非公開の続きから

「裕翔……裕翔っ……」


 よかった、バレてない。でもこれ以上「裕翔」と呼ばれたくない。


 体を離そうとすると、飛燕は両手両足を使って、兎斗をグッと引き寄せた。


「裕翔……これが最後だ」


 飛燕は兎斗の頭を抱き込み、唇を重ねた。しつこいくらい舌を絡ませ、角度を変えて唇を貪る。


「裕翔……頼む。俺からの最後の願いだ」


 水っぽい目に見つめられ、急に居心地が悪くなった。でも今更「裕翔じゃない」なんて言えるわけがない。


 頼みってなんだろう。裕翔は体を支配していない間の状況は夢でみると言っていた。兎斗のように、その間も同じ景色を見ているわけではないのだ。


 紙に書いて伝えるしかない。伝えたくなければ、書かなければいい。


「……なに?」


「もう、佐了としないでくれ……」


「っ……」


 息が詰まった。相手は飛燕、嫌いな相手だ。なのに、そんなに裕翔が好きかと、独り占めしたいくらい好きなのかと、虚しさが込み上げた。


「そん……」


 思わず聞いてしまいそうになり、慌てて唇をつぐんだ。


「本当は……この場所を佐了には隠していた。……知られていないと思っていた」


 後悔の滲んだ声。独り占めできなかったことがよほど悔しいらしい。


「裕翔……すまない。本当に……身勝手な頼みであることはわかっている。わかってはいるのだが……」


 興奮が嘘のように冷めていく。裕翔、裕翔、裕翔……こいつはそのうち消えるのに。僕が残って悪かったね……卑屈な感情に支配される。


「兎斗に、お前と佐了の情事を見せないでやってくれ……」


「えっ……」


 ドキッと胸が跳ねる。


「裕翔……どうか佐了としないでくれ……断ってくれ……俺は、想像するしかできないが……兎斗の立場はきっと辛い」


「…………でもあいつ、飛燕に酷いことしたじゃないか」


「酷いことをしたのは俺だ。佐了に嫉妬し、体格と年齢を利用して幼いあいつをいたぶった。その胸の傷は、俺がつけたものだ」


「嫉妬?」


「ああ、俺の好きな人に愛され、乳の出る体を持つ佐了が羨ましくて憎かった……それで、あいつが可愛がっていた兎斗をいためつけた。そうすれば佐了が悲しむとわかっていたからな。……呆れるだろう? 俺はお前が思っているような人間ではない。嫉妬深く、意地汚い男だ」


「なんで……乳の出る体に嫉妬するの? ……大変じゃないか」


 言った後、裕翔はいつも乳首を同時に責めていたことを思い出した。


 兎斗は、乳の出ない乳首を弄ったことがない。もちろん、吸ったこともない。そこはどんな味がするんだろうと、無性に興味が湧いた。


「それは……んぁっ」


 片方に吸い付き、もう片方を指の腹でこねた。


「んっ……ははっ、どうした、裕翔……あっ……んうっ……」


 甘美な乳の味はしない。けれどツンと尖った小さな粒の舌触りと、汗の匂い、吸い上げれば泣き出しそうな声で応える飛燕の姿は、どんな乳の味よりも魅力的だった。


「はっ……う、んっ……裕翔っ……」


 ぎゅうっと抱きしめられた。やりすぎただろうかと、兎斗は口を離す。


「裕翔……お前が、そうして俺の胸……何も出ないそこを吸ってくれたことに……俺はどれほど、救われただろう……」


 感極まったような掠れた声で、飛燕は言った。


「そこを吸われ……俺は後ろめたさから解放されたのだ。裕翔……俺は生涯お前を忘れない。お前が俺にしてくれたこと……俺のために泣いてくれたこと……ふふ、裕翔、また泣いてくれるのか?」


「飛燕……喋りすぎだよ……永遠に別れるわけでもないのに……」


 自分に言われても、困る。そういう大事なことは本人に直接言ってくれ。


「明日、俺はここを発つ。もうお前と会うことはない」


「そんなっ……」


 自分が出てきてしまったせいで、裕翔との別れの時間を奪ってしまった。


 自分の体なのに、兎斗は奇妙な罪悪感に苛まれた。「いやだよ」と首を振る。


「また来れば良いだろ……会うことはないって……な、なんだよそれ……」


 なんだよそれ。口に出すと違和感が増した。


 まさか……ゴクリと唾液をのむ。


「……もしかして、兎斗に命を狙われるから?」


 甲斐連の命令を飛燕は知っている。自分と距離を置こうと考えるのは当然かもしれない。


「ころ……さないと思う」


 目を閉じ、飛燕にされたことを思い出す。胸を斬り付けられ、踏みつけられた。犯される知布を見せられた。蹴られた。殴られた。その憎しみを甲斐連は殺害に利用できると考え、飛燕殺害を自分に任せた。


「殺せるわけない……こうやって俺が出ている間も、あいつは見てるんだ。……ずっと見てるんだよ……もう、飛燕のしたことは怒ってないよ」


 本心だった。殺せるわけがない。殺したくない。もういい。自分が受けた仕打ちは全て許す。これ以上根に持つ理由はどこにもない。


 何がおかしいのか、飛燕はクスクスと笑った。


「……ふふ、お前はいい……お前の育った環境はいかなるところだろう……きっと、武力や陰謀のない平和な場所なのだろう……お前の無知は愛しいな」


 そろそろと頭を撫でられる。


「兎斗は、命令に背くことはできない。だから俺はもう、お前に会わない」


 断言され、兎斗は必死に首を横に振った。いっそ名乗れたらどんなに楽になれるだろう。


 でもそんなことをすれば、飛燕は傷つく。せっかくの好きな相手との交わりが台無しになる。


「飛燕……俺のこと、好きなんだろ?」


 だったら兎斗の命令なんか忘れてさ、会いにくればいいじゃん……そう続けるつもりが、飛燕の悲痛な表情に言葉が詰まった。


「愛している」


 申し訳なさそうな、切なげな眼差しで、飛燕は言った。

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