雨宿りと出会い 5話

「あのままだと、ふたりとも食べられてしまうと思いました。それなら、どちらかひとりだけでも生き残るほうが良いと思って。狍鴞ほうきょうと視線が合ったのは私だったので、きっと私のほうを追ってくると考えたんです」


 ほう、と皇帝陛下が興味深そうにつぶやく。護衛も感心したように朱亞シュアを見ていた。その視線を受けて、ゆるりと首を動かして護衛の人に視線を移す。


「ああ、そういえば自己紹介をしていませんでしたね。わたしはリー梓豪ズーハオ。皇帝陛下に仕えています」


 そう名乗った青年は、恐らく桜綾ヨウリンと同じくらいの歳だ。


 黄色みがかった薄茶色の髪を肩まで伸ばしていて、雨に濡れて水分を含み、ぽたりぽたりと毛先の束から水滴が落ちている。


 瞳の色は蒲公英たんぽぽのように鮮やかな黄色だ。朱亞がじっとその目を見つめるから、梓豪はさっと目を隠すようにうつむいた。


「気味が悪い瞳の色でしょう?」

「あ、いえ。蒲公英の色だな、と思って。蒲公英っていろんな効能があるんですよ。仙人も愛用しているらしいです」

「……は?」


 あまりに別方向からの言葉が返ってきて、梓豪は思わず朱亞を見つめてしまった。朱亞はにこりと微笑み祖父から教わったことを口にする。


擦牙烏須髪還少丹サツガウシュハツカンショウタンという処方がありまして、これは歯を丈夫にし、筋と骨を強壮させる腎経の薬とのこと。八十歳以下の人がこの丹を飲むとひげや髪の毛が黒くなり、落ちた歯も再生できる。少年が飲めば老いるまで衰弱しないそうです」

「それもおじいさんの教え?」


 桜綾に問われ、朱亞は素直にうなずく。多種多様なことを祖父は彼女に教え込み、それを覚えられるだけ覚えたのだ。


「仙人ねぇ……」


 ぽつりとつぶやきをこぼす皇帝陛下。その目は面白いものを見つけたかのように、弓なりに細められた。それを感じ取ったのか、梓豪がこほんと咳払いをすると、朱亞は喋りすぎたと思い自分の手で口を塞ぐ。


「このまま後宮へ行きたかったが、そなたたちに風邪をひかせるのは忍びない。宿屋で一泊してから後宮へ向かうとしよう」

「お待ちください、陛下! 助けていただいたことは感謝しておりますが、わたくしは陛下の後宮に入る気はございません!」


 後宮に入れば二度と外へは出られない。桜綾はそんな人生を送る気はまるでなかった。


 彼女は自分に自信があった。商家の娘として生まれ、両親たちの商売を手伝うつもりでいた。そして、ゆくゆくは家を継ぐのだと自分の人生を定め、そのための知識を頭の中に叩きこんでいる。


 それが狂い始めたのはいつからだろうか。あの商家の娘は絶世の美女だといわれるようになってからだと、桜綾は考える。確かに、自分は美しいという自負はあったが、それがまさか皇帝陛下の耳まで届くとは思っていなかった。


 だから皇帝陛下が自分をわざわざ迎えに来るという噂を耳にして、衝動的に馬に乗り逃げだしたことを思い出し、桜綾はきゅっと唇を結ぶ。


 馬以外にはなにも持たずに山へ迷い込み、川辺で馬は化け物に襲われてしまい、当てもなく山の中をさまよっている最中に強い雨が降りだしてきた。朱亞があの山小屋の扉を開けて呼んでくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。


「それは無理だ、諦めろ」


 皇帝陛下はにんまりと口角を上げて、桜綾を見つめる。


 桜綾が目を大きく見開き、「なぜですか」と怒りに震える声でたずねる。その問いに対し、陛下は桜綾と朱亞を交互に見て口を開いた。


「後宮に入れたら面白そうだから」


 その答えを聞いて、桜綾は思わず彼を睨む。


「そんな理由で……」


 僅かに桜綾の肩が震えていた。梓豪が「陛下」と少しきつめの口調でたしなめると、彼は肩をすくめた。


「とりあえず、身体も冷えているだろうし、腹も空いているだろう? 宿屋でゆっくり休みなさい」


 陛下の言葉に朱亞はうなずき、桜綾は自身の怒りを抑えるかのように、ぎゅっと拳を握る。


「ところでこの馬車、どこに向かっているんですが?」

「帝都だ。余が住んでいる街。ああ、そうだ梓豪、帝都についたらこの娘を案内してやれ」

「え? ですが、陛下。まずは王宮にお戻りになるほうが……」


「あの目を見よ、あんなに楽しみにしているのに、観光もさせないのは酷ではないか?」


 くつくつと喉を鳴らして朱亞を見るように視線で誘導すると、帝都という言葉を耳にして若緑色の瞳をらんらんと輝かせる彼女の姿を見せ、梓豪を納得させた。


「あ、そういえば名乗っていませんでした。朱亞です。苗字はありません」


 自己紹介されていたことを思い出し、朱亞は自身の胸元に手を置いて名乗った。苗字がないことに驚いたのか、目を丸くして梓豪は首をかしげる。


「おじいさんも苗字がなかったの?」


 桜綾が尋ねると、朱亞は村で苗字を持っている人がいなかった、と答える。苗字がなくても名前を呼べば良かったので、困ることはなかった。


 旅を始めてから苗字の存在を知ったくらいなので、自身の知識は偏っていると理解している。


「変わった村に住んでいたようだな」

「平和な村でしたよ。山の近くにあっても、悪鬼あっきにもいませんでしたし……」


 悪鬼の怖さは祖父からよぅく教わっていたが、実物を見たのは狍鴞が初めてだ。よくあの恐怖のなか、山小屋を飛びだせたな、朱亞は改めて自分に感心した。


「……そのような村があったとは、知りませんでした」

「余も梓豪は帝都の生まれだからな。……とはいえ、さすがに余も遠くの村まではよく知らん。そのような村があったことに驚いている……が、そなたの祖父は博識だったのだな」


 祖父のことを褒められて、朱亞はぱぁっと表情を明るくさせながら何度もうなずく。


 その表情を見て、朱亞が本当に祖父のことを好きだったのだと感じ、桜綾はそっと彼女の頭を撫でた。


「桜綾さん?」

「……とりあえず、陛下の言う通り、身体を温めないといけないわね。風邪をひいてしまいそう」

「ちょうど雨も上がったようだ」


 皇帝兵が馬車の窓から空を見上げ、先程までの豪雨から一転し、からりと晴天になったのを見るのと同時に、馬車が止まる。


「どうやら宿屋についたようだ。ああ、料金のことは気にせずくつろいでくれ」


 馬車の扉を開き、梓豪から降りる。辺りを見渡してから、朱亞に手を差し伸べた。

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