百六十四話 あなたは私を、私はあなたを知っている

 一緒に字典を眺めながら、白髪部(はくはつぶ)の若き大統、突骨無(とごん)さんへの親書を作成する翠(すい)さまと私。


「かなり賢い男って話よね。わざと難しい字を並べてやった方が喜ぶんじゃないかしら」


 下書き文を作成しながら、翠さまがアイデアを出す。


「確かに、ある程度は凝った文章で書いたほうが『翠蝶(すいちょう)貴妃は突骨無さんを高く買って対等に見ている。決してバカになどしていない』という気持ちが伝わるかもですね」


 相手のプライドを心地良くくすぐる技というわけだな。

 さすが翠さまです、と清濁併せ呑むその見識の深さと聡明さに、ケチな侍女の私は感服するしかない。

 軽螢(けいけい)にプレゼントされた難読字典が早速、大活躍だわい。


「他になにかあんたが知ってる突骨無の個人的な情報はある?」


 翠さまにそう訊かれて、私は首をひねる。


「うーん、会ったのもごく短い間ですし、私だけが知っているような特別なことは」


 アイハヴノーアイディア、と私がアメリカ人のように両手を軽く広げ、天井を仰いだとき。


「私と麗央那(れおな)、二人とも突骨無から求婚されただろう。忘れるなんて薄情だな」


 ククッと笑いながら、翔霏(しょうひ)が文机に寄って来た。

 あー、それ言っちゃう、それ言っちゃうんだ翔霏?

 突骨無さんにとっては黒歴史だろうから、私はなかったことにしてあげても良かったのだけれど。


「なによそれ面白そうな話じゃないの。詳しく聞かせなさいな」

「深掘りするのはやめてあげましょうよ。突骨無さんが可哀想じゃないですか」


 そんな私の抗議をよそに、翔霏と翠さまは強気女子トークに花を咲かせる。


「私たちの北方での暴れっぷりに気を良くしたのか、突骨無は私も麗央那もまとめて嫁に来てくれと言いましてね。まったく興味がないのでその場で断りましたが、あいつも今は白髪部の大統の身、少し勿体ないことをしました」

「勢いで求婚するような男はダメよ。断って正解。優柔不断で慎重なくらいがいいわ。優しくてお嫁さんを大事にしてくれるような男じゃないとあたしはあんたたちをお嫁になんて出さないからね」


 いつの間にかすっかり私たちの保護者気分でいる、翠さまであった。

 肩を竦めて翔霏が苦笑する。


「翠殿下の目に適うような男が、そうそういますか?」

「いるにはいるわよ。この国の中でもとびっきりの男(ひと)が少なくとも一人は」


 それ、皇帝陛下じゃねーかよ!

 誰よりも自分が一番大事にされているという自覚と自負が、翠さまにはあるのだなあ。

 素晴らしいことだし、羨ましいなと思う。

 私は翠さまと陛下のランデブーをお邪魔虫したくないので、侍女以外の立場で後宮入りするのはお断りである。

 いや、そもそも皇帝陛下が私を選ぶという未来が有り得ないと思うけれどさ。

 話を聞きながら親書の下書き案をメモしていく翠さま。


「そっか。あんたたちはひとまずのところ突骨無に悪い印象を持たれてはいないのね」


 ふむふむと一人で納得しながら、手紙をどんどんと書き進めて行った。

 そうしてこの日も、楽しい時間が過ぎて行き、夜になった。

 毛蘭さんはお休みのシフトなので、夜のお世話は私だけ。

 強く香り過ぎない程度に寝室の花をあれこれ配置し直す私に、翠さまがおもむろに言った。


「央那。あんた翔霏と一緒に北方に行きなさい。親書はあんたの手で届けるのよ」


 ほえ、と突然の命令に呆気にとられる私。


「嫌ですよ。せっかく翠さまもお目覚めになったのに。赤ちゃんが生まれるまで、断固として私は角州(かくしゅう)から離れません」


 反射的にそう答えてしまった。

 でも本心だ。

 今くらいは、今だけはもう。

 離れ離れは嫌なんだよう、と泣きそうな顔になる。

 しかし私の懊悩を知ってか知らずか、翠さまはいつもと同じ冷静さで堂々としていた。


「夢の中であんたになってたからってあたしにはあんたのことをすべてわかるわけじゃないけど」


 前置きにそう言って、翠さまは花びら占いのようにヒナゲシの花弁をむしる。


「突骨無と斗羅畏(とらい)が身内なのにすれ違って喧嘩するのは嫌なんでしょ? 争いがもし激化して神台邑(じんだいむら)みたいに悲惨に焼かれて殺される人が出て欲しくないと思ってるんでしょ?」

「そ、それはもちろん、そうですけどぉ。でもでもだって、私が行ったからってどうにかなるものじゃ」


 私が弱気な言い訳に夢中になっていると、翠さまはキッときつく鋭い眼差しで私を睨み。


「今行かないとあんた絶対後悔するのよ。あのときああしておけばってお婆ちゃんになってからもずっと心の中で悔やみ続けるのよ。あんたが行って事態が治まる保証はないけどここで行かないと死ぬまであんたは自分を責め続けるわ」


 まるで、その未来を見て来たかのように。

 私が決意して行動した未来と、決意できずに行動できなかった未来、両方をその目で見てすでに知っているかのように、翠さまは断言した。

 心の中、奥の奥の方で、白髪部がこれからどうなってしまうのかを常に気にしていた私の本音を、翠さまは完全に見通しているのだ。

 うぐう、と反論の言葉をまったく持ち得ない私に、翠さまは容赦なく厳しい説諭を浴びせかける。


「あんた自分を嫌いなままこれからも生きて行きたいの? これから生まれるあたしの赤ん坊にも自慢できないような未練と後悔と言い訳ばっかり用意して生きて行くつもりなの? あたしはそんなあんたを傍に置いていったいどういう顔であんたに向き合えばいいの?」

「う、うううう」


 そうだ、私は。

 臆病で後ろ向きな言い訳を重ねながら生きて行くのは、もうごめんだと去年の夏、灰燼と化した神台邑で、誓ったのではなかったか。

 翠さまの傍でお世話しないといけないという屁理屈を、行動しない理由に持ち出すのは、その誓いを裏切ることに他ならないのではないか。

 迷っている私が、本当はなにをすべきなのか。

 私よりも深く正しく、それを知っていたのは翠さまなのだ。


「す、翠さま……」


 くしゃりと涙に押されてひしゃげる顔で、私は吐露した。

 本当の、本気の、正直な私の気持ち。


「わ、私、突骨無さんのところへ行きたいです。バカなこと考えてるんじゃないよって、怒鳴りつけてやりたいんです。斗羅畏さんも突骨無さんも根は良い人たちだって知ってるから、喧嘩して欲しくなんかないんです……」


 うわあん、と私は寝台に腰掛ける翠さまの太腿に泣き崩れて縋った。

 本当は、ずっと考えていた。

 白髪部のみなさんとも、私たちは決して悪い関係にない。

 翔霏と私は突骨無さんにプロポーズまでされているし、軽螢は白髪部の重鎮おじさんたちからの心象が良い。

 椿珠さんだってもともと、突骨無さんを贔屓して若いうちから親しく深く商売を交わしていたのだ。

 私たちが翠さまからの親書とお土産を、直接に突骨無さんに届ければ。

 突骨無さんがなにかしようと画策していても、その動きを躊躇させ、足踏みさせることは可能なのではないか。

 その時間稼ぎは、いずれ突骨無さんが攻撃しようとしているどこかの標的や、緊張状態にある斗羅畏さんにとって絶大な好材料になる。

 突骨無さんに先手を取られていた状況を、巻き返す時間として使えるかもしれないからだ。


「行きたいなら最初から素直に行きたいって言いなさいな。赤ちゃんだってそんなに早くポンポンと生まれて来ないわ。あんたが北方に行って帰って来てもお産までまだまだ日にちは残ってるでしょうよ」


 私の頭を優しく撫でながら、翠さまが言う。

 呪いによって翠さまが眠らされていたのはおおよそ三月半、百日ほどだ。

 その間、赤ちゃんの生育も停滞していたので、仮にお産の時期がそっくりスライドするとなると。

 翠さまの出産予定時期は晩秋、あるいは冬至の近くあたりになる計算だ。

 一般的に十か月で赤子が生まれるとして、翠さまは三か月ちょっと足踏みしたわけだから、臨月と出産に十三か月以上かかるかもという単純計算である。

 今は初夏に差し掛かるあたりなので、ハローベイビーまでは半年前後の猶予がある。

 白髪部の領内に行って、突骨無さんを怒鳴りつけるなり説得するなりして、角州に帰ったとしても、半年まではかかるまい。

 ダメ押しのように、翠さまはおっしゃった。


「どれだけ離れてようがあたしとあんたはここで繋がってるじゃない」


 とん、と私の薄い胸を指先でつつく翠さま。

 ここまで言われては。

 ここまでのことを翠さまに言わせてしまっては、もう、迷うことはできない。


「わかりました。私、行ってきます。翠さまにも生まれてくる赤ちゃんにも、恥ずかしい自分にならないように、やれるだけのことはやってきます」


 決意して涙を引っ込めた私は、しっかと翠さまの手を握って、言った。

 翠さまは私の手を同じくらいの力で握り返し、満面の、けれど少しだけ涙混じりの笑みでお言葉を返された。


「それでこそあたしの身代わりだわ。あんたはあたしの分身なんだから蝶のように自由に飛び回りなさい。お腹が大きくて動くのが億劫なあたしの代わりにどこまでも飛んで行くのよ」

「はいっ、央那、飛びます!」


 こうして私と翔霏、軽螢と椿珠さんのゴールデンメンバーは、アホなことを考えている突骨無さんの頭を冷やすために、白髪部の大都(だいと)へ向かうことになった。


「三弟(さんてい)、くれぐれも無茶をなさらぬよう」

「調子に乗ってみなさまに迷惑をかけないようにね」


 準備を一手に担ってくれた椿珠さんを、巌力(がんりき)さんと玉楊(ぎょくよう)が見送る。


「無茶なやつがいないと、できないだろ」


 笑って椿珠さんは、巌力さんに肩パンチした。


「向こうは物騒なんだからくれぐれも翔霏の側を離れるんじゃないわよ。各地で有力者に会える機会があるなら積極的に心付けを渡しておきなさい。道中で必要な買い物も司午の屋敷にツケておいて良いから」


 翠さまが私たちに心得を訓示する。

 珍しく真面目な顔でそれを聞いていた軽螢が、翠さまに質問した。


「どれくらい遣(つか)っちゃっていいんだ?」


 ゼニの話かよ、ちゃっかりしてるなあ。

 大事なことではあるけれどね、無駄遣いはいかんぞ。


「一万金までならあたしの独断で出してあげるわ。そんなに使うアテはないでしょうけど」


 法外過ぎる予算に、軽螢と椿珠さんが立ち眩みを起こした。

 ちなみに一金で、庶民にとって四人家族ひと月分の食費が間に合うくらいの価値がある。

 雑に日本円で換算するなら、五億円以上、十億円未満といったところか。

 おろろ? 私も額面の巨大さに足が震えて来たな?

 あ、翠さまは司午家に割り当てられた自由交易の限度額いっぱいまで、この作戦に投資してもいいと考えているのか。

 ここが勝負どころなのだから、ケチケチ張るな、全部突っ込め、ということかあ。

 私のご主人、肝っ玉が、太すぎる。


「残念です。僕も行きたかったのですが」


 悔しそうにしている想雲くんの肩を、翔霏がポンポンと叩く。


「屋敷で貴妃殿下を守るのも大事な役目だ。きみも会ったばかりの頃に比べて随分と逞しくなった。頼りにしているぞ」

「は、はいっ。精一杯、努めたいと思います!」


 爽やかな体育会系男女の空気が流れているな。

 そして私の道具袋、もちろんいざというときのための毒串入りを手渡しながら、先輩侍女の毛蘭(もうらん)さんが言った。


「私は、いくら翠さまのお考えだからと言って、央那ばかりがこんなに大変な目に遭うこともないじゃないのと、ずっと思っているのよ」


 表情には憂いと哀しみの影が差していた。

 毛蘭さんは優しい人だ。

 こういう視点を持っている人が近くに居てくれるのは、本当に嬉しいことだと思う。


「ご心配ありがとうございます。でもこれは、私の意志でもありますから」


 確かに尊敬し信頼しているご主人の命を受け、私は北方に向かうわけだけれど。

 それだけが、旅立つ理由ではない。

 私自身が、そうしたいのだ。

 いつだったか、百憩(ひゃっけい)さんと「自由」について話し合い、問答したことがある。

 人は自分の肉体の事情や、外の世界の環境にどうしても縛られて生きている。

 生きるということは、生まれながらにして自分をがんじがらめにしている不自由と、どう折り合いをつけるかということなのかもしれない。

 なら自由は、どこにあるのか。

 人の、魂の自由とはいったいなんなのか。


「私の心は、なによりも自由だと信じたいんです。だから私は行きます。そうしたいと心の底から思うんです」


 毛蘭さんと軽くハグし合い、私は手を振って出発する。

 さあ、運命よ。

 残酷にして理不尽な、私に最も近しい隣人よ。


「どんな邪魔をしようが、全部怒鳴り散らして追っ払ってやる」


 なにが待っているのか、次の旅も楽しみだった。

 翠さまに見守られ、苦楽を共にした仲間に囲まれている。

 私が運命に負ける未来なんて、あるわけがないのだ。

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