わたしは、人と話すのも苦手だし、また怒らせちゃうだけだと思う……」
ぽつりと呟いたその時、また目から雫が溢れた。もう何度も涙を流して、泣き疲れているはずなのに、この溢れるものは一体何なのか、もう真希自身にも分からない。
ゆっくりと真希の顔へ体を伸ばした白眉が、その涙をペロと舐めた。
「——私には、涙が流せない。涙腺が無いからね」
真っ白い体の小さな頭に並ぶ赤い目が、ジッと真希を見つめている。自分や達巳に向けられるその目が、羨望の眼差しであったことに、その時真希は気づいた。
「君は私に名を与えた。私のことを君は癒したのだ。そして小僧のことをもね。……何も悩む必要は無い。君はすでに小僧を救っている。それは君だからこそ出来たことだ。君にしか出来ないことだ。よければまた明日以降も、また小僧に話しかけてあげてほしい。小僧は子供だから、素直に接することは無いかもしれないけれど」
つぶらな瞳で語る白眉。その瞳を見ていた真希は、やがて小さく笑って呟いた。
「……なんだか、白眉ちゃんの方が谷地くんの本当のお父さんみたいだね」
それを聞いた白眉は、赤い舌を落ち着き無さげにちらつかせて、首を傾げる。そんな挙動を愛おしげに見ながら、真希はさらに続ける。
「今、分かったよ。どんなに嫌な目に遭っても、酷いことされても、それでも谷地くんが悪くならないで、真っ直ぐな、わたしの大好きな谷地くんになれたのは……その理由の一つは、白眉ちゃんなんだね」
「そうかね、それは……心外かな」
答える声はどこか穏やかだった。
やがて、しとしとと雨が降り出した。「小僧は私が起こして連れ帰る」と言い、白眉は真希へ先に帰るよう促した。
真希は後ろ髪を引かれる思いで、そのまま一人山道を後にした。
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