宿屋で休憩 3話

 大浴場という名の通り、大きな浴場だった。花弁の枚数は数えていないが、かなりの量の薔薇が使われていることは見るだけでわかった。


「そうねぇ……。でも、花の命は短いから。枯れる前の最後の仕事だったかもしれないわね」


 朱亞シュア桜綾ヨウリンは脱衣所に足を進め、用意された着替えに触れ――……


「も、もしかしてこの服は、絹ですか……?」

「あら、朱亞は肌触りでわかるの?」


 桜綾はすでに袖を通している。自分がこの服に袖を通して良いのか悩み、そろりと顔を上げた。


「私が絹なんて着ても良いのでしょうか」

「朱亞もお客さまだもの。構わないわよ」


 その言葉を聞いて、朱亞はそうっと袖を通した。こんなにも肌触りの良い生地は初めてで、どきどきと胸が高鳴る。


 そのあと、髪を乾かしてから桜綾の背中を追いかけた。


 改めて宿屋の内装を見渡す。赤色の鳥がたくさん描かれていて、すべて朱雀なのかしら? と凝視していると、ふと誰かが咳き込んでいる音が耳に届いた。咳き込んでいる人を探すと、壁に手をついて咳き込んでいる男性が視界に入る。朱亞や桜綾と同じ服を着ているので、恐らく宿泊している人だろう。


「あの、桜綾さん。少し待っていてもらっても、良いですか?」

「え? あ、朱亞!」


 咳き込んでいる人を放っておけず、朱亞は目的の人物に近付いた。そして、苦しそうに咳き込んでいる人に声をかける。


「大丈夫ですか?」


 朱亞が声をかけても、その人は咳き込むばかりで返事ができないようだ。


「桜綾さん、私の荷物ってどこにありますか?」

「きっとあの馬車にあるわ」

「ちょっと探してきます!」

「待って、朱亞。わたくしが行くわ。あなたはこの人を見ていて」


 桜綾は朱亞の肩に手を置くと、すぐに駆け足でその場を去る。そして、咳き込んでいる人の身内らしき人が、水の入った湯呑を持ってきて、朱亞の存在に気付くと「誰ですか? 夫になにか用事が?」と声をかけてきた。


「先程からずっと咳き込んでいるので、気になって」

「そうなんですよね、熱は収まったんですけど、空咳が出て。痰は出ないみたいなんだけど……」


 心配そうに眉を下げて、咳き込んでいる男性に水を渡す。ようやく落ち着いてきたのか、湯呑みを受け取り、ゆっくりと水を飲む姿を眺め、朱亞は「ふむ」と小さくつぶやく。


「前から酷かったのですか?」

「ううん。そうでもなかったかな。旅行中に風邪をひいてしまったみたいで、この宿屋で少し休憩していたの」


 最初は敬語を使っていたが、朱亞が自分よりも小さい子だと気付いた女性は敬語をやめて、旅行中のことを思い返しているのか両肩を上げた。


「夫婦になって最初の旅行だっていうのにねぇ」


 男性が水を飲み終わり、ゆるりとした動きで顔を上げる。ふぅ、と息を吐き朱亞に視線を移すと「さっき声をかけてくれた子だね」と優しく微笑む。


「大丈夫……そうではありませんね」


 またけほこほと空咳を繰り返す男性。それに寄り添う女性。彼女は男性の背中を擦っていた。


(夫婦ってこんな感じかなぁ)


 村で暮らしていたときを思い浮かべる。そういえば、誰と誰が夫婦で、という話はあまりしなかった。そもそも朱亞のような子どもは少なかったと思い返し、疑念を抱く。


 旅をしてわかったことは、住んでいた村があまり一般的な村ではなかったということ。


 村長はあのまま村で暮らして、結婚して……子に恵まれて暮らすのも選択肢のひとつだと言ってくれたし、旅立つことに反対もしなかった。


(みんな、元気かな?)


 村で暮らしている人々を思い浮かべながら、ぼんやりと考えていると、桜綾が梓豪を連れて朱亞のもとに駆け寄る。


 息を切らしながら、朱亞の荷物を持って来てくれた。


「朱亞の荷物は、これよね?」

「はい、ありがとうございます!」


 どうして梓豪も一緒にいるのだろうと思ったが、今はこちらのほうが優先だと、彼女から荷物を受け取る。


 鞄から瓶と小さな匙も取り出し、瓶の蓋を開けると匙で中身を掬い、男性の前に差し出す。男性は不思議そうにそれを見ていたが、朱亞が「これ、咳に効くんです」とにこやかに言葉をかけると、少しだけ口を開けて匙を口の中に入れた。


「しばらく唾液で溶かしてから、飲み込んでくださいね」


 こくり、と男性がうなずくのを見て、朱亞は女性に瓶と匙を差し出す。


「これ、よかったらどうぞ。毎日少しずつ、今のように飲ませてください」

「そんな、悪いよ……」

「いいえ。人は支え合っていくものだ、と祖父から教わりました。これは栝楼かろうの汁を白いはちみつと砂糖で煮詰めたものです。清熱止咳膏セイネツシガイコウといって、咳が頻繁で熱を抑えても空咳が出て、痰が出にくい人向けなんです」


 その説明を受け、女性は少し考え込んだが、彼女の夫がこくりとそれを飲み、喉元に手を当てる。


「少し楽になったよ、ありがとう」

「お役に立てたのなら、なによりです」


 男性の言葉にほっとしたように胸を撫でおろすと、「治るまで飲ませてくださいね」とぐいっと押し付ける。思わず受け取った女性に、小さく頭を下げた。


 桜綾と梓豪に近付いて、「行きましょう」と声をかける。


「お嬢ちゃん、ありがとうね!」

「どういたしまして、お大事に!」


 去っていく姿を見て、女性が慌てたようにお礼の言葉を口にすると、朱亞は振り返り満開の笑みを浮かべて大きく手を振った。


「朱亞さん、今のはいったい?」

「おじいちゃんに教わったんです。赤黄色の栝楼を数個すり潰して汁を取り、同量の白いはちみつと砂糖少々を混ぜて土鍋で煮るとできあがります」


 梓豪の問いにすらすらと答える朱亞。桜綾は感心したように息を吐く。


「本当にいろんなことを知っているのね」

「いつか役立つかもしれないから、って教え込まれました!」


 屈託のない笑顔で語る朱亞に、桜綾と梓豪は顔を見合わせて優しい表情を浮かべた。

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