悪名の冠 足利将軍家十五代記

林マサキ

第1話 妙顕寺勅願

 建武元年(西暦1334年)、京都・今小路にある法華宗寺院の妙顕寺は、後醍醐天皇からの勅使到着を待っていた。

 緊張した面持ちで待つ日像。

 「さらに都にあって広宣流布し、法華経の教えを広めよ」

 を受けて都で布教していた日像。

 これより先、後醍醐天皇より寺領を受け、綾小路大宮よりこの地に移転。

 法華宗(日蓮宗)は草創期には鎌倉幕府と既存宗派から弾圧されていた。

 日像の布教活動も、他宗派から睨まれ、京から二度追放されている。

 その弾圧に耐え、甲斐や上総で、坂東一円で、そして京都での布教を経て、この日、勅願寺として認める綸旨を賜ることになった。

 勅使が到着すると、後醍醐天皇からの綸旨を読み上げられた。

「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし」

 読み終えると、

「仏心篤い帝と日本の民のため、国家繁栄、王城鎮護、民の安寧を祈願いたします」と恭しく頭を下げる日像。

 京都での布教に尽くし齢60の半ばとなった日像にとって感慨無量の時である。

「帝は仏の教え、神の力によって建武のご一新をされようとしておられる。貴山も帝の意を体せよ」とさらに勅使。

 建武の新政。

「これからは、朕自ら中心になって政を行う」

 後醍醐天皇は宣言。

 前年の元弘三年(または正慶二年。西暦1333年)五月、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、年が明けた元弘四年一月に改元し「建武」とした。

 後醍醐天皇は臨済宗の大徳寺にも勅願寺の綸旨を発し、東寺などの寺院にいくつかの荘園を与え、仏教界の支援を得た。

 鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏や新田義貞などの武士たちにも恩賞として土地を与えらたが、 多くの守護・地頭の職は公家・公達に与えられ、武士たちにはわすか。

 不満を持った武士たちは、

「土地が少なすぎる」

「命がけで戦ったのだぞ。もっと恩賞をくれ!」

 さらに、

「あそこの土地は俺の土地だ」

「帝の側近の公家たちが勝手にわしらの土地をとろうとしている」

 訴訟処理のために設立された雑訴決断所に駆け込んだが、これまで政の実務を担ってこなかった朝廷の事務は勝手がわからず非効率的。たちまち混乱した。

 そのうえ、親政の威光をしめさんとして大内裏を建設しようと、「楮幣」とよばれる新紙幣の発行を計画したが、民に受け入れられず頓挫。

 恩賞わずかな武士から税としてカネを徴収したからさらに激怒。

 新政に対する恨みつらみは国中に広がり、時間の経過とともに激化した。

 足利高氏邸を訪ねた弟の直義。

「武士たちの不満が日本中に渦巻いておりますぞ」と直義。

「……ううむ。わしも日本の侍を束ねる冠位をいただけるものと思っておったがな……」と高氏。

「ところが、武蔵、下総、常陸の三国を与えられただけでしたぞ」

「しかし、楠木正成に与えられた摂津、河内、和泉の三か国よりはるかに広い土地だぞ。それにだ、帝は御名の尊治より、わしに尊の字をくださるそうじゃ。義貞は女官を拝領したそうだがな」と笑う高氏。

 女官とは、公家出身の勾当内侍のこと。

「何を笑われます兄者。京の都近くの三国と東国の三国では、重要度がちがいまするぞ」

 と怒る直義。

「帝は、兄者を遠ざけておられる」

「……わかっておる。帝は、わしが武者たちを率いて、政を行うことを恐れておられるのであろうよ」







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