雨宿りと出会い 4話

「――狍鴞ほうきょう


 朱亞シュアが恐怖で掠れた声で悪鬼あっきの名を口にする。


 狍鴞。それは羊のような身体に人面。腋の下に目があり、歯は虎で人の爪を持つ人を食う化け物だ。


 気付かれないように、背を低くして狍鴞が去るのを待つ。おぎゃあ、おぎゃあと耳につく鳴き声を上げながら、朱亞たちのいる山小屋に近付いてきた。


 心臓の鼓動が、こんなにうるさくなるのだと、朱亞は初めって知った。異形のものを見ると、こんなにも身体がいうことを聞かなくなるのか、と。


 雨脚は強いままだ。見つからないように伏せているが、このままでは状況がわからない。朱亞は意を決したように顔を上げ、狍鴞がどこにいるのかを探る。


 ちょうど、この山小屋の様子を見にきているようだ。ごくり、と思わずつばを飲み込む。桜綾ヨウリンに小声で「窓の死角へ」と移動するように伝える。彼女はこくりとうなずき、朱亞から離れてそろりそりと伏せたまま移動した。朱亞も音を立てないように伏せたまま死角へ。


 窓から中をうかがう狍鴞だっただが、獲物がいないと思ったのかおぎゃあ、おぎゃあという鳴き声が遠ざかっていく。


 遠ざかっていったと、思っていた。


 狍鴞の腋の下の目が、みぃつけた、とばかりに朱亞をとらえ、細められる。


「ひっ」


 短い悲鳴を上げてしまった。朱亞が口元を慌てて両手で覆うが、その短い悲鳴を聞き取った狍鴞が山小屋に体当たりをし始めた。


「――大丈夫、大丈夫よ、朱亞。きっと、大丈夫――」


 恐怖で小刻みに震えながらも、桜綾は朱亞に手を伸ばした。


 このままでは、ふたりとも狍鴞に食べられてしまう。


 そう考えた朱亞の行動は、素早かった。立ち上がり、窓の外の狍鴞へ叫ぶ。


「こっちだ!」


 山小屋から飛び出し、冷たい雨に打たれながら駆けだす。狍鴞は飛び出た朱亞に、勢いよく襲いかかる。


(私が食べられているうちに、逃げてください)


 狍鴞の虎の歯が、朱亞に襲いかかろうとした瞬間――狍鴞の頭と胴体がふたつにわかれた。


「……え?」

「狍鴞の餌になりたかったのか? それなら悪いことをしたな。悪鬼を見ると斬らねば気が済まんのよ」


 そう言った大男に、朱亞は目を丸くした。


「朱亞!」


 山小屋から、桜綾が駆けてくる。そして、朱亞の頬に手を添えて、「怪我はない?」と心配そうに眉を下げて問われる。朱亞は小さくうなずいて、大男に「あの」と声をかけた。


 桜綾はそこで彼の存在に気付いたようで、一瞬硬直してから朱亞から手を離し、うやうやしく頭を下げる。


「助けてくださって、ありがとうございました」

「朱亞を助けてくださり、ありがとうございます」


 朱亞と桜綾が頭を下げてお礼の言葉を伝えると、彼はふたりと交互に見てから両肩を上げた。


「いや、余は我が花嫁を迎えに来ただけだ。――桜綾、だったな? 赤の衣装を身にまとっているとは、余の花嫁になる気はあったということか?」


 朱亞がぽかんと口を開けた。その言い方では、まるで自分が絶世の美女を後宮入りさせようとしている皇帝陛下ではないか、と。ちらりと彼を見上げる。


 雨に濡れた髪は水分をたっぷりと含みながらも艶やかさを隠せていない。腰近くまである髪をひとつにまとめているようだ。おそらく、濡れ羽色とはこのことをいうのだろう。


 緋色の瞳は切れ長で、こちらをじっと見つめている。


 体格が良く、服の上からでも鍛え上げられた肉体だとわかる。濡れて身体に服が密着しているからかもしれないが。すらりとした鼻筋に、厚めの唇。――美丈夫というのは、こういう人をいうのかしら、と朱亞は首をかしげた。


「皇帝陛下! ご無事ですか!」


 そのうちに、誰かが近付いてきた。きっと彼の護衛だろう。


「おいおい、山の中だからって、『皇帝陛下』と呼ぶのはないだろう。公務ではないのだから」

「しかし……」

「頭の固い奴よ。ああ、それよりも余の花嫁を見つけたぞ。彼女だ」


 すっと桜綾に手を向ける。桜綾は一瞬不快そうに眉根を寄せて、それから朱亞の手をぎゅっと握る。


「――確かに美しい女性ですね。皇帝陛下が望むのもわかります。が、今はとりあえず馬車へお戻りください。濡れたままでは風邪をひきますよ。おふたりとも、一緒に来てください。この雨の中、置いていけません」


 すらすらと言葉を紡ぐ男性は、皇帝陛下の背中をぐいぐいと押していく。朱亞と桜綾は顔を見合わせ、ふたりについていくことにした。


 狍鴞を一撃で倒した人だ。悪鬼に対して対抗手段のないふたりは、彼らについていくしか選択肢がなかった。その前に、山小屋から朱亞は自身の荷物を手にし、急いで彼らのあとを追う。


 桜綾とともに馬車に乗る。皇帝陛下と護衛の人と一緒だ。


「くしゅんっ」


 雨に濡れたため、身体が冷えたようだ。朱亞がくしゃみをすると、桜綾が「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。すっと、ふわふわの大きな布が差しだされる。


「あの?」

「拭いておけ。風邪をひくぞ」

「い、いえっ。皇帝陛下こそ、お使いください。風邪をひきますよ!」


 朱亞が勢いよく両手を横に振り遠慮すると、彼は目を丸くしてから、数枚の大きな布を取り出す。


「これだけたくさんあるんだ。一枚でも二枚でも、使ってくれて構わんぞ」


 にこにこと笑う皇帝陛下。どうすれば良いのかわからず、助けを求めるように桜綾を見ると、彼女は大きな布を受け取り、朱亞の頭に被せてわしわしと力強く彼女の髪を拭いた。


「よ、桜綾さん!?」

「濡れたままでは身体に悪いわ。ここは陛下のご厚意に甘えましょう」

「……は、はい」


 桜綾が朱亞の髪を拭き終わると、顔をぐいぐいとぬぐってきた。あまり痛くはないが、彼女の手が震えているのを見て、桜綾の目をじっと見つめる。


「ごめんなさい、桜綾さん」

「……本当よ。どうして飛びだしていったの」


 彼女の声は震えていた。朱亞が申し訳なさそうにうなだれると、桜綾がこつんと朱亞の額に自分額を合わせた。

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