第18話 緊急事態

 「あー、疲れたー」


 受付の近くのソファに座り込み、目の前の扇風機に顔を近づけて嘆息を漏らす峰一

縷。


ふわふわと天然パーマの茶髪が宙を泳ぐのを横目に、俺は「ちゃちゃっと風呂行きますか?」と大門先輩に尋ねると、「そうだな。僕の汗が一番臭そうだからな。新太君に見抜かれている気がするからな」と満面の笑みで答えた。


「そんなこと言ってないです」


「言ってはないだけで思っているだろ?」


「はい」


「そこは正直に言わないでくれ、弟よ。男同士、裸で語り合おうではないか」


「弟ではないです。ていうか、他のお客さんもいるんだから、変なこと言わないでく

ださいよ。ほら、輔も行くぞ」


 「うん」


 部屋に戻り、カバンから脱いだ服を入れるための袋を取り出す。新しい下着とタオ

ル、浴衣も持ち合わせて、浴場へと歩く。


 「あ、先行ってて、新太。タオル忘れた。あと、恥ずかしい話、下着を持ってきて

ないからコンビニで買って来る」


 輔のやつも忘れ物とかするんだな。普段から1から10までを万全にしているよう

なやつなのに忘れすぎだろ。息抜きして疲れたんだろうか。線が細いから、真夏の暑

い中を長時間歩くのは慣れていないのだろうか。普段から俺の監視を律儀にこなして

くれているから、こういうところでバテるのか?


 まあ、あいつのことだ。何気なく過ごしていればすぐに戻ってくるだろう。


 脱衣所で全裸になり、浴槽に入りながら、ぼんやりと入学から数か月の事を考え

る。不確定が嫌いだった俺は、中学から好きだった堀田瑠璃子とのデートの予定の記

憶を消され、裏切ることとなった。入学早々、中学時代の友人を失い、友人になれた

かもしれない人間たちとも縁が切れた。自分の『埋没忘却』と不確定要素を憎んだ。

でも、峰一縷と出会った。あいつと出会ってから、これまた不確定なことが多々あっ

た。兵藤を殴る峰、名誉回復のために勧誘されて入った生徒会、美化委員で再会して

和解したカコちゃん。生徒会室での仕事が遅くて自己嫌悪で半泣きする峰一縷。励ま

す姉と副会長と柳先輩。


 「何を笑っているんだ、弟よ」


 「いえ、何も」


 笑ってたのか、俺は。


 あいつの顔を思い出すと、笑えてくる。肩の力が抜ける。たまに夢に出てくる声の

『あの子』はきっと峰だ。『埋没忘却』の力の副産物なのか、予知夢のように『あの

子』と性格がそっくりだ。


 「こうやって窓の外の海を眺めていると切ない気持ちになるな、弟よ」


 「いえ、あんまり」


 「露天風呂の風を感じながら、ひっ、陽菜乃さんのことを思い出すと、心地が良い

な」


 「きもいです」


 「君は水風呂みたいに冷たい男だな」


 「嫌いになりますか?」


 「いや、それも個性でいいんじゃないのか。みんながみんな、峰くんみたいな人だ

ったら収集つかないだろう」


 「先輩もそういうこと考えるんですね」


 「まあね。一応、弟がいるから。俯瞰は得意なつもりだぞ」


 「へえ、いくつ下なんですか?」


 「2つ下だ。もし、うちの学校に入学したら君の後輩になるな」


 「先輩みたいに熱血だったりします?」


 「いや、新太君とは仲良くなれそうだよ。あいつもあまり子供のようにはしゃがな

い。どこか達観しているようなやつだからな。それより、期末テストはどうだったか

な? ひっ、陽菜乃さんの弟だから、心配はいらないか」


 それからは、テストの話や、将来の話をしたり、話題は様々だった。大門先輩は普

通に話が出来る大人で、あの日言ってしまった失言を改めて恥じた。


 風呂に上がり、着替えを済ませて脱衣所から出ると、俺たちのことを待ちわびてい

たかのように輔と柳先輩が近づいてきた。


 「新太、緊急事態」


 「そうそう、新太っち、緊急事態よ」


 「急になんですか?」


 湯上りのコーヒー牛乳を飲みに行こうとしているのに、どうして俺たちを呼び止め

る。


 「峰君はどうしたんだい?」


 「そう! それなんだよ! キワたちが言いたいのは」


 峰に何かあったのか。事故か? 風呂場の温度で血圧に異常が? 落ち着かなくな

った。


 「ないんだよ!」


 「何が!?」


 柳先輩に対して敬語が無くなる。律儀に言葉を選んでいる余裕がなかった。


 「何がって…、びっくりしないでね」


 「早く言ってくれ! 先輩!」


 峰が心配だった。女湯だろうが関係ない。痺れを切らしたら突撃してやる勢いだっ

た。


 「服がないんだよ! 浴衣もない! 下着も!」


 「…え?」


 「柳さん、声が大きいですよ」


 慌てる輔。人目を気にしているのか、そわそわと落ち着きがない。


 「てことは、今…」


「いや、もう全裸じゃない。キワが浴衣を持ってきたから。下着は私の分を貸してあ

げた」


 場違いにも、不謹慎にも想像してしまった。一糸まとわぬ少女の姿を。


 「希和さぁぁぁぁん」


 突如、半泣きで飛び出してきた峰一縷は、もちろん裸ではなく、柳先輩が貸した浴

衣を着ていた。


 「私、このまま永遠に脱衣所と風呂場に閉じ込められるのかと思ってましたよ。こ

の5分間だけの全裸待機でも大変だったのに」


 人目をはばからず柳先輩に飛びつこうとする峰。先輩はそれを受け止めて、よしよ

し、といつものふざけ調子で後輩を慰めるのだろうな。


 誰もがそう思っていただろう。だからこそ、彼女が取った行動と言動に誰もが驚い

た。


 「触んないで!」


 飛びつこうとする峰の肩を抑えて、押し離す。凄まじい剣幕だった。普段の道楽な

彼女からは想像だにもできない険しさをひしひしと感じる。峰ですら空気を読み、

「あっ、ごめんなさい」と正気を取り戻した。


 「ああ! 私の方こそごめんねぇ。まだ、ちゃんとお風呂に入れてなくて。もう~

いちるんが途中で呼ぶからだよぉ。ていうか、いちるん風呂あがるの早すぎ。じゃ、

犯人捜しはご飯の時にしましょっ! ばいばーい」


 白けた空気を強引に戻そうと、先輩は、ふざけ調子に戻った。戻った、というより

は戻したと言った方が正しいか。自分のことを『キワ』と呼ぶ彼女は、今回は『私』

と言い、逃げ込むように脱衣所へと入った。


 この場にいる全員が彼女に何かがあると感じただろう。輔や俺はもちろん、峰も大

門先輩も、部屋に戻るまでは一言も喋らなかった。



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