VS柳ケンゴ
プロレスはルールのある喧嘩である。
日本のプロレスの父とまで呼ばれる、伝説的なレスラーが遺した言葉である。
どんな殴り合いも流血戦も、リングやルールという縛りがあれば、喧嘩ではなくプロレスになる。逆に言うなら、喧嘩に強くなければプロレスはできない。
自分を真正面から喧嘩で負かした男にこう言われたことで、柳ケンゴは高校生プロレスラーの道を選んだ。合法的な喧嘩と聞き、目をそらせるほど大人ではなかった。
◇
柳ケンゴは不良であった。
日中は不良仲間とつるみ、夜は顔なじみの暴走族の集会に参加する。カツアゲや万引きのような犯罪行為よりも、喧嘩を好む。今となっては、古風な部類に属する正統派のヤンキーである。
そんな彼は今、ハイスクール・プロレスリングのリングに上がり、一人の新人レスラーとしてデビューしようとしていた。同じ新人同士のデビュー戦、先に入場したケンゴは、青コーナーにて対戦相手を待っている。
ケンゴが高校生レスラーとなった理由は簡単である。同じ荒子浦高校に通う、鳩野龍之介にこっぴどくやられたからだ。きっかけは、肩がぶつかったのぶつからないだのの、些細なことである。だがその結果は些細どころか悲惨であった。
ケンゴのパンチもキックもすべて受け止め、強烈なビンタ一発でケンゴを戦意喪失まで追い込んだあと、龍之介は笑顔でこう言った。
「お前、プロレスやらないか?」と。
最初は、なんのことだかわからなかった。一部の生徒がプロレス部を設立し、ハイスクール・プロレスリングに参戦している話は聞いていた。だが、しょせんプロレスなんてお遊びの八百長である。だが、ケンゴはそんな八百長野郎に、一発でのされてしまった。現実は、認めなければいけない。
「プロレスはルールのある喧嘩ってな。喧嘩慣れしてるってだけで、お前にはプロレスの才能がある。お前より喧嘩の強い俺が言ってるんだから、間違いない」
こうやってケンゴを口説いてみせた龍之介は今、ケンゴのセコンドについている。スポーツ経験の無かったケンゴが今日この日まで来れたのは、龍之介がつきっきりで面倒を見てくれたおかげだ。少なくとも龍之介は、ケンゴを才能がある者として扱ってくれた。となれば、裏切るわけにはいかない。ヤンキーは義理堅いのだ。
生まれ変わったケンゴを応援してくれているのは、龍之介だけではない。荒子浦の同級生や、暴走族仲間、かつて殴り合った強敵(とも)も、生まれ変わったケンゴの姿を見に来てくれている。この時のために作った紫色のショートタイツとリングシューズも、よくテカっているように見えた。
ハイスクール・プロレスリングはスポーツライクであり、プロレスでは当たり前の選手個人個人の入場曲などというものはない。少なくともこの規模の興行では、基本的に無音である。
しかしリング上で対戦相手を待つケンゴと龍之介の耳には、ある種のBGMが聞こえていた。
ケンゴのいるリングに向かって歩いてくるのは、白いドレスを着たエルフである。しずしずと歩く彼女に先導されて来るのは、一匹のオークだ。そのオークの名は、マスク・ド・オーク。ケンゴと同じ本日デビューの新人であり、謎のマスクマンである。
そんな二人を見た観客は、あれはなんだとざわめいている。ざわめきと驚きと囁き、生の声の渦がオークの入場曲となっている。
ポカンとするケンゴの肩を、龍之介ががしっと掴む。
「あんなもんは、しょせん虚仮威しだ。控室で挨拶したろ?」
そうだった。あの時、エルフは普段着であり、オークはなんだかボーっとしていた。あんな虚仮威しに、呑まれてはいけない。流石は興行のメインイベンターたる龍之介のアドバイスである。それに、こちとら喧嘩慣れだけはしている。根性だけは、自信がある。
リング下にたどり着いたエルフは、そのまま赤コーナーの下に控える。先導しているのだから、てっきりロープぐらいは開けてやるのかと思っていた。
きっとそう考えていたのは、オークも同じだったのだろう。用意された取り外し型の階段を登り、エプロンに立ったオークは、自分の目の前にある上中下、三本のロープをどう超えるかで悩んでいた。
そんなもの悩むことか? ケンゴも龍之介も疑問符を浮かべる。上と中の間、もしくは中と下の間をくぐればいい。なんなら、下から滑り込めばいい。だが、オークの取った手段はどれでもなかった。
オークは片脚を高く上げると、そのままロープを上から跨いだ。三本のロープを跨ぐあまりに雄大なリングインを見て、観客がざわめく。龍之介もケンゴも身長は180に近いが、ああやって跨ぐことはできない。高身長に長い脚、股関節の柔軟性があって始めてできるリングインだ。
もし、オークの格好がアマレスのシューズに長ズボンにシャツと言った普段着でなければ、完全に会場を呑んでしまっていただろう。
そんなオークに、いつの間にかエプロンに立っていたエルフが声を掛ける。エルフは何事かをつぶやくと、うやうやしく両手を差し出す。
オークは勢いよく、着ていたシャツを脱いだ。その瞬間、会場はオークに呑まれてしまう。盛り上がった大胸筋に、六つに割れた腹筋に、筋張りつつ引き締まった背筋。オークの巨体は、見事なまでに仕上がっていた。アレは間違いなく、何らかの実戦を知る者の肉体だ。本当に、本日デビューの新人なのだろうか。
「……虚仮威しだ!」
再び、ケンゴを力づけようとする龍之介。しかしその言葉には、僅かな躊躇が混じっていた。
◇
入場、そして選手名のコール、レフェリーによるチェック。どれも事前に聞いていた通りの流れである。ケンゴはそんな流れの中にて、気もそぞろであった。
この会場の大半は荒子浦の関係者であり、本日デビューするケンゴは主役となるはずだった。しかし、今、会場の人間の興味は、ケンゴの対角線上に立つマスク・ド・オークに向けられていた。
怪物のマスクを被り、エルフと共にあらわれた規格外の覆面レスラー。そんなもの、誰だって興味を持つに決まってる。現にケンゴも、いったいなんなんだと興味を持っている。だがそれ以上に、ケンゴが感じているのは苛立ちだった。
「OK? ファイト!」
レフェリーの合図に合わせ、金属製のゴングが甲高く鳴る。ケンゴはスタスタとオークの眼の前に行くと、マスク越しの目を睨みつけた。相手にわかりやすく敵意をぶつけるのもプロレスの作法の一つだが、あまり新人らしくはない、むしろわざと腰を曲げ下から睨みつけるのは、喧嘩の作法である。
そんな喧嘩腰なケンゴを、オークはただじっと見下ろしていた。マスクを被っているため、表情はわからない。しかし、ケンゴのこの態度をなんとも思っていないことはわかる。この男は、俺をナメている。ケンゴはそう判断した。
ケンゴの晴れ舞台を潰しつつ、まったくワビる様子もない。控室からずっと、ボーッとした様子でこちらを見ている。いやきっと、見下しているのだろう。そうでなければ、悪ふざけのようなマスクを被って、このハイスクール・プロレスリングに上がってくるはずがない。
オークへの怒りが、ケンゴの態度を荒々しいものへと変えてしまった。オークをにらみ続けるケンゴと、動かぬオーク。結果的に、ケンゴとオークは、新人同士、デビュー戦同士では稀なほどのお見合い状態となってしまった。
「馬鹿野郎! 行け! 組んでけ!」
青コーナーに控える龍之介の叫びが、ケンゴをプロレスラーへと戻す。そうだ、今は喧嘩ではない。自分はプロレスラーとしてリングに上っているのだ。
最初はチョップか、ロックアップから始めるといい。奇襲のドロップキックなんかは一見派手だけど、レフェリーや審判団からの印象が良くない。龍之介の一言により、ケンゴがこれまで聞いてきた龍之介の様々なアドバイスが蘇った。
ケンゴは両手を上下に構える形で出し、人差し指をちょいちょいと動かすことで誘う。双方が手を握り合う力比べである、手四つ。まずは真正面から力比べを挑むことで、こいつの化けの皮を剥がしてやる。自分より一回り大きい相手を前にしても、真正面からの戦法を選ぶ。ケンゴのこの根性は、レスラーとしての美点であった。
オークはそんなケンゴの誘いに、のっそりとした緩慢な動きで乗ってくる。右手と左手。ケンゴの手を、オークの手ががっちりと掴んだ。
「どりゃぁぁぁぁ!」
叫びとともに、全力で両手に力を込めるケンゴ。そんなケンゴの両膝が、突如ぐにゃりと崩れた。
ケンゴが全力を込めたことは間違いない。ただ単に、ケンゴの全力がオークの腕力にまったく及ばなかっただけだ。オークは、ケンゴを身体ごと圧し潰してしまった。手四つによる力比べは、オークの完勝であった。
オークは潰れたケンゴを見下ろしたまま、未だ繋がっていた両手を離す。ケンゴは、しびれる両手をなんとか抑えつつ、ゆっくりと立ち上がる。この化物は、いったいなんなんだ。そんな躊躇が、ケンゴの動きを更に緩慢なものにする。
ぷっ……
クスクス
誰かが吹き出し、笑う。複数の音が、観客席から聞こえてきた。ケンゴは思わず音がした方を向く。そこに居たのは、ケンゴの同級生たちだった。大半の人間はなんでケンゴがこっちを見ているのかと、不思議そうな顔をしている。だがそのうちの数人は、ケンゴが振り向いた瞬間、気まずそうに顔を伏せていた。
とんでもない恥をかかされた。ケンゴの顔と身体が、すうっと白くなる。人間、怒ると赤くなると思われがちだが、中には怒りのあまり冷静になり、むしろ落ち着く人間がいる。ただ興奮するよりも、遥かに危険なタイプ。ケンゴはそちらに属する人間だった。
そんなケンゴを、オークはただ待っていた。その余裕は、今のケンゴにとって更に腹立たしいものであった。
立ち上がったケンゴは、オークの首に斜め上からチョップを叩き込む。胸ではなく、首を狙うチョップ。頸動脈や喉笛といった鍛えようのない場所を狙うチョップは危険であり、少なくともハイスクール・プロレスリング、しかも新人同士の試合では反則である。レフェリーも気づくが、ケンゴが即座にオークに組み付いたことで、注意のタイミングを逃してしまった。
ケンゴが狙ったのは、股から相手をすくい上げてのボディスラムである。確かにオークはデカいが、この程度の人間を持ち上げられるだけの練習はしてきた。胸を貸してくれた龍之介を、何度も投げてきた自信がある。しかも、思いっきり首をぶっ叩いてやった。きっと身体から、力も抜けているはずだ。
「うおおおお! でりゃぁぁぁ!」
何度も叫んで気合を入れるケンゴ、それだけの力を込めても、オークはピクリともしなかった。子供の頃に、木登りで大木にしがみついた感覚。遠足で岩に登った時の思い出。これらの重みを、次々と思い出すくらいに、オークは不動であった。
さきほどの反則まがいのチョップなど、まったく効果がない。それどころか、あの一撃で、さらに重くなったのでは。あまりのオークの平然とした様子に、レフェリーもさきほどのチョップを反則とするかどうか悩み、手を止めている。
オークが突如、トンと軽くケンゴの両肩を小突く。全力を出し続け、限界を迎えていたケンゴの身体は、あっさりオークから離れる。
離れた瞬間、ケンゴの胸に叩き込まれたのは、オークによるお返しのチョップだった。オークの一撃は、ルールに乗っ取った正しいチョップである。正しいが、観客がどよめくくらい、強烈なチョップであった。
オークのチョップは、ケンゴの胸筋を貫通し、肺を震わせる。思わず吐きそうになったケンゴの身体が、くの字に曲がる。そんなケンゴの股を、オークの剛腕が捕らえた。
ふわりと上がってから、背中からどすんと落ちる。オークのボディスラムは、容易く成功する。震えた肺ごと臓器を一気に吐き出してしまいそうな衝撃が、ケンゴの全身を襲う。
「ガハッ! うお、うぇっ……!」
息を吐いてから、必死に嗚咽を抑え込むケンゴ。ケンゴは受け身を取っているし、オークもしっかり投げている。単に上背のあるオークのボディスラムが、ケンゴの受け身では威力を殺せないレベルだっただけである。
「ブレイク! ブレイク! いったん、離れろ!」
オークとケンゴの間に割って入るレフェリー。レフェリーは身を挺してオークを止めにかかる。もし、このまま寝技やストンピングをされた日には、ケンゴが持たない。ハイスクール・プロレスリングならではの、人道的な配慮である。
しかし、レフェリーの静止に関係なく、オークに動く気は無さそうだった。うめいているケンゴを、さきほどと同じくじっと見下ろしているだけだ。
ケンゴの中で、ついに最後のタガが外れた。
呼吸を整えた瞬間、ケンゴはバネのように跳ね上がり、未だレフェリーに抑えられているオークに襲いかかる。
背を向け油断していたレフェリーを横にのけたケンゴは、つま先でオークの腹を蹴りつける。それでも揺らがぬオークの顎めがけ、続けざまに頭突きをぶつける。
プロレスではない、喧嘩のやり方である。そもそもプロレスでは蹴りも頭突きも許容されてはいるが、こうも公に、しかも雑なまま敵意を乗せて出していいわけがない。観客も、何を見せられているのかわからず困惑している。ケンゴのむき出しすぎる感情は、プロレスの範疇をあっさり飛び越えてしまっていた。
ケンゴはオークめがけて拳を振り上げる。何人ものレスラーが得意技にしているものの、グーパンチは本来プロレスにおける禁止技である。もはや、ケンゴはただの不良に戻っていた。
「やめろ! プロレスは喧嘩じゃねえ!」
龍之介の叫びは、怒り心頭のケンゴでも看過できぬものであった。
なんだそれは。プロレスはルールのある喧嘩だ。喧嘩慣れしている人間には、プロレスの才能がある。そう言ったのは、龍之介だろうに。今更、ふざけたことを言うな。ケンゴの怒りが、龍之介にも向く。その結果、ケンゴの拳は止まった。
このまま止めるなら、今しかない。龍之介がエプロンに駆け上がるよりも、レフェリーが割って入るよりも先に動いたのは、当事者であるオークであった。
瞬時にケンゴの頭をヘッドロックで捕らえたオークは、自らも倒れ込む形の首投げでケンゴを倒す。オークはそのまま、倒れたケンゴの上に伸し掛かりつつ、ケンゴの顎を両腕で締め上げる。いわばレスリングで言うところの、首投げである。
ミチミチと押し潰すような感触が、ケンゴの頭を覆う。締め付けられる感覚は、練習中何度も味わってきた。だが、押し潰されると感じたのは始めてである。オークの剛腕は、規格外であった。
このまま、何もしなければ、頭が弾けてしまうのでは。そんなあり得ない恐怖が、ケンゴの怒りを侵食した。
「もうやめてくれ! やめてください!」
ケンゴは必死に叫ぶ。未知の痛みと恐怖が、ケンゴを不良から人に戻した。
実質ギブアップではあるが、ギブアップと口に出すのと、懇願ではだいぶ違う。そのせいで、レフェリーの静止もオークが力を緩めるタイミングも、だいぶ遅れてしまった。
「すいません、すいません、許してください」
弱音を吐いたのに何も変わらない。その現実は、ケンゴの心をへし折ってしまった。ケンゴは、間違いなく喧嘩慣れしている。しかし、オークに与えられた痛みは、スポーツの痛みである。格闘家が路上の喧嘩で不覚を取るのと同様に、路上の技術では対応できない技や未知の痛みは間違いなくあるのだ。
そんな痛みは、不良の根性を貫通してしまう。
あまりのケンゴの弱々しさを見て、レフェリーが正気を取り戻す。間違いない、これはギブアップだ。
「ストップ! ストップ!」
ケンゴからオークを引き離しにかかるレフェリー。だが、オークはすでに力を緩めており、レフェリーの介入より先にケンゴを開放していた。
遅れて鳴るゴング。場内にアナウンスが流れる。
「試合時間4分30秒、マスク・ド・オークのレフェリーストップ勝ち」
手四つの攻防からのボディスラムのあと、幾ばくかの不穏な攻防の後、最後は首投げからのヘッドロックで終わり。簡潔な展開のわりには長い試合時間となったが、試合時間10分をフルに使った第一試合と比べると、あまりに一方的で冷めた試合である。
会場を包むのは、困惑による虚無であった。ケンゴを応援に来た客も、いったい何を見せられたんだろうと戸惑っている。いいようにやられてしまい俯いたままうめいているケンゴをどう扱っていいものかと悩んでいる。レフェリーや審判団と言ったプロレスの玄人たちですら、この停滞した空気をどう切り替えるかで悩んでいた。
唯一、そんな悩みなど無さそうに、リングの中央に雄々しく立っているのがマスク・ド・オークである。ケンゴの脇に立ったまま、腕を組みじっとしている。
そんなオークの横っ面が、思っきり叩かれた。
「テメエ……こんなしょっぱい試合をしやがって! プロレスのイロハもわかってないのに、リングに上ってくるんじゃねえ!」
オークをビンタしたのは、リングに駆け上がってきた龍之介だった。オークは腕を組んだまま、龍之介の方を向く。
龍之介の発言により、ようやく観客の中に一つのストーリーができあがる。
そうか。今のよくわからない試合は、つまらない試合だったのか。
あのマスク・ド・オークとかいうレスラーは、ケンゴの攻撃をうけるつもりがない、しょっぱいレスラーだったのだ。
ケンゴはプロレスをしようとしたが、プロレスをわかってない相手に潰されてしまった。あのオークは、ヒドい奴だ。
このような気づきが出来た結果、会場の空気は一気に塗り替わった。
「ふざけんな、馬鹿野郎! ちゃんとプロレスやれー!」
「調子乗ってんじゃねえぞ!」
「これが喧嘩だったら、ケンゴが勝ってんだよ! ガチでやれ、ガチで!」
会場のいたるところから、オークめがけて罵声がぶつけられる。何度も「落ち着いてください」とのアナウンスが流れるが、ほとんど効果はない。競技色が強いこともあり、観客も大人しい傾向にあるハイスクール・プロレスリングでは珍しい光景である。物が飛んでこないのが不思議なくらいだ。
オークは悠然とそんな会場を見回す。まるで、自分に罵声をぶつけている観客を品定めしているようである。
しずしずとリングに上ってきたエルフが、オークの背をとんとんと叩く。オークはエルフの方に向き直ると、そのままエルフの先導で退場する。これだけの憎悪を浴びても、エルフやオークの歩みに淀みはなかった。
◇
とぼとぼと、ひとけのない廊下を歩くケンゴ。その歩みには迷いが浮き出ている。一方、先行して歩く龍之介の歩みは無であった。機械的でもなく、早足でもなく、とにかく感情が読めない歩き方である。
リングから降りて、客席を通り舞台裏へ。そして控室へと向かう廊下。ここに至るまで、ケンゴは目をつむっていた。
無様な負け方をしたはずなのに、観客は拍手でケンゴを見送った。しょっぱいレスラーの犠牲者として、皆が同情してくれた。ケンゴの無様を見て笑った人間も、気まずさを払うように大きな拍手をしていた。そんなもの、直視できるはずがない。
そして何より、龍之介のことをまともに見れない。この人も、ケンゴと同じように、本当に怒っている時こそ冷静になる人間なのだ。
「悪かったな」
そんな龍之介の第一声は、予想外のものだった。龍之介は、ケンゴに背を向けたまま、話を続ける。
「俺の見通しが甘かった。俺が言い含めて、ヤンキー上がりのお前がそれっぽく挨拶しておけば、上手いこと呑み込めるだろう。それがまず、甘すぎた。あのオークの野郎、そんなものを気にしないくらいに、我も身体も、予想以上に強かった」
「そんな。龍之介さんは悪く無いッス。俺が弱いのが……」
「そうだな。お前が弱いのがいけない。ちゃんと俺についてきて練習してるから、大丈夫だろうと思ってデビューさせたが、どうやら練習以上のことをしてなかったみたいだな。練習以上、課題以上のことをするのは自信になる。自信が無いから、ピンチを前にして、あっさりレスラーから楽な不良へと戻る。いや、いいものを見させてもらったぜ。二度はゴメンだけどな」
恐ろしいまでの酷評だった。思わず、ケンゴは言い返してしまう。
「なんだよそれ……アンタ、俺にプロレスの才能があるって言ったじゃないか!」
「喧嘩慣れってのは才能だよ。ただ、その才能のデカさに、お前がついていかなかっただけだ」
「だいたいプロレスは喧嘩じゃねえってなんだよ。プロレスは喧嘩じゃなかったのかよ! リングでいきなり、今までと違うこと言われたら、やってらんねえだろ!」
その瞬間、ケンゴの胸が弾けた。吹き飛ばされた勢いのまま壁に叩きつけられたケンゴは、ずるずると崩れ落ちていく。
「プロレスはルールのある喧嘩だって言ったんだ。勝手に、ルールを抜くなよ。んん?」
ケンゴの方に振り向いた龍之介は、そう言って手を振る。まるで、剣で人を切ったあと、刃についた血を払う仕草である。振り向きざまの、回転逆水平チョップ。龍之介のチョップには、オークのチョップ以上の迫力と威力があった。
気絶したケンゴを放置し、龍之介は廊下の先へと進む。そもそも、龍之介は今日、ケンゴのセコンドに来たわけではない。今回の興行のメインイベントを務めるために来たのだ。淀耶麻市の興行のメインイベントを連続で務める龍之介は、淀耶麻の王者であった。これから気を静め、王者としての働きを見せねばならない。
だが、その前に。
「あの連中に、とんでもない貸しを作っちまったよなあ!」
いまだ昂る、龍之介。その足は、試合前にオークとエルフが控えていた市民体育館の一室へと向けられていた。
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