第2話 図書館と小説執筆
それは、本に関しても同じことで、
「まずは、好きな本の分類として、雑誌や文庫本、あるいは、専門書のようなものになるのか?」
というところから入って、
「次に例えば文庫本だとすると、小説の種類としての、ミステリーなのか、オカルトなのか、恋愛ものなのか?」
ということに入ってくるのであった。
これは、自分の好きなジャンルを浮き彫りにするもので、匂いの原点を探るかのような気持ちになるのであろう。
そんなことを考えていると、中学生の頃には、図書館の、
「司書係」
になっていた。
部活ではなく、どちらかというと、学校においては、
「学級委員の図書館版」
とでもいえる仕事だった。
制服の上から、図書委員の腕章をつけ、そう、
「生徒会長」
に近いというべきか、その中でも、
「風紀委員」
に近いといってもいい。
彼にとって、この司書係というのは、図書委員のようなものであるが、若干の違いがあった。
実際に、図書委員というのは、存在している。それ以外のところで存在している、
「司書係」
というのは、どういうものだと言っていいのだろうか?
この係は、図書館の中にある、
「司書室」
つまりは、教員室とでもいえばいいのか、図書館の仕事をしている人の詰め所のようなものであり、図書館の職員の必要なものが入っている。
「図書館の司書になるには、資格が必要だ」
ということである。
少なくとも、司書検定に合格するか、地方公務員試験に合格する必要があるようで、立派な資格なのである。
だから、図書館の司書室と、本棚、あるいは、学習室などの、
「生徒の場所」
とは一線を画している。
それは、
「資格を持っている先生の部屋が、職員室、教員室と呼ばれるところにある」
というところであろうか。
もっとも、教員室などには、
「生徒に絶対に見られてはいけない」
というものもたくさんある。
「生徒個人の成績表」
あるいは、
「まだ行われていないテストの問題や回答」
などというものは、絶対に見られてはいけないもので、見られたりすれば、始末書どころの問題ではなくなってしまうのだ。
そういう意味で、司書室には、そこまでのものはないだろう。
なぜなら、
「司書の人と、一般の生徒では、それほど深いつながりというものがないからであろう」
ということである。
図書館というのは、資格が必要な人が勤務するところであり、そういう意味では、
「神聖なところだ」
と言っても過言ではないかも知れない。
それを思うと、司書係になったからと言って、自分まで資格を得られたわけではない。しかも、将来において、司書資格を取得し、そのまま司書としての仕事に就こうという意思があるのかどうか、その頃には、分からなかったのだ。
そんな中学時代を過ごしていた彼、そう彼の名前は、
「有岡隆二」
と言った。
彼にとって、中学時代の司書の係は、あくまでも、
「本の匂いを感じられるところにいたかった」
ということであったが、それなら、
「図書委員の方がよかったのではないか?」
と言われるかも知れないが、実際には、そこまで感じなかったということであろう。
とにかく、中学三年間というのは、
「司書の係ができたこともあってか、想像以上にあっという間だったような気がした」
ということであった。
そんな司書の仕事の手伝いなので、本当に雑用のようなものであったが、有岡とすれば、
「図書委員よりは、しっかりと仕事ができている」
と思っていたのだ。
図書委員という仕事は、同じ雑用でも、主な仕事は、
「片付け」
であったり、
「図書の貸し出し受付」
くらいだった。
だからと言って。司書係が、
「ちゃんとした仕事ができた」
とは言い切れないが、それでも、
「しっかりと仕事は自分なりにできていた」
と思っている。
「自己満足」
なのかも知れないが、自己満足なりに、他の仕事にはないものが、そこにあるということを感じさせられる仕事だったのだ。
それを思うと、
「一生懸命にやっていたことが、実を結ぶことがある」
ということが分かった気がした。
それが、中学時代であり、その思いを高校生になってできたわけではなかった。
高校時代は、入学してから、一年生の間は、精神的にも余裕があったが、二年生になってからというもの、すでに受験を考えなければいかず、高校時代が、
「何かの犠牲の上に成り立っている」
と思えてならなかった。
その犠牲というものが、何であるかということを、正直分かっていないのだ。
だからこそ、
「大学に一発で入って、証明することしかないんだ」
と思った。
ただ、
「何を証明するのか?」
ということは、正直分からなかった。
やってみることで、そして成功することでしか証明できないものであるならば、迷うことなく、突き進むだけのことだった。
実際に勉強をした成果なのか、それとも、目指した大学にちゃんと成績がついてくるだけの勉強ができたということからなのか、
「それなりの自信」
というものが、自分の中にあるということが証明された気がしたのだが、高校時代に感じていた、
「証明」
というものが、本当に見つかったのかというと、どうも気分的にも曖昧にしかならなかったのだ。
大学に入ると、最初こそ、高校時代の反映はあるようで、
「人と馴染めるだけの自信がない」
と思っていた。
しかし、入学してから、普通に講義が始まり、それが毎日の生活として定着するようになるまでになってくると、
「自分の自信というものの証明がどこにあるのか分からなかったが、日課にすることができれば、大学生活に馴染んだといえるだろう」
と思っていた。
しかし、少しの間、
「まだ馴染めていない」
という思うが強かったのは、
「人間関係に望めていない」
ということから思ったことであった。
「大学時代をいかに過ごせばいいのか?」
ということは、
「他のことに際しても、最優先にして考えなければいけないことなのか?」
ということが分からないと、結論めいたことは見つからないような気がしてくるのであった。
そして、大学に入ってから、すぐくらいだっただろうか、すぐに友達ができた。
その友達の趣味もまったく分かっていなかったが、話を聴いてみると、
「小説を書くことだ」
というではないか。
同じ本に関わることであり、その思いは、自分でも最初分かっていなかったことだったのだが、
「俺の中にも、小説を書きたいという思いがあったということだろうか?」
と感じたのだが、いかんせん、実際にやってみると、意外と難しいものだった。
だからと言って、せっかくやりたいと思ったことを見つけたという思い、それに、
「ここでやめるというのは、何か、プライドが許さない」
という思いがあることから、
「もっと頑張ろう」
と思うのだった。
小説を書けるようになるために、
「小説の書き方」
であったり、
「新人賞を取るには」
などという、ハウツー本を買ってきて読んだりしていた。
この当時は、まだ、ネットというのも、発展しているわけではなかった。
だから、本屋で、それらしい本を探すか、図書館にするか、というとことなのだろう。
それを考えると、本来であれば、図書館で探すのが当たり前なのかも知れないし、元々、図書館に対して、
「造詣が深い」
というつもりだったので、
「図書館で選ぶのが当たり前のことなのだろう」
と考えたが、どうにも、図書館で借りるということができない気がしたのだ。
どちらかというと、
「図書館というのは、自分の本当に好きなことを中心とした本を借りるところではない」
と思っている。
それこそ、図書館というのは、その場所が好きなのであり、この際、
「蔵書」
というものとは、それほど関係性が深いものではないと考えるのだった。
もっといえば、
「蔵書が気になるのであれば、中学生の時、司書係ではなく、図書委員であってもよかったということだ」
ということである。
それを思えば、
「図書館が好きなのは、やはり、匂いであったり雰囲気が最優先で、本の内容などは、ほぼ関係のない」
ということになるに違いないといえるだろう。
だから、本屋で買ってきて、実際に何冊か読んでみた。
その感想としては、
「帯に短し、たすきに長し」
というところであろうか?
「一冊だけだと、偏ってしまう」
ということから、何冊も見るようにしたつもりだったのだが、その内容が今度は、あっちこっちに行ってしまって、ハッキリとうまくいかない状態だったのだ。
同じような内容の本で、結論としては同じに向かうように書かれているのに、その途中が、まったく違った方向だったりするので、戸惑ってしまう。
「元々、違うところにゴールがあって、それに従った内容であったとすれば、それはそれで納得のいくものではないだろうか?」
と感じるのだった。
その考えをいかに、一つにまとめることができるか?
という方が、より結論に近いのではないかと感じるのだった。
「ただ、ゴールが違っているのだとすれば、その発想は、パラレルワールドに近いものを感じさせる」
と言えるのではないだろうか。
パラレルワールドというのは、
「平行宇宙」
というようなものであり、どちらかというと、
「木を隠すには森の中」
という感じで、
「真実を隠すのに、森の中であるウソの中に紛れ込ませる」
ということに似ていて、発想が一種の保護色であったり、
「天体の中には、自ら光を発しなかったり、光を反射しない」
という、星が存在するという。
それは、
「邪悪な星」
であり、普通であれば、ありえない発想のものではないだろうか?
ということである。
それを考えると、
「ハウツー本というのは、実に当たり前のことを当たり前に言っているだけで、結果がほど遠いものであれば、どちらかに焦点を絞らなければ、まずい発想に陥る」
ということなのかも知れない。
そんなハウツー本をいかに、
「解読するか?」
というのは、大きな問題だった。
話の内容が切り口から、変わってくるのであれば、うまくいかないのも当然のことであった。
解読というものを、いかに考えるかということばかりを考えていると、本来なら、素直に入って解釈するべきことが、最初の、
「解読」
というところで詰まってしまうということになるのだろうか?
ハウツー本というものを、なかなかうまく解読できないことになると、後は、自分の考えに頼るしかない。
その時、
「自分に自信がない」
と考えるか、
「自分の解釈に間違いはない」
と考えるかで変わってくる。
ただ、どちらも、
「オール オア ナッシング」
という考え方であって、その発想が、それぞれに、本末転倒になってしまわないようにしないといけないと考えるのだ。
小説を書くということは、
「ひょっとすると、そういう本末転倒の行き着く先なのかの知れない」
と考えると、小説を書くということは、
「どこか、無限ループのようなものと、避けては通れない何かがある」
ということになるのかも知れない。
「これなら、何も考えずに、ただ書き続けている方が、迷うことがないから、気が楽に学べるかも知れない」
とも思った。
ただ、自我流は、
「どこまで行っても、答えが見つからない」
ということになる。
「見つからない答えを探して彷徨っていて、しかも、それが無限ループであることに気付かないとなると、これが本末転倒という言葉の出口になるのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
小説を書き続けるということ自体、無限ループである。
それは、ある意味、
「答えがない」
ということを示しているのであって、無限ループというものの間に何があるのかということを考えれば、一度陥った無限ループを、次には回避できるということになるのかも知れない。
そう、先が見えないということは、
「答えがない」
ということを示しているのであって、
小説を書き切ることが、最初の、
「無限ループ」
というものの、出口なのではないだろうか?
確かに、どんなに内容の違うハウツー本でも、共通していることとして言えるのは、
「どんなことがあっても、投げださず、最後まで書き切ることだ」
ということであった。
それを考えると、
「人生の縮図」
と言ってもいいのかも知れないな。
大げさではあるが、人生には、
「山あり谷あり」
見えないものが見えてくる場所もあるはずで、無限ループと人生は、
「切っても切り離せない」
と言ってもいいだろう。
小説を書けるようになるまでに、自分でも、試行錯誤していた。
もちろん、難しい中で、ハウツー本を攻略し、その中で、
「共通であることには、間違いがない」
ということを考えると、いくつか絞られるところがあった。
一つのハードルとして、
「最後まで、何があっても書き上げる」
ということを、まずは目指すということに終始していた。
それがよかったのだろう。一つの話を、曲りなりにでも書けるようになると、その先にあるものも見えてきた気がした。
まだまだ、短編しか書けないので、自分の中では、
「中途半端だ」
と思っていたが、その短編も、
「尊敬しているプロ作家」
という人を目標に、やってきたつもりだったので、書き上げたことも、自分にとっていいことだと思うのだった。
その作家というのは、
「短編の名手」
と呼ばれる人で、そもそもは、24歳くらいの時、よく飲みに行っていた店で知り合った主婦から教えられた本だった。
その主婦の人は、年齢は30代後半くらいだっただろうか?
よく一緒になった40歳前半くらいの男性と、結構話しをしていたっけ。それから、少しして、その主婦が来なくなったので、ママさんに、
「あの主婦の人、最近来ませんねん」
と聞いてみると、
「あれ? 隆二君は知らなかったのかしら? 彼女、再婚したのよ」
というではないか?
ちょっとビックリしたのだが、その理由としては、
「あれから、まだ半年と少ししか経っていない」
ということだった。
「え? 確か主婦だったんですよね?」
とママさんに聞くと、
「ええ、そうよ。でも、ここに来ていた時は別居していて、実家からここに来ていたんですよ」
とママさんは言った。
「そうだったんですね。でも、あまりにも早すぎませんか? 確か、男性と違って女性は、離婚してから結婚するまでには、半年あけなければいけないと聞いたことがあったので」
というと、
「ええ、そうですよ。半年が経ったので、結婚したということになるのかしら?」
と言われ、
「ということは、離婚が成立してから。いや、その前から二人はそういう関係だった? いや。もっといえば、離婚の原因が……」
と言って口をつぐむと、
「本当のところはわからないけど、離婚の原因は違うところにあったみたい。あからさまになっている理由としては、元旦那の浪費癖だったらしいの。ギャンブルなんかで、結構な借金を作ってしまったことが、家計や奥さん自身が怖い目に遭うこともあったというので、その話を再婚相手に悩み事として聞いてもらっているうちに再婚ということになったんでしょうね。ところで、隆二君はどうして、女性だけが離婚してから半年経たないと、再婚できないか知っているかしら?」
と言われたので、
「ええ、知っていますよ。女性の場合、妊娠している可能性があるので、父親の認定という意味で、半年の期間が必要だということですよね?」
というと、
「ええ、その通りなのよ。最近は、男女雇用均等法の観点から、女性の職業の呼び方も変わってきたり、就職の際の差別なども解消されるようになってきたのに、これだけは、どうしようもないということでしょうね。法の下の平等とは言っても、どうしようもないのは、男女の肉体的な問題。こればっかりは、無理なこともあるということになるわけよね」
とママさんは言った。
有岡は、頷くしかなかったが、ママさんの言う通りだということはわかっていたのだ。
その奥さんが、お店に来なくなる少し前に借りた本が、その作家の本だったのだ。
「とても、大人の話を書く作家さんの本なの。もしよかったら、読んでみて」
と言われ、読んだ本だった。
なかなか店に来ないので、渡しそびれてしまっていたが、その作家の本は、恋愛小説っぽいものが多かった。きっと、
「恋愛連作短編集」
だったのだろう。
その作家は、
「連作小説」
という手法が多く使われている。
連作小説というのは、
「一つの題材を大きなテーマにして、長編を、まるで、一話完結型の集合体のようにして、短編集として、世に送り出す」
というもののようだった。
そんな連作小説というものが、前からあるにはあったようだが、一つのジャンルとして確立されたのは、この作家が書き始めてからのようだった。
そういう意味では、
「先駆者」
と言ってもいいだろう。
小説を書いていくうえで、小説の内容を、整理しながら見ていると、連作の中に、
「その順番でなければいけない」
というような書き方をしているというようなこともあるようだった。
「こういう手法は、短編でなければいけない」
ということでもあり、
「長編への足掛かり」
という意味でも重要なものだった。
確かに、短編と長編とでは、まったく手法が違っているので、それを考えると、
「小説を書き始めるには、いい教材だ」
と言ってもいいかも知れない。
おそらくこれを貸してくれた奥さんも、有岡が、
「小説を書きたい」
と言っていたということが分かっていたので、小説を書くための教材としてこれを選んでくれたということは、
「あの奥さんも、小説を自分で書こう」
という意思を持っていたのかも知れない。
だから、どんな本が教材となるかというのも分かっていただろうし、これから再婚する自分には、
「しばらくいらない教材だ」
ということで、貸してくれたということになるのだろう。
実際に小説を書こうとすると、この教材は実に役に立った。
特に、
「最後まで書き切る」
ということには、十分貢献してくれた。
書き切れないというのは、
「途中まではうまく書けても、最後の落としどころが分からない」
ということからであっただろう。
つまり、書き切れない自分が、
「何が悪いのか?」
ということに気付いていない。
あるいは、
「悪いことがあるのに、そこに目を瞑るのが、言い訳であるということを、理解できていない」
ということになるのだろう。
そういえば、奥さんは、
「この小説を読むと、人のふりを見て、我がふり治せ」
ということに気付くと思うの。
という言い方をしたのだ。
それを聴いて、
「逆も真なりだ」
と気づいたことで、書けるようになった最初のきっかけだったのではないか? と感じるのだった。
その小説を読んでいると、
「なるほど、大人の小説だ」
という気分になる。
どこが、そんな気分になるのかというと、一つは、つらい毎日を過ごしているのに、まったく辛くないと自分で言っているのだ。
それを聴いた女が、
「誰が見ても辛い人生にしか見えないんだけど、どうして、そんなに自信をもってつらくないんですか?」
と聴いた。
「僕がつらくないから辛くないと思っているだけで、辛さの基準なんて、人それぞれで違うんですよ。あなたは、私をどう辛いと見ているんですか?」
と男は笑顔で言った。
どうやら、男は、この女性がどこを見ているか? いや、この僕の何を寂しいと思っているというのか、それを分かっているのだろう。
すると、その女性は、
「私には、孤独にしか見えないんですけど、違うでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、孤独ですよ。あなたのおっしゃる通りです。でもですね、孤独がつらいものだということを一体誰が決めたんでしょうね? 確かに、世間一般では、寂しくてつらいものだと思います。しかし、私は寂しいとは思いますが、辛くはありません。こういうとまるで言い訳をしているように聞こえるかも知れませんが、決してそうではないんですよ」
というではないか?
「孤独を一足飛びにつらいと、私は思ったのですが、そこには、寂しさということが入るわけですね?」
というと、
「ええ、そういうことです。孤独と辛さの間に寂しさがある。そこまでは一緒なんですよ。でも、その寂しさをどのように感じるかということで変わってくるんですよね?」
「私は、孤独も寂しさも、辛いとしか思えないんですが?」
と女性が聴くので、
「そんなことはありませんよ。僕は現に孤独も寂しさも、辛いとは思わない。むしろ、自分の時間という意味で、とても嬉しく思っているんですよ。その間に、何かの作品を仕上げることができる。だから、他の人にはないものを得られたと思って、却って、嬉しいくらいで、それらのことを失念している人たちが、逆に可哀そうに見えてくるくらいなんですよ」
というのだ。
「孤独と寂しさが、辛いと思っているのが、実はその人にとっては大切な時間ということでしょうか?」
「ええ、そうです。孤独を辛いと思っている人は、孤独ではない時間を得ようとすると思うんです。孤独ではないということになれば、気心が知れた仲間と同じ時間を共有するということですよね? それは否定しないし、大いにいいことだと思うんですよ。だからといって、一人の時間を楽しんでいる人を見て、それを、辛いと決めつけるのは、どうかと思うんですね。孤独はつらいものだということになってしまうと、孤独から生まれる作品であったり、発明品や芸術は、一体どうなるというんです? 人と共有する時間があったからと言って、そこから、何が生まれるかと思うんです。あくまでも、人と共有するのは、自分が何らかの成果を出したうえでのことではないでしょうか? ただこれをいうと、押しつけということになってしまうので、余計なことは言えませんが、私は少なくとも、皆が利用しているものを最初に開発した人は、自分の時間と向き合って、最高の時間を過ごしたことで、その成果物が生まれたと思うんです。孤独を辛いと思っているうちは、一生かかっても、無から有を生み出すことというのは、できないんだって思うんですよ」
と男はいうのだった。
このような襟府が、話の途中にあった。
最後に、この男の言っていることが証明されたのかどうか、最後にキチンと答えが出てきたわけではない。
曖昧なところで答えが出たような気がするが。それが、男にとっての
「自由」
というものではないかと考えるのだった。
それを聴いた女性も、いつの間にか、この男性のファンになっていて、考え方を、継承しようということを考えていたのだった。再婚した二人も、
「あなたとなら、孤独な時間に自由を見つけられそうな気がする」
ということで、結婚に踏み切ったということであった。
孤独を自由と解釈するのは、人によっては、
「都合よく考えているだけで、まるでいいわけだ」
というような、ひねくれた考えをする人がいるが、そういう人は逆に、
「自分一人の世界を楽しめない」
という人が多いのではないだろうか?
人に下手に関わられて、自分のタイミングを逸したまま、その人に利用されたり、マインドコントロールを受けたりすることもあるだろう。
実際に、有岡の知り合いにもいた。
「その人は、親からコントロールされていて、しかも、その親が義理の関係であったことで、完全に、支配されていた感じだったんだよね。女の子だったので、性的関係がなかったということで、それはよかったんだけど、危なかったかも知れない」
と有岡は言っていた。
偶然が重なって、それが発覚したことで、コントロールされていた子は解放されたのだけど、施設に入ることになり、それまでに受けたことでメンタルがボロボロになり、精神的に病んでしまうことで、そのまま、精神疾患になってしまったというのだ。
病院通いも頻繁で、しかも、時間が経つにつれて、いろいろな症状や病気が発覚する形で、
「障害年金」
を受けたり、介護が必要になったりしたのだという。
支配されたことでのトラウマや疾患なので、介護の人に馴染むまでにも、大変だったといえるだろう。
有岡は、その子のことを一時期好きだったという。好きなまま告白できずに、何とか気持ちを抑えているうちに、まさかそんなことになっているなんて、まったく気づかなかったのだ。
それを思うと、
「何で、気が付いてやれなかったんだ」
という後悔の念に襲われているのだった。
「それにしても、本当にひどい」
いろいろな症状が、時間差で出てくる。
だから、
「これから、どんなのが出てくるか?」
ということを考えただけでも、怖いというものだ。
病気が一気に出てくるというのも、確かにきついだろうが、徐々に出てくるといっても、一つ解決してから出てくるわけでもなく、気が付けばどんどん悪くなっていっているという状況が、
「半永久的に続く」
などということになれば、
「どうしていいものなのか?」
と思わないわけにはいかないだろう。
その子は、今は病院に入院中だという。精神疾患だけではなく、身体も並行して悪くなっているという。
「病は気から」
という生易しい言葉で片付けられるものではないのだった。
しばらくの間、有岡は、彼女のことを気にして、病院に見舞いに通ったり、退院した時には、
「できるだけ、そばにいてあげることで、役に立てればいい」
と思うようになっていた。
それを考えると、
「どこまで行っても、よくなるという保証がない」
という事実に、どこかで精神的にぶち当たることがあると自覚している。
それが、有岡にとって、
「自分の精神を病んでしまう」
ということに結びついてくるということを自覚していなかった。
彼女本人から、
「深入りすると、危ないから、危ないと自分で思ったら、私から離れてね」
と言われていた。
男としては、そういわれれば、
「はい、そうですか」
などと言えるはずもない。
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