桜雲に萌ゆ

まっしろしろすけ

桜雲に萌ゆ

 桜花爛漫、私が高校生になってから2回目の春が来た。

 ピンクに染まった季節、優しい風が教室の中に暖かい春の陽気を届け、私の髪をそっと撫でるように揺らした。

 桜のカーペットはあっという間に広がり、その上を歩いて登校してくる生徒たちを、私は頬杖をついて眺めていた。

 窓側の席。それも、一番後ろ。これ以上の特等席はないだろう。

 緊張している様子の新入生、桜と写真を撮る女子たち、スマホに視線を落としたまま顔を上げる気配もない男子生徒。

 様々な顔が流れ、ふと気がつくと、ある男の子で視線が止まる。

 友人とふざけ合いながら歩く、彼の屈託のない笑顔に心が芯から焦がされるような、そんな感情を覚える。



『桜好きなの?』


 ちょうど一年前、初登校の日。

 あのピンクのカーペットの上で桜を見上げていると、彼が話しかけてきた。

 初対面。しかも男の子との絡みにあまり経験がなかった私は突然のことに硬直してしまい、返答ができなかった。

 彼はそんな私に眉をひそめることもなく、


『俺は桜好き』


 そう、笑ってみせた。鮮やかな笑顔で、桜なんて霞んだ背景にしてしまうほど眩しかった。

 きっと、あれが一目惚れというものだったのだろう。



 ただいたずらに桜の花びらが散って、そうしているうちにも彼は友達に呼ばれたらしく、「じゃっ」とその場を去っていったのを覚えている。

 何かの導きか彼と同じクラスになり、それからというもの、彼は事あるごとに私に話しかけてくれるようになった。

 なかなかクラスに馴染めなかった私にとってそれは救いでもあり、そのことを抜きにしても彼と話す時間は何よりも楽しかった。

 だが、2年生になってクラスが離ればなれになってしまった。

 期待してなかったと言えば嘘になる。彼の横で、その笑顔を、優しさを、太陽のようなぬくもりを、もっとずっと感じていたかった。


『な、明日提出の課題って何かあったっけ?』


 何気ない彼の言葉も、


『授業で班作るんだと。一緒にやらね?』


 鼻の頭を掻きながら少し照れたようにいう彼も、


『高嶺、見てくれ、数学94点!』


 すべての思い出が心の中で反響している。そのたびにきゅっと締め付けられる。

 結局はこの妄想じみた想いも桜の花びらと共に儚く散ってしまうのだろう。




 それから数週間が経ち、色褪せた桜の道を歩いて下校する生徒たちを横目に、私は道の端で桜を見上げていた。

 ずっしりとした鞄に体を持っていかれそうになりながら若葉が混ざった桜の木をぼうっと眺める。

 友達もある程度できて、授業にもついていけている。満足した生活が続いている、はずだ。

 しかし、どこかぽっかりと空いた穴は未だ塞がれることはなかった。

 結局進級から関わることがなかった。これで終わりなのだろうか。


 ……忘れなければ。


 特に意識しているわけでもなかったが、視線の端に彼が映り、吸い込まれるようにしてそちらに目を向けた。ちょうど体育館裏に姿が呑み込まれる瞬間だった。

 一瞬だったが、たしかに1人だった。放課後に体育館裏で何を?


「…………」


 桜に視線を戻し、ぐっと口を固く結ぶ。


 最後にしよう。気になったのは仕方がないから、本当にこれで最後。何をしているのか確かめたら、忘れよう。


 決意を固め、もう一度体育館へ顔を向ける。



 無断で後をつけているという罪悪感に蝕まれながらも体育館裏を覗き込む。特別変わったところもない、幅人2人分ほどの細い道が続いている。

 生唾を飲み込み、覚悟を決めて進んでいく。

 曲がり角を曲がると、彼がフェンスを乗り越えて学校の敷地外へ出るところが見えた。その方角には緩やかな丘がある。

 少し迷ったが、ここまで来たのだ。見失わないよう追いかける。

 フェンスを危なげなく乗り越えると、窮屈な体育館裏から一気に開放的な空間になった。

 ぽつぽつと木々が生えていて、見渡す限り背丈の低い草が地面を覆っている。


「ーーでさ、」


 聞き覚えのある声が聞こえてきて、息が詰まった。誰かと話している。

 吸い込む空気がずっしりと重たくなったかのような錯覚に陥る。

 引き返すのも手だ。いや、引き返した方が良い。

 私の考えを振り払うかのように手足が勝手に動いた。

 丘を登りきった数メートル先に彼の背中が見えた。屈んでいるようだった。他に人はいない。

 自身を取り巻く空気が幾分か軽くなったように感じた。


「どうしたらいいかなー」


 何と喋っているのだろう。

 一歩ずつ近づき、気配を感じたのか、彼が急に振り返った。ばちっと目が合う。


「あ、えっと、あれ? 高嶺? なんでここに?」


 目を白黒させて困惑する彼に私は「ご、ごめん!」と声を出す。


「体育館裏に行くのが見えたから……気になって、黙って着いてきちゃって……」

「あ、そっか、そっか。いや、大丈夫」


 後頭部を掻き、立ち上がる彼の背後には小さな葉桜が生えていた。背丈一メートルほどで可愛らしい桜の花を点々と咲かせている。


「桜? 可愛い」


 彼の横に並び、かがみ込む。花びらを撫でると、自然と笑みが溢れる。


「山崎くんが植えたの?」

「いんや、俺じゃない。いつ誰がどうしてこんな場所に植えたのか、俺は知らない」


 「でも、」と彼は続ける。


「なんか居心地が良くてたまに来ちゃう」


 立ち上がった私に向かって微笑む彼が眩しくて、思わず目を逸らしてしまう。桜に気を取られていたが、いつもより距離が近い。


「あのさ、カッコ悪いけど、俺が桜に話しかけてたこと、あいつらには言わないでくんね?」


 そうおどけたように言う。

 あいつら、というのはいつも一緒にいる友達たちのことだろう。


「え……言わないよ! 絶対!」

「助かる〜! こんなこと知られたら2ヶ月は馬鹿にされるからな」


 嬉しそうに笑い、彼の喉仏が上下に揺れた。優しい声、長いまつ毛、サラサラの髪、一つ一つが私の心臓を波打つ。「桜と何の話をしてたの?」と訊くと、彼は打って変わって渋い顔になる。


「いや、それは、その……はは」

「…………?」

「クラス変わったから、どうしようかなーと」

「友達と離れたの?」

「いや、そうじゃなくて、えーと、そうでもあるか……」


 歯切れの悪い返答に首を捻る。

 彼は何かを隠すように目を逸らし、足元の葉桜を見つめながら少し沈黙して、再び私と目を合わせた。


「高嶺と、クラス離れたから……」

「……え」


 間抜けな声が漏れた。遅れて心臓がどくんと大きく跳ねる。


「それって……」

「高嶺とまた話すにはどうしようかなっていう作戦会議」


 顔が熱くなる。

 彼はほのかに紅潮した頬を誤魔化すようにはにかんだ。


「結構恥ずい……」


 呟かれた言葉が夕焼けと重なって赤く染まった。気が付かないうちにかなりの時間が経っていたようだ。

 目線を下げ、胸に手を当て、なんとか心を落ち着かせる。


「……私もクラスが離れて悲しかった」

「え、マジ?」

「うん」


 きっと、夕焼けのおかげで顔が赤くなっていることはバレていないはずだ。

 顔を見上げる。視線が絡み合う。


「不思議だな……まさか、こんなことになるなんて」

「桜のおかげかな」

「間違いない」


 小ぶりな葉桜が自信ありげに足元で揺れている。

 突然けたたましい音がなり、2人揃って肩をびくりと震わせた。

 彼がズボンのポケットをまさぐり、スマホを取り出す。


「わり、ちょっと電話」


 そう断って通話を始める。


「もしもし……あー、もうそんな時間? おっけ、分かった、今行く」


 電話を切ったのを確認して尋ねる。


「何かあった?」

「すまん、塾あるんだった。完全に抜けてた」


「ひぃ〜」とわざとらしい声を出す彼に思わず吹き出してしまう。


「高嶺は? 1人で帰れる? 送ろっか?」

「ううん、大丈夫。塾に遅れたら大変でしょ」

「ほんとにわりい、途中まで一緒に行こうか?」

「もうちょっとここにいる。ありがとう」

「そっか、分かった。また明日な。……よかったらここで」

「……! うん!」


 彼の背中が遠くなる。その姿が過去のあの日と重なる。呼び止める勇気もなく、ただ桜の花びらが虚しく散っていったあの日。

 今なら。


「あ、あのっ」


 きょとんとした彼が振り向いた。


「好き、です。…………桜、私も」


 数秒の沈黙の後、くしゃっと破顔する彼はやはり眩しかった。



 彼が去った後、小さな葉桜に向き直る。足元がふわふわしている。心臓の高鳴りはまだ抑えられない。しゃがみ込み、顔を両手で覆う。


『また明日な』


 その言葉をゆっくりと何度も口の中で繰り返し、噛み締める。自然と口角が上がる。それに抗うのはとうの昔に諦めた。

 桜のほのかなピンクと若葉、夕焼けの朱が混ざり、焦げる、焦げる。焦がれる。

 葉桜は次の春に向けて準備を始める。否、既に春は始まっているのかもしれない。


 春を告げる若葉がオレンジ色に煌めく。熱くもえあがっている。

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桜雲に萌ゆ まっしろしろすけ @shirosuke0000

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