自分と向き合う
森本 晃次
第1話 SNS
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年3月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。
「SNS」
いわゆる、
「ソーシャルネットワーキングサービス」
と言われる。
言ってみれば、
「コミュニケーション型と言われる、双方向型の会員制のサービス」
のようなものが、狭義の意味での話だったりする。
しかし、SNSと呼ばれるものには、双方向型というだけではなく、ラジオ形式のアプリのようなものであったり、相手からの一方通行のようなものもある。
たとえば、販売目的のネット通販などで、情報は開設者側から、そして、購入は、利用者からと言ってように、
「双方向型ではあるが、その内容というか、役目がハッキリと別れているものもある」
ということである。
それを考えると、すべてが会員制で、有料というわけでもない。
「会員制だが、無料」
というところもある。
ただ、
「非会員制で、有料」
というところは存在しない。少なくとも金銭の授受が発生する時点で、他の人には分からないツールが必要なのも当たり前ということだ。
口座番号、名義人などから、本人特定ができないとも限らないので、支払いの際には絶対に必要となる。口座番号、クレジット番号など、会員制でなければいけないというのは当たり前のことである。
SNSと呼ばれるサービスは、今のように、スマホが普及し、スマホの便利な機能として利用されることが、
「最近の常だ」
と言ってもいいだろう。
「SNSという言葉がなかった」
あるいは、
「一般的に普及していなかった」
という頃のこととすれば、パソコンなどで、やっとインターネットが個人に普及し始め、ケイタイ電話というものも、個人で持つようになったのが、ちょうど、世紀末の頃ではなかったか。
ケイタイ電話の普及というのは、元をただせば、
「阪神大震災」
という、未曽有の大災害があった時に、その教訓として、爆発的に普及したのだという。
というのも、
「阪神大震災が発生した時、皆家族の安否を確認するということで、電話を使うが、その問題として、電話回線がパンクしてしまい。繋がらなかった」
ということが社会問題となったが、当時は、まだまだ固定電話の時代。そんな中でも、「携帯電話であれば、続いた」
という話があったことから、急速に普及していったという。
「電話と災害」
という括りで、一つ言われているのが、
「今では、公衆電話からの緊急時の通話は、お金がかからない」
ということであった。
これは、別に、
「小銭がなくても使えるというサービス」
という意味ではない。
もちろん、その意味もあるのだろう。何しろ、
「小銭を持たなくても、買い物ができる」
という時代になっているから、そもそも、皆小銭は持っていないから、電話が使えないのだ。
ということであろう。
しかし、本当の意味は、別にあったのだ。
というのは、
というのは、かつて災害があった時、電気がこないところでは、ケイタイの充電が切れてしまい。皆が、公衆電話んかけこんだというのだ。
その時、皆、小銭をどんどん使うので、電話機の中の、
「小銭が溜まる場所」
というのが、パンパンになってしまい、そこまで想定していなかったことで、お金が入らなくなり、使えないという問題が起こったのだ。
当然、お金を回収する人が、災害下で回ってくるはずもない。つまり、
「無用の長物」
となってしまったのだ。
「充電の切れたケイタイ」
と同じことだった。
だから、
「災害時における公衆電話では、小銭を入れなくても使うことができる」
ということになったのだ。
それが、
「災害時にいける、知恵の一つだ」
と言えるのではないだろうか?
そういう意味で、電話関係もそうなのだが、SNSにおいても、
「災害時のことを考慮して、考えられた」
というものも多いという。
そういう意味でのSNSはいっぱいあることだろう。
SNSという言葉があ出てくる前だったと思うが、一時期、ホームページというものが流行っていたのを覚えている人は、もう中年以上の人だと言ってもいいだろう。
インターネットを利用するためには、必ず、契約しなければいけないものに、プロバイダーというものがある。
そのプロバイダーというのは、どういうものなのかとうと、
「ネットをつなぐためのサービスを提供する」
というところであり、そのために、会員になった人だけの特典というものもあった。
その中に、
「ホームページ形成のためのスペースを提供する」
というものがあった。
これは、
「プロバイダーに加盟している人たちであれば、無料で利用できるし、そうでない人も、有料で利用できる」
という形のものだ。
まるで、ビジネスホテルなどに泊まった時、朝食などは、
「宿泊者には無料だが、それ以外の人には、1000円で、朝食バイキングが利用できる」
と言った形で考えてもらえばいいということになるのだろう。
そんな方法として、ホームページのサービスを、
「会員であれば、タダで利用できる」
ということになるのだ。
ただ、当時のホームページ作成として、各プロバイダー、あるいは、それ以外でも、
「ホームページ容量提供サービス」
のような会社が乱立していた。
ホームページというのは、作成するにも、いくつかの方法があった。
もちろん、目的によって、その最適なものを選べばいいのだろうが、そもそもホームページというものがどういうものだったのかということから、話を始める必要があるだろう。
というのも、そもそもホームページというのは、
「企業がインターネット上の会社の顔としての目的や、それ以外の目的をもって開設させるもの」
という考え方があった。
特に、それ以外のものとしては、業種によっていろいろ変わってくるのだが、たとえば、
「芸能関係」
であれば、
「所属タレントの紹介や、イベントの予定、その予定から、チケットの予約にまで結びつけることで、ファン獲得と同時に、イベントの興行収入につながるという目的」
ということになる、
「ネット販売が目的」
というところであれば、
「まずは、会員になる必要があるので、会員になるまでの、入会フォームなどの入力欄、さすがに個人情報に抵触するようなものは、会員入会意思がある人には、営業が直接話に行き、それらのネットには載せられないような情報を、直接申込書に書いてもらうのと一緒に、サービスについての説明や、サイトの使い方などの話wp営業として行う」
ということに使っている。
入会者には会員番号とパスワードが割り振られ、その番号から、ログインすれば、初めて、商品を購入できるページに飛んで、そこから注文を行い、最終的には、予定の時間に商品が届くという仕掛けにしているのである。
これは、結構、以前から行われていたが、ネットが普及するまでは、なかなかだったこともあったり、何と言っても、
「商品は現物を見て選ばないといけない」
という人、さらには、
「支払が、クレジットになったり、銀行引き落としなどで、どうしても、スーパーなどの現金決済というもの以外に、違和感がある人にとっては、ネックとなる」
という考え方の人も、一定数いたから、当然のことであろう。
そういうものが、いわゆる、
「企業のホームページ」
として重宝されるということだろう。
特に最近では、理容室や美容室などの予約もネットでできるようになり、
「スタイリストの予定」
も見ることができるので、それに合わせて利用もスムーズになった。
そういえば、店に行って、
「いつもお願いしている人が、今日はお休みだった」
ということも、往々にしてあるというものだった。
だからこそ、予約が必要になるわけで、
「以前は散髪屋だったのが、ある日、そこのお店の人の対応が思ったよりもひどかった」
普通だったら、
「気のせいじゃないか?」
と考えるのだろうが、その時は、明らかに乱暴だったのだ。
完全に髪の毛が引っ張られ、
「痛い」
と言っても、全然力を抜いてくれない。
櫛を通す時も、引っかかっているのを、無理やり通そうとするので、髪の毛が無数に、櫛に引っかかっているではないか。
「痛いと言っているのに」
と思いながらも最後まで変わらず、しかも、
「言っても無駄だ」
と分かると、苛立ちのまま、むかついて、そのままムッとしたまま帰ってくる。
そして、心の中では、
「もう二度といかない」
と思うようになり、
「男の人だから、あんなにひどいんだ」
と思うようになると、
「せっかくお金を払ってやってもらうんだったら、女の人にしてもらう方がいいに決まっている」
と思うと、行く先は一つ、
「美容院」
ということになるのだ。
それでも、さすがに最初は躊躇した。
「男が一人で入っても大丈夫なのか?」
という思いが当然のごとくあり、もし、大丈夫だったとしても、次の問題は、
「女性がちゃんとしてくれるだろうか?」
という思いとである。
男性一人で入れるとしても、女性のスタイリストにお願いできるかということも、大きな問題だったのだ。
「できれば、女性がいいですね」
と言ってはみたが、
「こいつ、何考えてるんだ?」
と思われるのも嫌だった。
そこで考えたのが、
「嫌がられたのなら、この店に二度とこなければいいだけだ」
ということであったのだが、問題は、
「他の店に行っても、またダメなら、延々と探さないといけなくなる」
ということであり、自分がいける範囲の店が、すべて玉砕ということになってしまうと、
「全国どこに行っても、自分の気持ちを受け入れてくれる美容室。さらには、散髪屋は存在しないことになる」
というものだったのだ。
もちろん、最悪のシナリオなのだろうが、一度ダメな店があれば、その確率はグンと上がってしまう。
ということは、
「最初が肝心」
ということになり、それが、すべての問題に直結するといってもいいだろう。
それを考えると、
「美容室も、最初のお店選びが、すべてを左右する」
ということになり、いろいろ捜したが、結局、何も参考資料があるわけではないので、
「勘」
ということになり、おみくじを引くようなものだという発想になってしまうに違いないのだった。
「俺にとっての選択は、無数に存在し、その瞬間瞬間で、絶えず選択を繰り返すことになるのだ」
ということであった。
これは、自分だけに限ったことではなく、自分だけに限ったことでも、美容室だけに限ったことではない」
と言えるだろう。
美容室に行くようになると、馴染みのお店であっても、
「スタイリストのご希望はありますか?」
と言われて、最初の頃は、前にやってくれた人の名前を呼ぶのが恥ずかしいというようなシャイな人間だったくらいだ。
それでも、何とか、
「えっと、前にお願いした方で」
というところまでは言えるようになったというところであろうか、何とか、それで分かってもらえたのだった。
考えてみれば、お客さん、一人一人に、
「カルテ」
のようなものがあるのも当たり前のことだろう。
何しろ、カルテを用意するということを、違和感なくできるようにするのに、ポイント制のようなものがあるのではないか?
と勝手に思ったりもした。
会員番号を、うまく扱えるようになると、カルテの作成も自然にできるというもので、さっと、客一人一人のことを、美容室で共有して理解できているということで、客も安心できるのだろう。
「カルテ」
というものは、基本的に、病院にあるもので、かかりつけ医であれば、あって当然のものである。
特に昔からあった、
「町医者」
などでは、よく病院にいくと、受付の後ろに、カルテの山があり、そこから受付を済ませて、次の患者になる前までに、そのカルテを用意して、診療室に届けるというのが、当たり前に行われていたような気がする。
それを考えると、
「今のように、当たり前のように、医者の机の上にパソコンが置いてあったりする時代も、結構長く続いていたんだよな、本当に当たり前のようになんだよな」
と感じる。
ただ、昔から、久しくあったもので、いつの間にか消えたものも結構あるのではないか。特に、
「医者の机の上では、レントゲンの写真を貼り付けて、明かりに照らしてみるという形のもの」
というものが、懐かしさを感じさせる。
それと同じ意識で、カルテも同じようなものだったがする。
「あのカルテの紙質が、好きだったなよな」
と思う。
これは、書店で、本を手に取って見ていた頃の感覚を思い出す。
今でも、本屋というのは、相当減りはしたが、存在しているところもあるので、本の質を感じることはできるが、明らかに昔の本屋とは、その様相は違っている。
「どこがどのように違うのか?」
というのは、曖昧にしか表現ができないが、まったくの違いを理解できているつもりでいるのだった。
ホームページというのは、企業だけではなく、個人でも作れるようになっていた。
元々プロバイダーが提供するものは、個人向けが多く、法人に関しては、特別のサービスというものが用意されていたような気がする。
ホームページの作り方にもいろいろあり、
「ホームページビルダのような、ソフトを使うもの」
あるいは、
「プロバイダーがテンプレートとして用意する本当に読んで字のごとくと言ってもいいような、簡易ホームページ作成というツールで、作るものもあった」
さらには、
「メモ帳から、プログラミング言語と呼ばれるものをタグ打ちという形で実際に打ち込むもの」
というものであった。
簡単なのは、プロバイダーが用意したテンプレートであろうが、ただ、つぶしが利くものではない。ある意味、
「誰が作っても、同じようなものだ」
と言えるのではないだろうか?
しかし、これが、
「一番難しい」
と言われるタグ打ちであれば、どんなものでも、ある程度は順応性があるというものだった。
それに、他人のページのソースを表示させ、必要な部分をコピーして持ってきて、流用するということもできる。これも、
「言語が分かっていないとできるものではない」
という一種のテクニックに違いないといえるだろう。
そして、
「ホームページを作るうえで一番大切なもの」
ということで、最初に考えるべき、
「企画」
ということで、必要なものが、
「コンセプト」
という意味での、一種の、方向性というものかも知れない。
「どういう人が必要としてくれるサイトなのか、誰が主に見てくれる一種の、お得意様のようなものなのか?」
ということによって、どのようなものとするのかが決まってくる。
そこに入ってくるのが、
「コンテンツ」
といわれる、ページではないだろうか?
「プロフィール」
「掲示版」
「日記」
「お友達」
くらいは必要な引き出しであろう。
最後のお友達は、特に、仲間を増やす意味で、リンクを貼り、来訪者に、友達紹介という意味で、紹介文を載せてリンクを貼ると、お互いにカウントアップにつながるというものだ。
それこそが、
「SNS」
というものの本質なのではないだろうか?
それに、何となくであるが、
「これは季節だったのかも知れない」
と、今は感じているが、それを一言で表現すれば、
「本の匂い」
というものであろう。
「におい」
という字を感じで書いた時、
「臭い」
あるいは、
「匂い」
とあるが、本の匂いは、
「ちょうど、その中間にあたるのではないか?」
ということであった。
紙の臭いというのは、久しく感じていないのだが、その臭いは、やはり、
「臭い」
という方だったと思う方が、しっくりくるのだった。
そんな本の、紙の匂いが最初に好きになったのは、小学生の頃の、確か、
「国語の教科書」
だったのだ。
あの頃は、教科書でも、教科によって使用する出版社のものが違っていた。今もそうなのかも知れないが、特に国語の教科書の匂いが最高だったのだ。
何か、甘い香りがしたのだ。そう、確かイメージとしては、
「金木犀の香り」
だったような気がする。
しかも、当時の匂いと、実際の感覚が合致して、どんな匂いだったのか分かったのが、
「つい最近」
ということに自分でもビックリするのだった。
さらに、同じように、最近になって気づいたのは、たぶん算数の教科書だったと思ったが、柑橘系の香りだったのだ。
柑橘系というと、ミカンか、レモンを感じるが、実際に食するとすれば、レモンは正直きつい。はちみつでも入っていなければ、そのまま食べることはできない。
そう、中学の頃の部活だったが、当時は、
「運動部では、練習中に水を飲んではいけない」
というのがあった。
これはもちろん、試合においても同じことで、当時は、
「練習中や試合中に、水を飲むと、バテてしまう」
ということが言われていたのだった。
その時は、
「それはそうだ」
と、いうことで、その理由に納得がいったが、実際に、
「水分を適度に摂らなければいけない」
ということを知ったのが、
「熱中症」
に罹らないようにするためだ。
ということを分かってくると、
「ああ、なるほど」
と分かった。
実際に、小学校などでの、全体朝礼を、校庭で行う時、5分もしないうちに、
「生徒がバタバタと倒れていく」
というのが分かった時、
「どうして水を飲むのか?」
ということに納得した。
ただ、その時の病名というのが、
「熱中症」
であったことが気になったのだ。
というのも、
「昔は確か、日射病」
と言っていたのではないか?
と感じたからだ。
ただ、調べてみると、
「日射病は、熱中症などの総称」
ということが分かると、
「高温多湿で引き起こされる」
という特殊環境の場合を、
「熱中症」
というのだということで、限定した言い方になったのだろう。
似たようなもので、
「副作用」
と
「副反応」
がある。
「副作用は、副反応のようなものの総称」
だということが分かれば、
「なるほど、ワクチンなどは、副反応なのか」
と納得できるのであった。
そんな本に興味を持ったことから、中学に入ると、図書館という場所が好きになった。
「この場所にいるだけで、いい匂いに包まれているような気がする」
と感じるようになると、それまで嫌いと思っていた臭いでも、本から漂ってくる匂いであれば、好きになれるような気がするのだ。
しかも、図書館というと、いろいろな臭いがまざっている。中には、腐ったような嫌な臭いを感じることもあり、それは仕方ないと思って、その瞬間は諦めるしかなかったのだった。
「小学生の頃までは、嫌いだったはずなのに」
という臭いも、きらいではなくなると、逆に、今度は、好きだったと思えるような臭いが嫌いになったのだ。
「ちょうどバランスが取れている」
ということなのだろうか?
と思ったが、そんなこともなかった。
ただ、
「小学生の頃までは好きだったはずの食べ物が、中学生以降では嫌いになったものも結構あった」
ということを考えると、
「どうして嫌いになったのだろう?」
と自分に言い聞かせて返ってきた答えは、
「臭いが嫌になったんだ」
ということであった。
しかも、自分に問い合わせることで、すぐにその答えが返ってきたのだが、それも、実に自分では面白いと感じたことだったのだ。
それを考えて、
「何か共通点がないだろうか?」
と感じると、そのほとんどが、臭いの質の、
「究極に近い味」
だということを感じると、分かってきたような気がしたのだ。
「酸っぱい」
「辛い」
「渋い」
などという、
「甘いもの以外」
のところで、その究極の味は、とても受け入れられるものではないということが分かったからだったのだ。
しかも、それらの味は、臭いも結構きつかったりする。同じきつい中でも、甘いものだけは、そうでもなく、ほとんどを受け入れることができる。
「皆もそうなんだろうな」
と思っていて、そのことを、大人になってから人に聴いてみたことがあったが、
「そんなことはないぞ、お前が言っている、甘い匂いというのが、俺にとっては、辛い臭いに近いものだからな」
ということであった。
ということは、
「自分が甘いものが好きなので、嫌いでない臭いは、甘いものになるが、そいつの場合は、辛いものということになるわけであって、それが分かったのも、甘いものというのがいくら好きでも、度が過ぎるときつくなってしまう」
ということを感じたからだ。
だから、
「辛い物が好きなやつだって。おれよりもたくさん食べれはするだろうが、限界を超えると同じことになる」
つまり、
「問題は、限界の量ということになるのであろう」
ということになることが、自分でも理解できたからであった。
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