ねこの兄ちゃん

若月 はるか

ねこの兄ちゃん


 にゃ、にゃー、にゃごにゃごにゃご……。

 中央に噴水があるだけの小さな公園のベンチで、一匹のキジトラ白猫が鳴いていた。

「うん……うん……それは、どういう……?」

 隣に座る青年は、膝に肘を預けた前のめりの姿勢で、猫の顔を覗き込むようなしぐさで熱心に相槌を返す。いつ見てもこざっぱりとした服装と、中肉中背のいたって特徴のないほどほどに整った容貌の青年は、成人しているようには思われるが、勤め人のようには見受けられない――いつも同じ時間に見かけられるわけでもないので、もしかしたら時間の自由になりやすい自営業ということもあるだろうが、少なくともこの町のどこにも就業の気配ないし、近隣の大学にも籍を置いている様子はなかった。

 にゃーご……。

「そうか。また、教えておくれ」

 おしゃべりがひと段落付いたのだろう、去っていく猫を軽く手首だけを振って見送っては、昼日中ひるひなかの公園のベンチでのんびりと空を見上げて過ごす――その素性を知る者はいないながら、彼はこの町ではそれなりの有名人だった。



「ねこの兄ちゃん、ただいまー」

 ランドセルを揺らして駆け寄る。小学四年生のみっちゃんは、学校帰りに通学路にあるこの公園で猫と青年似合うのを楽しみにしていた。みっちゃんは、小学校に入る頃にお母さんとこの町にあるお祖母ちゃんの家に引っ越してきた。お祖母ちゃんと散歩をすると、いつもこの公園でひと休みしていたので、きっかけを忘れてしまうほどすっかり青年とは顔馴染みだった。一年前の春にお祖母ちゃんが眠るように亡くなってしまった時も、青年はみっちゃんとみっちゃんのお母さんにお悔やみを言ってくれて、公園に集まる猫と一緒にみっちゃんを元気づけてくれた。

 本当は、寄り道は望ましいことではないのだけど、青年がいる時だけは少しおしゃべりをして帰ってもいい…と、お母さんは許可をしてくれていた。同じような取り決めを保護者としている子供は、他にもいるようだったし――時おり立ち寄る近所の大人や老人が言うには、前にもそういう子供はいたらしい。

 みっちゃんは、幼稚園までは他の町にいたので、子供心にも大人達さえ素性を知らない青年がそれほどまでに信頼されているということは、ずいぶんと特別なことではないかと思っていた。

「お帰り、みっちゃん。でも、今日はもうすぐ雨になるから、このまま帰った方がいいよ」

 膝に懐いていた猫が去るのを見送りながら、青年は薄曇りの空を指し示す。

「猫に聞いたの?」

「そう。ひげが雨の気配を感じる…って、ね。僕も今日はもう帰るよ」

 立ち上がり、ランドセル越しの背を軽く押されて、促される――青年の家はどこだろう?…ふと、脳裏をよぎったが、訊いても答えてはもらえないのだろうという気がした。



 にゃうにゃう……にゃ。

「そう……わかった。ありがとう」

 三つ子を連れた三毛猫に頷く青年を、商店街のコロッケ屋の女主人が見守る。

「アーケードの真ん中あたりの……毛糸屋さんのある交差点で、よその子猫達が小さな光る輪で遊んでいたそうです」

 なので、おそらくはそのあたりに……青年が、足もとで見上げる三毛猫から得たらしい目撃情報を伝えると、コロッケ屋の女主人は大声で礼を述べながら青年の手を両手で握り、大きく上下に振り回してから、大急ぎで商店街に帰っていった。

 そうやってよく、青年は大人達から小さな探し物を頼まれることが多かったが――他にも、みっちゃんのような子供たちやもう少し大きな少年少女たちの親に言いづらい話に、猫達にするのと同じように耳を傾けることも少なくなかった。

 そもそもが、たびたび見かける猫とのおしゃべりにしても――なにがしかの情報をやりとりしているわけではなく、実のところ猫の方が気の向いた時に好き勝手に彼の元を訪れては、愚痴だの世間話だのをしゃべくりまくって立ち去るに過ぎないのらしかった。



 その日、みっちゃんは腹痛を起こして早退したクラスメイトが慌てていたために持ち帰りそびれたファイルを携えていた。彼の住んでいるマンションは、みっちゃん家族の住むアパートよりも猫の話を聞く青年のよくいる公園に少しだけ近く、つまりみっちゃんの通学路の途中にあるので、放課後の教室で忘れ物のファイルを見つけた友達同士協議の末、みっちゃんが預かったのだ。早退したクラスメイトはごくふつうに真面目でいたって親切な児童であったので、みっちゃんとしてもその程度の些細な手伝いで日頃の感謝をあらわすにやぶさかではなかったが、ほんの少し正直を言えば、猫に囲まれる青年とのおしゃべりを諦めなければならないかもしれないだろうことが残念だった。

 猫としゃべる青年は、毎日かならずしもみっちゃんの帰宅時間に公園にいるとも限らないので――素通りしなければならないなら、いっそ今日はいなければよいのに……みっちゃんは、願っていたのだけれども、ちらり…通りがかった歩道から公園を覗き込めばはたして、青年はいつものベンチでいつものように、隣と足下に端座する猫たちのおしゃべりに丁寧な相槌を返していた。


 ちょっとだけなら、いいかな……。


 公園の時計は、それこそいつもの下校途中の時間を指していて、数分程度なら、青年と会話をしてからクラスメイトの家に向かっても問題はないのではないかと――うっかり、誘惑にかられそうになる。

 けれども、哀しいかな――みっちゃんは、自分を知っていた。そんなことを自分に許せば、きっと、あと一分、あと一分と……と仕事帰りの母親が公園の入り口からみっちゃんと青年を見つけて声をかけるまで、帰ると言い出せずにずるずると居座ってしまうに決まっていた。


 そうだ! 先に忘れ物を届けて、戻ってくればいい――!


 思いつきに満足して駆けだしたみっちゃんは、猫のおしゃべりを聞く青年の横顔が、いつになく緊張していることに気づかなかった。


 届け物は、思いがけず予想より早く完了した。マンションの玄関先で、ちょっと薬を買いに出かけていたというクラスメイトの二学年上の姉と出会えたからだ。弟同様気だての良い少女は、年下のみっちゃんにも大人のような丁寧な礼を述べてマンションに帰っていった。

 けれども――。

 幸運に喜んだみっちゃんが公園に駆け戻ると、既にいつものベンチには青年の姿も猫たちの姿も見つからなくて。


 そんなぁ……。


 がっかりしてベンチに座り込んだみっちゃんは、しかしながらすぐに弾かれたように立ち上がっていた。

「大丈夫ですか?」

 みっちゃんのすぐ目の前で――松葉杖をついた男性が、舗装されていない公園の地面の何かにつまづいたのだろう、バランスを崩して膝をついてしまったからだ。

「ありがとう。悪いけど、鞄を拾ってもらえるかな?」

 慌て駆け寄ると、猫と会話する青年と同じくらいか少し年上のように見える男性は、松葉杖にすがって立ち上がりながら、取り落としてしまったボストンバッグに視線を送る。

「公園のすぐ外に車があるから、もしよかったらそこまで運んでもらえると助かるんだけど……」

 みっちゃんが拾い上げたバッグは、それほど重たいわけではなかったが、松葉杖を扱うのには邪魔なのだろう――指し示された公園の入り口脇には白いライトバンが停まっていて、そこまでならもし運んでいる間に青年が戻ってきても再び擦れ違うことはないだろう。

「いいよ。お兄さんは、足下に気を付けてね」

 親切ができることはみっちゃんには、とても誇らしいことであったし――。

「後ろの席に置いてもらえるかい?」

 スライドドアを開けると、ひっくり返らないように慎重にリアシートにバッグを置く。


 どん――!

「わっ!」


 強く背中を突き飛ばされ、思わず車内に転がり込んでしまった時も――みっちゃんは、男性がまたバランスを崩して倒れそうになったのだと、とっさ思った。

「大じょ……え!?」

 振り返ろうとする足元で、スライドドアが閉まる。


 がこん……。


 否、かろうじて閉まらなかった。

 投げ込まれたと思しき松葉杖の先端が挟まり、ドアの安全装置が働いたらしい。

 ゆっくりと退いていこうとするドアに手を伸ばす男と目が合った瞬間、みっちゃんは転がる松葉づえに飛びついていた。

 再び閉められようとするドア――乱暴に押し込まれる松葉杖をみっちゃんは縋りついて押しとどめる。

「ちっ……」

 男の舌打ちが、ガコガコとドアと松葉杖のぶつかる鈍い音の合間に聞こえた。

 大人の力で突き込まれる松葉杖の角が、胸や顎にぶつかって痛かったが、みっちゃんは全身で押し返す。敵わないまでも、松葉杖の邪魔がなくなりドアが閉まってしまうのが怖かった。

 ほんの僅か交錯した、男の目は血走り――知らない生き物のようだった。

 きっと、このドアが閉まって、閉じ込められてしまったら、とてつもなく酷いことが起きて、殺されてしまうに違いない。


 誰か……!


 常には、大きな声で助けを呼ぶように言われているし――みっちゃん自身そうしたいと思うのだけれど、声をあげるために息を吸おうとしたら力が抜けてしまいそうで、とてもそんな余裕はない。


 でも、誰か……。


 ずずっ…身体が滑る。少しずつ、力負けしているのがわかる。

 子供の膂力と体重と体力では、大人の男性に抗い続けていられる限界なぞ知れている。


 助けて……助けて……。


 お母さんやお祖母ちゃんの顔が浮かんだが、女のひとではやはり適わないかもしれない。お祖母ちゃんはもういないけれど――彼女らが、酷い目に遭ってほしくはない。強そうな大人のひと……もう音も痛みもわからなくなりながら、みっちゃんは知っている屈強そうな大人を思い浮かべ続ける。


 誰か……強いひと、早く……!


 強いひと――その時、顔が浮かんだ。


 兄ちゃん……ねこの兄ちゃん、助けて――!

「にゃぁぁぁぁぁ……!」

 もうダメだとばかり最後の力で張り上げた声は、後で思い返すと――猫の叫びのようだった。


 がこ……。

「あ……!」

 突然、抵抗が消え――みっちゃんは、車の床につんのめった。

 ががー……。

 ゆっくりと、スライドドアが開いていく。

 車内の暗がりと強く目を瞑っていたために、数瞬、いまだ陽のある外の世界は真っ白にまばゆく――みっちゃんは、瞬きを繰り返す。

 先に回復した耳の捉えるのは、短く入り乱れた大人の男性の声と――ぐるるぅ……敵に飛び掛かろうと身を低くして睨みすえる、数多くの猫の唸り。

 そして、ようやく取り戻した視界にあったのは、男の腕を掴み膝で地面に抑え込む――猫と会話する青年の姿だった。



 青年に取り押さえられた男は、そのすぐ後に追いついてきた警察官に捕まえられ、連れられて行った。

 猫たちは、その頃には解散していたけれども、青年は――呆然とするみっちゃんが警察に保護され、連絡を受けたお母さんが顔色を変えて駆けつけてくるまで、ずっと寄り添っていてくれた。

 青年は、その日――猫たちから、あちこちで何度も子供を誘拐しようとした男が、この近くをうろついていることを聞き、交番に相談に行っていたところであったらしい。そこに、猫たちがみっちゃんの危機を知らせ――間一髪、助けに来てくれたのだ。

「みっちゃんが帰るのを確認してから動けばよかった。怖い思いをさせてごめんね」

 自分は何も悪くないのに謝る青年に、そんなことない……首を振ろうとして――その頃になって、ようやく涙がこぼれた。

「うん。怖かったね……もう大丈夫だよ」

「ねこの兄ちゃ…ん……兄ちゃん……」

「うん。いるよ」

 しがみついて泣きじゃくるみっちゃんが落ち着くまで、青年はずっと背中を撫でていてくれた。



 半年ほどの後、みっちゃんのお母さんが再婚して――進級のタイミングで、この町を離れることになった。

 引っ越し先は大人の往来にも遠く、お祖母ちゃんもすでに亡くなっていれば、そのままこの町を訪れることもすっかりなくなってしまったけれど。

 やがて、高校生になったみっちゃんは、恋をしたことで――あの青年が、自分の初恋であったのだと気が付いた。





 それからさらに月日が過ぎて――すっかり大人になり結婚もしたみっちゃんは、仕事の都合もあって家族三人でこの町に帰ってきた。

 まだ幼稚園に通うには至らない幼い子供を真ん中に、手を繋いで懐かしい公園を訪れる。


 にゃごにゃご――にゃー。

「うん……そう……それは嬉しいね。ありがとう」


 新しくなった変わらぬ場所のベンチに、初めて会った頃のまま――猫を相手に相槌を打つ青年の姿があった。


「ねこの兄ちゃん――!」


 あぁ、そうだったのか……自身にも説明し難い納得を覚えて呼びかけると、顔をあげた青年は、ほんの暫し目を丸くしてみせてから、破顔した。


「みっちゃん――お帰り」




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