宿屋で休憩 2話

 朱亞シュアは初めて見た大浴場をわくわくとした瞳で見渡す。人の姿は見えず、朱亞と桜綾ヨウリンだけのようだ。


「うふふ。それじゃあ、まずは髪と身体を洗いましょうね」


 桜綾に案内されて、先に髪と身体を洗う。雨に打たれて冷えた身体は、髪と身体を洗っているうちに少しずつ身体が温まる。


「きれいな髪ね」

「え?」

「朱亞の髪よ。翠色の髪色で、艶があってきれいよね」


 朱亞は自分の髪に触れて毛先を持ってみる。髪色を褒められたことがあっただろうかと回想し、祖父に褒められたくらいだったかな? と照れたように頬を赤く染めた。


「ちゃんと髪の手入れもしているみたいだし……、羨ましいわ」


 頬に手を染めて観察するように、じぃっと朱亞の髪を見つめた。その視線に首をかしげて、口を開く。


「桜綾さんの髪だってきれいですよ! 雰囲気にぴったりです!」


 ぐっと拳を握り桜綾に言葉をかける朱亞に、彼女は目を丸くしてくすりと笑った。


「身体と髪を洗ったら、しっかりと芯から温まらないとね」


 桜綾は朱亞の髪を上のほうでまとめ、自分の髪も湯に浸からないようにしてから、湯船に足を入れた。ちゃぷんと水音が聞こえる。よく見ると、赤い花びらが湯船に浮かんでいる。


「器用ですね」


 自身の髪が湯に浸からないようにまとめられていることに、そっと後頭部を触ってみる。解けないように気をつけながら。


「朱亞もできるようになるわよ、きっと」


 お湯は少し熱いくらいだったが、身体が芯から温まっていく感じがして、ほぅ、と息を吐く。桜綾は朱亞の隣に座り、


「手足が伸ばせるって最高よねぇ」


 と、恍惚の表情を浮かべて、ぐーっとお湯を押すように手を組んで腕を前に伸ばす。


「泳げちゃいそうですね」

「うふふ、幼い頃、わたくしもそう思って少し泳いじゃった。お母さまにきつく叱られたけどね」

「そのときも、こんな風に花弁が散っていたんですか?」


 赤い花びらを一枚つまみ、桜綾に見せる朱亞。彼女は組んでいた手を解き、顎に人差し指を添えて天井を見上げる。幼い頃を思い出して「そのときはなかった気がするわ」と答えた。


「今日は特別なのでしょうか……?」

「この宿屋はね、大浴場があるから結構人気なのよ。だから、お客さまがいつ来てもくつろいでもらえるように、いろいろ試しているみたいね」

「商売上手な宿屋なのですね」


 しみじみと朱亞が感心したように言葉をこぼすと、桜綾は目をまたたかせてから小さくうなずく。


 湯船に浸かりながら、桜綾との会話を楽しんだ。彼女が商家の娘であることを知り、将来はと話していた。過去形? と首をかしげると、桜綾が複雑そうに表情を歪めていることに気付き、彼女の手をぎゅっと握った。


「朱亞?」

「……桜綾さんは……後宮に行くのですか?」


 たずねた声は震えていた。桜綾はふっと笑みを浮かべ、朱亞の手を握り返す。


「陛下に見つかってしまったから、そうなるでしょうね。……朱亞、ひとつ、お願いがあるのだけど」


 桜綾がすっと目元を細めて、真剣な表情を浮かべる。そんな真剣な表情でする『お願い』とはどんなものなのだろうか。朱亞は不安げに瞳を揺らす桜綾を見て、口を開く。


「私にできることですか?」

「あなたにしかできないわ。朱亞、わたくしの侍女になってくださらない?」

「……?」


 言葉の意味が理解できなかったのか、朱亞は猫のような大きな目を見開いて、それから「じじょ?」と言葉をこぼす。若緑色の瞳には、はっとしたような表情の桜綾が映っている。


「もしかして、『侍女』がなにか知らない?」


 素直に首を縦に動かす朱亞に、桜綾のほうが驚いてしまった。どうやら彼女の知識はかなり偏られていると考え、桜綾は次に紡ぐ言葉に詰まった。


(この子に与えられた知識は、いったい――?)


「桜綾さん?」

「あっ、ええと、そうね。侍女というのは、わたくしのことを手伝ってくれる女性のことなの」

「手伝う?」

「ええ。わたくし、恐らくこのまま後宮に向かうことになるわ。そして後宮でわたくしの味方がない……だから、朱亞。わたくしの味方になってもらいたいの」


 切々と言葉を紡ぐ桜綾に、朱亞は考え込む。後宮の話は祖父から聞いたことがなかったので、どんなところなのか想像ができない。


 とりあえず知っていることといえば、『皇帝陛下の妻が住んでいるところ』という基本的なことだ。


「私で良いのですか?」

「朱亞だから、いいのよ」


 桜綾の栗皮色の瞳が細められ、美しく笑う。美女の笑顔を間近で見て、朱亞は一瞬息をみ、小さくうなずく。


 ――ぽたり、と気が緩んだのか、桜綾の瞳から涙がこぼれ落ちた。


「桜綾さん!?」

「ありがとう、朱亞。その選択に、後悔なんて絶対にさせないから」


 大粒の涙がぽろぽろと彼女の瞳からあふれ、頬を伝い湯船に落ち波紋を描く。朱亞はおろおろと桜綾の泣き顔をみていたが、そっと手を伸ばして彼女の涙を指で拭う。


「大丈夫ですか……?」

「ごめんなさいね、あなたを巻き込んで、本当に」

「いえ、そんなことは……」


 目元に触れていた朱亞の手を取り、桜綾は優しく微笑んだ。互いに頬が赤く染まっていることに気付き、先程まで感じていた寒気が消えたことに気付いた。


「そろそろ上がりましょうか。のぼせちゃったら大変だしね」

「はい!」


 身体がぽかぽかと温まった。そして、ふと赤い花弁に視線を移して桜綾に尋ねる。


「ところでこの花弁って、なんの花だったのでしょうか?」

「これはきっと、赤薔薇だと思うわ」

「……一輪でもすごく華やかだったんだろうなぁ。それをこんなに入れちゃうなんて、すごいですね!」

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