幽霊探偵キンダイチの事件墓!
咲蔵 風人
1.宇津美万吉の憂鬱
「あの人、何してるんだろう?」
きっかけは、幼いとき、何気なしに放った一言だった。
指差した先には、一人の女性がブランコに座って、ゆらりゆらりと揺れている。その表情は物憂げで、啜り泣いているように見えた。
「具合悪いのかな?」
駆け寄ろうとした矢先、その手をぐいと引かれる。驚いて振り返ると、隣にいた友人が、怪訝な表情をしていた。
「何言ってるんだよ、誰もいないだろ。気持ち悪い」
「ああ、宇津美先生! いやあ、これはこれは」
役場に顔を出すと、小太りの男が小走りで、窓口から出てきた。
「町長の東海林(しょうじ)仁(ひとし)です」
「お世話になります」
深々と頭を下げる仁に対し、万吉(まんきち)は軽く会釈で返した。
宇津美(うつみ)万吉は、この春から、ここ谷ヶ崎(やがさき)の診療所での勤務を言い渡された内科医師だ。谷ヶ崎には診療所がなく、街の病院まで行くにも結構な時間がかかるらしい。住人が不便に感じるのは当然で、診療所をやってくれる医者を探しているとのことだった。
「診療所までご案内いたします。ささ、参りましょう」
「いえ、お仕事に差し支えますでしょう。教えて頂ければ、自分で行きます」
仁は一瞬ぽかんとしてから、「そうですか」と呟いた。そっと顔を伏せた先に、ぽつんと置かれた町のパンフレットが目に入って、仁ははっとして手を伸ばした。
「じゃあこれ! お渡ししますね!」
差し出されたパンフレットには、「ようこそ! 武者の里、谷ヶ崎へ!」とでかでかと書かれていた。そのなんとも言えない安っぽさに万吉が凝視していると、仁は言った。
「谷ヶ崎とか言いますけどね、この町、谷より山ばっか」
全くその通りで、パンフレットにはコンビニすら見当たらなかった。
「診療所はここですが……やっぱりご案内しましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
万吉は早口に一言置いて、踵を返して役場を後にした。
鞄を放ると、薄っすら埃を被ったベッドはそれをまき散らした。錆びついた椅子に腰かけると、ぎこっと、嫌な音が響く。背もたれにうんと体重をかけ、たった一つしかない診察室の中を見回すと、四隅ともしっかり蜘蛛の巣が張られていた。
その日は結局、診察室の掃除だけで終わってしまった。
すっかりくたびれて、ぼーっと天井の隅を眺めていると、その休憩を許さないかのように、一本の電話がかかってきた。
「あっ、先生、無事に着きました?」
仁からだった。さっき役場に挨拶に行ったときから相当時間がかかっているのに、これで着いていなかったらどうするつもりだったのだろう。
「はあ、一応、診察室の掃除を」
「そうですかあ」と、気の抜けた返事の後に、仁は言う。「先生のお食事をご用意しておりますので、宜しければご一緒に」
「いえ」と万吉は鋭く制した。「もう疲れたので、ここで休みます。お休みなさい」
返事を待たず、万吉は電話を切った。
この様子では、きっと患者なんて暫く来ないだろう。若干の安堵を噛み締めて、彼は綺麗にしたばかりのベッドに飛び込むと、あっという間に眠りに就いた。
目が覚めたのは、扉を叩く乱暴な音でだった。
まだ開けきらない目を擦りながら診察室を出ると、カウンターの向こうの玄関に、自動ドアを叩く男の姿があった。
万吉は小走りで自動ドアへ駆け寄る。自動ドアと言っても、これは壊れていて、隙間に指をねじ込んで開けなくてはならなかった。
「ど、どうしました……?」
男は鋭い目で、万吉をじろじろ見つめる。
「診療所ができたって聞いたんでな。おめえが医者か?」
「は、はあ、そうです」
息がおかしなところに入って、上手く返事ができなかった。男は、「ふうん」と口を鳴らしてから言った。
「じゃ、俺を診察してくれねえか」
「……え」
男の名前は、川辺(かわべ)元則(もとのり)と言った。この町で長年大工をしているのだという。
「俺も年だろうが、どうも最近腰が痛くてかなわねえ。なんとかならねえか、これじゃ仕事も手につかんのよ」
万吉の専門は内科だが、取りあえず応急処置だけ施すことにした。
「と、取りあえず、鎮痛剤を出しておきますね。飲む量は袋に書いておきますので、きちんと守ってください。あとは、湿布を……」
万吉は元則から視線を逸らしたまま説明を続け、薬や湿布を渡した。そんな万吉の様子を、元則は不審に思っているようだったが、渡されたものを受け取ると、そのまま帰っていった。
元則が出て行ったのを目の端で確認して、万吉は漸く、伏せていた顔を上げた。
一度様子を見てみて、とは言ったものの、残念だが元則の腰は良くならないだろう。彼が来院したときの驚きを、万吉は忌々し気に思い出していた。
元則の腰には、落ち武者のような霊が、恨めしそうに抱き着いていたのだ。
万吉にはどうしても慣れないことがあった。それは、診察中に、患者に憑りついている幽霊の類が見えてしまうことである。しかし彼も、医者ではあれど霊媒師ではないから、下手に攻撃しては自分にも危害が及ぶ。いつもそうして見て見ぬふりをしていることが、愛想がないと言われる一番の原因だった。
そのとき、ポケットが突然震え出した。びくっと跳ね上がったが、携帯だということに気が付いて、思わず呆れてしまった。
画面を見ると、相手は仁だった。
「あっ、先生! おはようございます! よく眠れました?」
「はあ、まあ……」
「朝ごはん、何か食べられました?」
「いえ、まだ……」
「でしたら、うちへいらしてください。大したものはありませんが、良かったら!」
昨晩あんな乱暴に断ってしまったのに、仁はちっとも気にしていない様子だった。万吉は流石に、今回はお言葉に甘えることにした。
「ささっ、遠慮しないで、どうぞ!」
「お邪魔します……」
玄関先で万吉が靴を脱ぎ始めたとき、廊下の奥からぱたぱたと足音が近づいてきた。
顔を上げると、目の前に、自分を見上げる少年の顔があった。
「幸仁(ゆきひと)、これから町のお医者さんになる宇津美先生だよ。ご挨拶なさい」
幸仁と呼ばれた少年は、ランドセルを背負ったまま、万吉に向かって深々とお辞儀をした。
「よろしく!」
「あ、ああ、よろしく……」
「それじゃあ父ちゃん! 行ってきます!」
幸仁は靴のかかとを踏んだまま、万吉の横をすり抜けて、外へと飛び出していった。
「元気な子ですね……」
「一人息子です。いやあ、一年生であんな調子じゃ、この先が心配でなりませんよ」
その回答に、万吉はぎょっとした。仁の血をしっかり継いでいるのだろう、身体の大きな子だったから、てっきり四年生くらいだと勘違いしていた。
「お口に合うか分かりませんが」
仁は万吉の向かいに座ると、茶碗に堆く盛られたご飯をもりもり食べ始めた。同じ食器を使っているのに、彼のはまるでままごとのようだ。
万吉は小さく「いただきます」と呟いて食べ始めた。鮭の塩焼き、キャベツの千切りの小山にちょこんと寄り掛かるミニトマト、味噌汁。お口に合わないどころか、ほっとするほどに優しい味だった。黙って食べているのもなんだから、万吉は仁に「おいしいです」と伝えた。すると彼は、子供のように満面の笑みを浮かべた。
「診療所の具合はいかがですか? すみませんねえ、あんなものしかご用意出来なくて」
「いえ、気長に掃除していきますよ……そういえば、今日患者さんがいらして」
「本当ですか!」
仁は食べる手を止め、身体を前のめりにして万吉に近づいた。
「良かったです! やっぱり、病院はなくてはならないですから! みんなが必要としてくれてるってことですね! で、誰が来たんですか?」
「川辺さんって方です。大工さんの」
「ああ、あの人……腰が痛いと?」
「ええ」
頷いて、万吉は味噌汁を啜った。
ところが暫くしても、仁から話を続けようとしたり、食事を再開しようとしたりしない。万吉が顔を上げると、仁は眉間に皺を寄せていた。
「何か心当たりでも?」
尋ねると、仁は持っていた食器を置いて、また前のめりになった。
「先生! 愚問ですが!」
「は、はい……」
「幽霊なんて信じますか!?」
元則が腰の痛みを訴え始めたのは、ある森の開拓を任された頃だったそうだ。
「ゲンさん、あの祠を壊したせいだと思います……」
よくある話だ。工事の途中で突き当たった祠を、ゲンさんこと元則さんは、周りの反対も聞かずに壊してしまったのだという。なんとなく、「迷信にきまってるだろう!」と彼が怒鳴る様子が目に浮かんだ。
「あれは、この町で命を落とした落ち武者を祀っていた祠だったんです」
「なるほどね……」
「……全然驚かれませんね?」
どきっとして思わず顔を上げた先で、不思議そうにこちらを見つめる仁と目が合った。
「こんな話をしたら、いい大人が、とか、てっきり仰られるかと……。もしかして、そういうの、全く信じない感じですかね」
と不安そうに言うので、そこで万吉は漸く、考えて言葉を発した。
「ま……そういうこともあるんじゃないですか。僕は知りませんけど」
ところが仁は、幽霊の存在を否定されなかったのが嬉しかったのか、その話を広げ始めた。
「私はね、幽霊って信じてるんですよ。だって、色んな話があるでしょ? 私は一度も見たことないのになあ」
「……ごちそうさまでした」
先に完食した万吉は、すぐさま立ち上がる。
「あっ、皿は私が洗っときますんで、結構ですよ」
別にそんな気はなかったが、万吉は軽く会釈を返した。
「お腹が空いたら、いつでも言ってください。食事作って待ってるんで」
ここへの配属が決まったとき、「食事・住居付き」と言われていたが、そういうことだったのか。
そういえば、住むところは……?
「あと、寝るところも診療所じゃ、なんでしょう。先生のお部屋、ちゃんと用意してますから」
「……というと?」
「この家の二階です」
……まあ、ご厚意には甘えさせてもらうべきだ。
一応、今日はまだ休診である。元則は想定外だったが。
万吉は仁から借りたママチャリにまたがって、ある場所へと向かっていた。
「あらあ、あなたが新しく来たお医者さん?」
花屋のおばさんは、間延びした調子で言った。神経痛が酷くて、と話を始めた彼女に、万吉は淡々と診察開始日だけを伝え、さっさと花を買って店を出た。
そのとき買った花は、ママチャリの籠に入っている。舗装されていないでこぼこした道にバウンドする度、菊の花はその匂いを漂わせる。
……あいつのために、少し大袈裟すぎたかな。
頭上には真っ青な青空が広がっていた。万吉はそれを見上げて、遠い日のことを思い出していた。
彼がこの町に来たのは、もう一つ理由があった。
「万ちゃん、お医者になるんだろ? 凄いなあ」
高校時代に仲の良かったその人物は、なんともふざけた名前だった。
「僕? 僕はね、探偵になるんだ! はは、凄いだろ?」
彼の名前は、金田(かねだ)一(はじめ)と言った。
実際、彼は本当に探偵になるのではなかった。警察学校に行くために猛勉強していた背中を今でもよく思い出せる。その頃は、医大に進むためにまた猛勉強していた万吉と、切磋琢磨し合っていたものだ。一は夢を叶えて、見事刑事としてその職を全うした。
――なあ一、お前は刑事として、本当にやりたいことができたのかい。
唯一無二の親友に、一度そう聞いてみたかった。けれどもう、その僅かな願いも叶わない。
彼はもう、この世にいないのだから。
一だけは本当に、信頼できる友人だった。彼にだけは、自分の不思議な力を打ち明けることができた。
一は万吉のことを不気味に思ったり、馬鹿にしたり、僕も見たいなんて言い出したりはしなかった。
「人間何億といるんだ。不思議な力を持ってる人なんて、いたっておかしくないじゃない」
そんなことを気にしている自分が、やけに馬鹿らしく思えて、そのときは恥ずかしさを紛らすために、大袈裟に笑ったものだ。
とうとう目的地が見えてきた。彼の眠る、桂田霊園が。
てっきり廃れきっているものかと思ったが、案外そうでもなかった。寧ろ、綺麗すぎるほどに整われていた。流石は、祠一つ壊しただけで町民揃って騒ぎ立てる町である。
本当なら、一の墓の前でゆっくり思い出に浸りたい気分だった。しかし残念ながら、そうもいかないようだ。
『金田一之墓』と彫られた墓石の前に、大勢の幽霊が群がっているのが、万吉の目に映ってしまったのだ。
見えなければなんということはない。いくらだってあそこにいてやる。しかし墓の前に群がる幽霊の数は、尋常ではなかった。
幽霊たちは、何やらわいわいがやがやとしていた。じっと立っていたり恨めしそうに睨んでいたりする幽霊も多いが、こうして普通の人間のように井戸端会議をしている奴らもいるということを、万吉は長年の経験から知っていた。
またにすればいいだけのことだった。ところが、万吉の足は、彼の墓へと進んでいた。
意地のようなものだった。あるいは、願掛けのつもりだったかもしれない。
俺はなんにも見えちゃいない。聞こえちゃいない。ここで彼の墓参りを達成すれば、俺は普通の人間になれる。
万吉が近づくと、幽霊の何人かが、こちらを振り返った。万吉は、目を合わせないようにしつつ、真っ直ぐ目の前を見つめて歩いた。
墓石の前にしゃがみこむと、周りの幽霊たちが見ているのが、気配で分かった。ひそひそぼそぼそと、万吉を囲うように声がする。
水を撒いて墓石を簡単に洗い、持ってきた菊の花に取り換え、手際よく線香に火をつける。
一息ついて、手を合わせた、そのときだった。
「会わせてあげようか」
耳元で、子どもの声がした。無垢で幼く、ひそひそ話をするような、息を伴ったその声は、舐めるように、万吉の背中にぞっと悪寒を走らせた。
万吉は、そっと立ち上がって、足早にその場を去った。跳ね上がる心臓が、骨までも打つようで、その鈍い音は万吉の耳を支配していた。
大丈夫、気づかれてない。だって俺は、反応しなかった。反応しなかった、よな……?
そうさ、俺はなんにも見ちゃいない。聞いちゃいない。
目を瞑って考えながら、心の中で唱え続ける。
素早く動かし続けていた足が、突然空気を掻いた。
「……あ」
地面かと思って油断した足は、まだ宙に浮いている。異変に気付いて目を開けたときには、もう遅かった。
前のめりに傾いたその身体は、重力に抵抗できるはずもなく、そのまま石段との距離を縮め、頭からごろごろと転がり落ちていった。
石段の先には乗ってきたママチャリがあり、万吉は勢いのままにそこへ突っ込んだ。非常事態を知らせるがごとく、地面に叩きつけられたベルはけたたましく鳴り響いた。
遠くで、人の声が聞こえた。どこか懐かしさを感じる声だ。
暗闇の中、その声を頼りに、ゆっくり目を開ける、たちまち、眩しい光が視界を包みこんだ。
「気が付いたあ!」
次に飛びこんできたのは、見知らぬ少年の顔だった。
「大丈夫? おじさん?」
少年の表情と言葉をはっきり捉えることができるようになると、僅かに口を動かすことができるようになった。
「……君は」
「僕は結城(ゆうき)旭(あさひ)! 名探偵の一番弟子だよ!」
高らかに響いたその声が耳をつんざき、万吉は顔を顰める。
「ここは……どこだ?」
「探偵事務所だよ、キンダイチのね」
すると、扉が開く音の後に、誰かの足音が近づいてくる。
「おっ、良かった。目を覚ましたんだね」
そのとき、ぼんやりしていたはずの頭が、突然動きを取り戻した。
その声には、間違いなく聞き覚えがあった。もう二度と聞くことができないと思っていた、あの声にそっくりじゃないか。……そっくり? いや寧ろ……
「よっ、元気してた?」
万吉の顔を覗き込んで、にっこり微笑むのは、紛れもなく、二年前に死んだはずの親友、金田一だった。
「……俺、死んだの?」
開口一番、放った言葉はそれだった。寝かされていたソファの傍に置かれたテーブルの上、菊の花が花瓶に生けられている。恐らく自分が持ってきたであろうそれが、やけに不吉に見えた。
ところが、一は軽く笑ってから言った。
「死んじゃいないよ。死んでたら、頭から血は出ないと思うぞ?」
確かに万吉の額には、大きな絆創膏が貼られていた。
「ぶつけたってより、切ったって感じだね。多分自転車のペダルの辺りで。とりあえず安心しなよ、先生?」
からかうように言われて、万吉は思わず目を逸らした。聞かなかったことにしようとしたが、一の言葉に食いついたのは旭だった。
「先生? おじさん、先生なの?」
「この人は、僕の高校時代の友達なんだ。宇津美万吉。お医者さんなんだよ」
「じゃ、キンダイチと同い年?」
「そう。だから『おじさん』なんて言っちゃ駄目だよ」
二人の会話をぼーっと聞いていた万吉だったが、何か引っかかるものを感じていた。
すると、旭が一の耳元へ、わざと聞こえるような小声で言う。
「お医者さんが怪我するなんて、おかしな話だねえ?」
その声色に、万吉は声を上げた。
「お前! あのとき俺にちょっかい出してきた!」
墓の前で手を合わせたときに傍で聞こえた、不気味な一言。紛れもなくその声だったのだ。
案の定、正体は旭だったようで、彼はまた面白そうに大きな笑い声を上げた。
「この人、ほんとは幽霊が見えてるのに、見えてないふりしてたんだぜ! そんなのふりだって、みんな分かってたよ! それで僕が悪戯したら、この人、すたすたーって逃げてって!」
「お前のせいでこんなことに!」
「でも、僕のお陰で、会えただろ?」
はっとして、万吉は一を見やった。確かにそこには、生きていた頃と全く変わらない、親友の姿がある。
「本当に……一なのか?」
「ご覧の通りさ」
と一は微笑んだ。
「僕も死んだときはびっくりしたけどね。案外生きてたときと変わんないなあって」
その言葉通り、彼の様子は生前と全く変わらなかった。それは学生時代とおんなじように、へらへら笑って、なんの心配もない風にそこにいた。
「それにしても、暫くじゃないか」
テーブルを挟んでソファに腰かける一は、花瓶の花を指先でつついて言った。
「どうしたんだい、急に? 今日は、お盆でも命日でも、お誕生日でもないよ?」
「……誕生日で、菊なんか選んでくるか」
冗談を言うのもまた相変わらずだ。万吉も漸く調子を取り戻して、そんなツッコミを入れられるようになっていた。
「この春から、谷ヶ崎の診療所に勤めることになったんだ」
と言うと、一は目を丸くした。
「へえ、そうかい! それは良かった! なんせあの頃から、この町はちっとも変わってないからね。お医者さんがいてくれるようになるだけで、大きな進歩だ」
「数年ぶりに帰ってきても、なんにも変わってなくて安心したよ」
「やっぱり、故郷が心配で帰ってきたのかい?」
「そうなら綺麗な話だけどな。行ってた大学の制度でだよ。学費免除にする代わり、卒業後四年間は大学病院に勤めて、その後の六年は僻地の診療所で働かなくちゃいけないんだ」
「ふうん、そうかあ」
一は腕を組んで、深くソファに座っていた。終始、にこにこと万吉を見つめていた。
「万ちゃんももう、二十七かあ」
「……ああ」
返事が遅れた。それを見かねて、一はまた笑って言う。
「気にすんなよ。永久にアラサーを名乗らなくていいってのも、悪くないぜ?」
万吉の脳裏には、墓の前に群がる幽霊たちが浮かんでいた。
「なあ、一……今、何してるんだ?」
「何って、旭くんから聞いただろう? 探偵事務所だよ」
「本当か?」
「ああ、ここは僕の墓、兼探偵事務所」
「ここが、墓……の中?」
本棚に囲まれた一室、立派な書斎であろうこの部屋が、墓の中とはとても思えない。
「墓石をずらすと、選ばれし者にしか使うことができない、下へと続く階段が現われるのさ。そこを下っていくと、僕ら幽霊の住む部屋に辿り着くことができる」
「選ばれし者お?」
と、旭が頓狂な声を上げる。
「何言ってんだよ! この間抜けなお医者さんは、キンダイチが運んできたんだろ?」
「こらこら、旭くん……」
万吉がむっとしたのが分かったのか、一は静かに旭を窘めた。
「まあ、帰りによく見てごらんよ。またいつでも遊びに来てくれていいしさ」
「ああ……」
なんと答えればよいか分からず、万吉は吐息を漏らすような返事をする。そこから会話が再開されることはなく、妙な沈黙に気が付いたところで、万吉はゆっくり立ち上がった。
「じゃあ……」
「じゃあね! 先生! またおどかしてやるから!」
扉の前に立ったとき、「そうだ、万ちゃん」と一の声が飛んだ。
久しぶりの呼ばれ方だった。だから万吉はどきっとして、ドアノブに伸ばしかけていた手を止めてしまった。
「君に伝えておかなきゃいけないことがあったんだ」
「……なんだ」
「階段を上がって外へ出るときは、墓石は下からずらさなくちゃいけないから、結構力がいるんだよ。気を付けてね。頭ぶつけないように」
「ああ……」
「と、もう一つ」
「なんだよ」
「何か困ってることがあるんだろう?」
また、返事が遅れた。
「……なんで、そんなことを」
「僕の探偵事務所には、困ってない人は来ないからね」
「なになに!? 事件!?」
爛々と目を輝かせた旭が、ぱたぱたと近づいてきて、万吉の顔を覗き込んだ。
ああ、またか。万吉は思った。
どうしてこいつには、何もかも分かってしまうのだろう。
「僕に隠しごとは無用だよ、万ちゃん」
いや、違う。
俺はいつだって、一の言葉に期待していたんだ。
渋々という様子を強がって演じながら、ソファに戻った万吉は、診療所にやって来た元則について話した。
「まあ、いつかは壊されると思ってたけどね。そっかあ、ゲンさんが」
どうやら一も元則のことは知っているらしく、そう言って眉を顰めた。
「その落ち武者って、本当に恨めしそうな顔してたの?」
と、旭が尋ねる。しかし万吉は、上手く返事ができなかった。
「え、多分……いや、俺もちゃんと見てなかったっていうか……」
「んもー、万吉先生ったら、怖がりなんだなあ! お医者さんなのに!」
「目を合わせて取り憑かれたりしたらどうするんだよ! 医者は関係ないだろ!」
そんな二人の言い争いを制止するように、一が勢いよく立ち上がった。
「よしっ、じゃあ行こうか」
「えっ?」
「やった!」
と旭が飛び上がる。
「捜査? 捜査するんでしょ!」
「行くって、どこに?」
「心当たりのある人がいるんだ」
きょとんとしている万吉を見下ろす一は、自信ありげにウインクをした。
「大丈夫、僕に任せて!」
***
名探偵とか噂の隣の幽霊のせいで、最近は墓場独特の静けさも楽しめなくなっていた。
部屋の中の荷物を粗方鞄に詰めると、皺だらけの顔を歪ませ、彼は大きな溜息をついた。
その胸には、銀色のアタッシュケースが大事そうに抱えられていた。他の荷物もいっぺんに抱え込むと、彼は部屋を出ようと振り返った。
「どこへ行くんです?」
そのとき、部屋の中に響き渡った聞き慣れない声。ぎょっとして顔を上げると、扉の前に、見知らぬ青年と少年が立っていた。
「なっ、なんだお前たち!」
青年はお構いなしに、部屋の中をうろつき始めた。
「おい!」
と、抱えていた荷物を足元に置いて、青年に怒鳴る。
部屋の隅々を見て回る青年の後ろを、少年もちょこちょこ追いかけて、青年の真似をするようにきょろきょろしている。
見て回るほど、立派な部屋ではない。六畳ほどの和室、卓袱台と簡単な台所と小さな箪笥と、そのくらいしかない。自分がじっとしているのに畳を滑る足音が聞こえるこの状況に、苛立ちが募る。
「お引越しされるんですか? でもここより住み心地のいいところ、他にないと思うけどなあ」
振り返った青年の顔には、どこか見覚えがあった。
「申し遅れました。僕、佐々野(ささの)さんの隣の墓に入ってる、金田一と言います」
にっこりと笑顔を見せる一とは対称的に、佐々野吾郎(ごろう)は、怪訝そうに眼鏡を押し上げてから言った。
「ほう、あんたが有名な、墓場の名探偵かい」
「いやあ、有名だなんて、そんなあ」
一は大袈裟に頭を掻いて、むず痒そうに照れて見せた。しかし一方で、吾郎は冷たい表情をぴくりとも変えない。
「あんたらが毎日隣で騒がしいんでな、もうここは出て行こうと思ったんだ」
途端、一の口角は、しゅんと元気を失くした。
「精々世間話でも頑張るんだな、名探偵」
嫌みったらしく言い放ち、吾郎は踵を返した。ところが、部屋を出ようとしたその足は、ぴたりと止まる。
足元に置いていたはずの、アタッシュケースがないのだ。
「うっひょー! 凄いねこれ!」
背後で上がったあどけない声は、吾郎を強張らせた。恐る恐る目をやると、そこでは旭が、あろうことかアタッシュケースを開いていたのだ。
「こらっ! 貴様!」
吾郎が声を上げた時にはもう遅く、旭は中身を手に持って、それを高々と掲げていた。
「わーい! 見て見て、キンダイチ! 億万長者ー!」
旭の手には、いっぱいの札束が握られていた。
「この! 早くしまえ!」
怒号を上げた吾郎だったが、それがかえって旭の悪戯心を刺激してしまった。旭は札束を抱えたまま、逃走し始めたのだ。部屋から出られてはたまらないと、吾郎は慌てて追いかける。
「待てこらあ!」
「わあ! 怖い怖い! 鬼は外ー!」
更に恐ろしいことには、旭が札束をまき散らし始めたのだ。吾郎はそれを拾うのに夢中になり、ますます米神に血管を浮かばせた。
「あ、旭くん!」
いよいよ吾郎の爆発を招きかねないと思ったのだろう、一は真面目に旭を止めに入った。しかし楽しさの絶頂に来てしまった旭には、もうその声は届かない。
「待てこのサルがあっ!」
とうとう激昂を上げ、吾郎は旭に向かって突進した。旭は当然、一層楽しそうに逃げ始める。
とは言っても、この狭い部屋で逃げ方など限られている。精々卓袱台の周りをぐるぐる回るくらいだ。身軽な旭は、反復横跳びをするように回ったり、わざと追い付かれそうにしてみたりして、吾郎を弄ぶ。
「このっ……」
遂に旭の背中に、吾郎の手が触れようとした瞬間だった。
旭が高く跳び上がった。卓袱台を飛び越え、反対側に着地しようとする。また吾郎との距離が遠くなる。だが吾郎も負けじと、旭の背中に手を伸ばした。
ところが、畳に着地しようとした旭の足は、がたん! という衝撃音と共に、固い感触を得た。
「うわっ!」
卓袱台の端に、足が引っ掛かったのだ。旭はそのままバランスを崩して、畳に叩きつけられる。卓袱台はそのまま立ち上がって、壁となって吾郎の目の前に立ち塞がった。
旭を追いかけ前のめりになっていた吾郎は、派手な音を立ててそこへ突っ込むのだった。
「待ってよお爺ちゃん!」
旭の声がして、万吉ははっと顔を上げた。墓石を押し上げ出てきたのは、あからさまに不機嫌な表情を浮かべた吾郎だった。そんな彼を追って、旭と一も飛び出してくる。
「ごめんってば、怒らないでよう」
吾郎はもう無視を決め込んでいるようだった。アタッシュケースを執拗に抱いた格好で、万吉の傍をずかずかと通り過ぎていった。
「いやあ、参ったなあ」
茫然と吾郎の背中を見送っていた万吉の傍に、一が困った表情で歩み寄る。
「なあ……別にいいんだぞ? 一」
「任せておいてよ! なんとかするからさ!」
万吉の心配をよそに、一は自信満々に、どんっと胸を叩いた。
吾郎を追っていた旭は、暫くして一のもとへ戻ってきた。
「駄目だよ、キンダイチ。あのお爺ちゃん、僕のこと無視するんだ」
「ま、あんなことになっちゃったらねえ……」
「途中まで追っかけてたんだけど、見失っちゃったんだ」
「大丈夫、どこに向かってるかは大体見当がついてるよ」
そう言う一についていった先で辿り着いたのは、元則が開拓工事を行っている森だった。木の葉は春の日を受け、青々と輝いている。少し整備されている小道を進んでいくと、その先から、わいわいと声が聞こえてきた。
小道を抜けると、拓けた広場のような所に出る。そこには大工が集まって、地面を掘り返したり、足場を組んで何かを組み立てていたりと、思いのほか壮大な作業を行なっていた。
「よーし、飯にするぞー」
足場から降りた元則が声を上げると、仕事をしていた仲間たちも手を止め、元則のところへ集まった。
「ゲンさん、腰は大丈夫なんですか?」
「なに、見ての通りだ。ぴんぴんしてらあ」
と、元則は自分の腰を、両手でぱんぱんと叩いて見せる。
「やっぱり迷信だったんですかねえ、落ち武者なんて」
「実はな、新しく来た医者に診てもらったんだ」
「えっ、お医者? 診療所ができたんですか?」
「そうだぜ。俺あ、そこで薬を貰ったんだ。したら、この通りよ!」
元則が子供のように跳ねるのを見て、周りの大工はどっと笑った。
吾郎は草葉の陰からその様子を窺っていたが、小さな溜息を一つつくと、そっと立ち上がり踵を返した。
「探しましたよ」
「うわあっ!」
振り返った吾郎の目の前には、一が立っていた。
「おどかすな! 心臓に悪い!」
「動いてないですよ、もう」
「うるさい!」
驚きの勢いもあってか、吾郎の語気は強い。この気難しそうな老人が、いつ取り返しのつかないほどに怒り狂うかと思うと、万吉は気が気でなかった。
「一体なんなんだ! ほっといてくれ!」
「僕は、佐々野さんのお力になりたいだけなんですよ」
「やかましい! お前たちの探偵ごっこに付き合うほど、私は暇じゃない!」
吾郎は荷物を抱えると、一と万吉の間を乱暴に掻き分けて、ずかずかと来た道を戻り始めた。
「佐々野さん!」
と一が叫んだが、当然吾郎は足を止めない。一は構わず続けた。
「僕が聞きたいのは、落ち武者さんのことなんです!」
次の瞬間、吾郎の足がぴたりと止まった。
「この先に祠がありますよね?」
「……もう壊されていたけどな」
「あそこに落ち武者がいたんでしょう?」
「……もういなかったけどな」
「佐々野さん、その方と仲が良かったんですよね」
「……ああ」
吾郎の言葉には、段々と覇気がなくなってきている。
「一週間ぶりに来てみたら、この有様だ」
元則が工事を始めた時期と重なる、と万吉は思い出した。
「良かったら、お話聞かせてもらえませんか?」
一はゆっくりと言った。吾郎は黙り込んでいたが、暫くすると、全身に込めていた力を抜くように、長い溜息をついた。
「仲がいいと言ってもな、ほんの最近のことだ」
一の墓の賑わいようにうんざりしていた吾郎は、静けさを求めてこの森にやってきた。暫く歩いていると、腰掛けに丁度いい石を見つけたので、吾郎はそこへ腰を下ろしたのだ。
抱えていたアタッシュケースを、膝の上で開く。整然と並んだ札束の一つを取り出すと、一枚一枚丁寧に数え始めた。
これが吾郎にとって至福の時間だった。静かな空間に響く、札束を数える微かな音が、堪らなかった。
そのときだった。
「あのう……」
最初は、空耳だと思った。だから聞こえないふりをしていたのだが、その声がもう一度した時には、流石に手が止まった。
「申し訳ないんですが、そこ、退いてもらえませぬか……」
声のするほうを振り返ったとき、吾郎は飛びのいた。
吾郎の傍に、武士の恰好をした何者かがしゃがみこんでいた。下ろされたままのボロボロの髪の毛の間から、上目遣いにこちらを見上げていた。
同じ幽霊と言えど、流石に落ち武者は気味が悪い。吾郎が慌てて立ち去ろうとした時、落ち武者もまた、慌てて彼を呼び止めた。
「まっ、待ってください! 別に、あっち行けって言ってる訳じゃなくて……!」
思わず足を止めてしまったので、どうすればよいか分からず、吾郎は恐る恐る振り返った。
本当に武士だったのだろうか、それにしては、なんだか弱々しい表情をしている。
「話し相手がいなくて、ちょっと、その……寂しいんです」
万吉が学生時代、この町に住んでいたときも、確かあの祠はあった。噂で聞いただけだが、源平合戦で逃げだした平家の武士が、あの場所で息絶えたという。
「本当にお侍さんなのー?」
と、突然口を挟んだのは旭だった。
「本物に決まっているだろう!」
「じゃー、なんていうお侍さんなんだよう」
ところが、吾郎は首を傾げて視線を逸らす。
「それが……本人は生きていた頃のことを全く覚えていないらしい」
「そんじゃ、本物かどうかなんて分かんないじゃん!」
「絶対に本物だ!」
「どうしてそう思うんですか?」
いよいよ吾郎と旭の内輪もめに歯止めがきかなくなりそうになったのを察知してか、一が間に入って尋ねた。
吾郎は自信ありげに、こう答えた。
「語尾に時々『ござる』が付くんだ!」
「ええ……そんな分かりやすく武士っぽい人っているのかなあ……」
「分かってないなあ、探偵小僧。あいつは、最初は私の真似を一生懸命して、言葉を現代に寄せて喋るんだが、そのうち気が抜けてくると、昔の言葉が端端に出てくるようになるんだ」
さっきまでのしかめっ面が和らいで、落ち武者との思い出に想いを馳せる様子が、吾郎から見て取れた。
「健気でいい奴なんだよ、あいつは……」
祠に祀られている落ち武者は、そこに置かれた要石のせいで、自由に動き回ることができないと言った。だから話題はいつも、今はどんな世の中なのかとか、吾郎が生前どんな生活をしていたかとか、といっても難しい話ではなく、軽い世間話ばかりだった。
「吾郎さんも、お侍さんであられたんですか?」
「侍が洋服を纏うか。私は銀行員だったんだ。ああ、なんて言うんだ……金貸しで伝わるのか?」
「じゃ、利息で大儲けしておられたのか!」
「そういうあくどいことはできんよ、民主主義国家なんだから……」
一方的に吾郎が話しているだけだったが、落ち武者は一つ一つ目を輝かせながら聞いてくれた。
「次はいつ、来られますか?」
落ち武者はいつもそう聞いてきた。
「そうだな、そろそろあそこは出て行こうと思ってるから、三日後くらいにはこっちへ定住するつもりだ」
「楽しみです! 待ってるでござる!」
落ち武者は本当に嬉しそうに叫ぶのだった。
そこまで話すと、吾郎はとうとうしょんぼりして、身体を小さくして俯いた。
「そう落ち込むなって、お爺ちゃん!」
旭はそう叫んで、吾郎の肩をぽんと叩いた。
「その落ち武者がどこにいるか、もう分かってるんだ!」
「なに?」
と吾郎の顔がぱっと上がり、旭は彼に向かって自慢げに笑顔を見せた。
「その落ち武者は、そこで働いてる大工さんに憑りついてるんだよ!」
旭が指を差し、同時に吾郎がその指先を振り返る。
元則は、仲間たちと弁当を囲んで談笑している。
行儀悪く地面に胡坐をかくその腰には、なんの影もなかった。
「いないじゃないか!」
「あれえ?」
「馬鹿にしおって、このサル!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 万吉先生! 話が違うじゃん!」
「いや、俺に言われても……」
遂に吾郎の鋭い視線がこちらへ向いたので、万吉は助けを求めて一を振り返った。
「佐々野さん」
彼一人がやけに落ち着いていて、優しく吾郎の名前を呼んだ。
「もしでしたら、僕たちが落ち武者さん、探しましょうか?」
「えっ?」
吾郎の声と万吉の声が重なった。
「誤解を解きたいですよね? 約束破ったみたいで、心地悪いでしょう」
「……お前にできるのか?」
「ええ、心当たりはあるんです。ね? 万ちゃん」
「お前まさか……」
と万吉がこぼしたのを差し置いて、一は続ける。
「この人は、僕の親友の宇津美万吉。お医者さんなんです。落ち武者さんを見たそうですよ」
「本当か?」
吾郎の表情が明るくなったように見えた。万吉は一人動揺しながらも、取りあえず頷く。
「よーし、じゃ、万ちゃんにも手伝ってもらわなくっちゃ!」
ところがその頷きを、一は都合よく解釈したようだった。
「ちょ、ちょっと待て!」
と万吉は声を上げた。
「俺は落ち武者の話をしただけだ! 別に、探してくれとは頼んでない!」
一はきょとんとして、万吉を見つめて言った。
「でも、落ち武者さんには、ゲンさんから離れて欲しいだろう?」
「そうだけど、もう離れてるみたいだし……」
「それにほら、佐々野さんに会わせてあげたいじゃん」
万吉は踵を返して歩き出した。「どこ行くのさ、先生!」と旭の声が響いたが、足を止めない。
なんだよ、一。お前は俺の親友だろ? 俺がお化けに絡まれることがどんなに嫌なことか、知ってるはずじゃないか。
「もう! 男らしくないぞ!」
すると、背後で旭の怒鳴り声がした。もう追いつかれたらしい。いよいよ走り出そうとした、そのときだった。
「もういいよ! 僕がやるから!」
どんっ、と背中に衝撃があったかと思うと、次の瞬間、万吉の視界は真っ暗になった。
「こーんにーちわっ!」
大きな声であいさつをすると、談笑していた大工たちは、ぎょっとした顔で振り返った。
「ゲンさん、いるう?」
「ああ、俺だが……どうしたんだ、お医者先生?」
草むらから突然姿を現した万吉に、元則は首を傾げて言った。
「ちょっと聞きたいことがあってさ。腰が痛くなくなったのって、いつ頃からかなあ?」
「そりゃあ、あんたんとこ行って、家帰って薬飲んだら……その日の夜には、もう平気になったなあ」
「そっかあ!」
と万吉は満足そうににっこり笑うと、こんなことを尋ねる。
「今日、ゲンさん家に行ってもいーい?」
「別に構わねえが、なんでまた……」
「また急に腰が痛くなったら困るでしょー? 終わったら声かけてね! じゃ!」
と片手を挙げ、万吉はまた草むらに飛び込んで、姿を消してしまった。まるで嵐が去った後のように、大工たちは呆然としていた。
「……新しいお医者って、随分明るい方なんですねえ」
「まあ、愛想がないよりいいですけど……」
「明るいっていうより、子どもっぽいっていうか……」
「うーん……俺が行ったときにゃ、一回も目え合わせられなかったけどなあ」
「どーだった? 僕、上手に聞けたでしょ!」
茂みの奥の木陰で待っていた一に、万吉は目を輝かせながら駆け寄った。一は、うんうんと頷きながら、万吉の頭についている葉っぱを取る。
「家に帰ってから痛くなくなったってことはさ、落ち武者さん、まだそこにいるかもしれないよね!? だから僕、ゲンさん家に行っていいかも聞いたんだ!」
「自分でそこまで考えたの? 凄いなあ」
「えへへー」
と万吉は、はにかんで見せる。
「それじゃ、あとは万ちゃんに任せよう」
「そうだね!」
次の瞬間、万吉の身体から、旭の小さな身体が飛び出した。旭は地面に着地するも、ふらりとバランスを崩して数歩よろめく。その先で、一が優しく抱き上げてくれた。
「お疲れ様」
「意外と疲れるや。上手く力が入んない」
旭に憑りつかれていた万吉は、崩れ落ちるようにその場で四つん這いになった。
すぐに立ち上がることができないほどに、万吉は体力を失っていた。不意打ちでこられた上に、そもそも幽霊に取り憑かれるなんて、万吉でさえ初めてのことだった。呼吸のタイミングでさえ思い通りにならなくて、それを取り戻すので今は精一杯なのだ。
「万ちゃん、行けそうかい?」
人の気持ちなど露知らず、一は平気でそんなことを聞いてくる。思わず彼を睨みつけようと、万吉が顔を上げたときだった。
一の腕に抱かれている旭が、したり顔でこちらを見下ろしていた。
「……少し休ませてくれ、そしたら行けると思う」
「それなら良かった」
一と旭が、同時に同じことを言った。ただその声色は、どこか違って万吉の耳に響くのだった。
元則は道中、きょろきょろと万吉を振り返っては、その度に首を傾げている始末だった。彼にしてみれば、なぜ医者と二人っきりで家路を辿っているのか理解できないのだろう。それに、万吉の表情がころころ変わることに、不気味さを感じているのかもしれない。こればっかりは万吉もどうしようもなく、ただ二人、足だけを動かしていた。もちろん万吉の背後には、一と旭と吾郎がついて来ているのだが、彼らの足音は畦道に響かないのである。
「ただいまあ」
元則が玄関を開けると、傍の階段から、小さな影が飛び出してきた。
「おかえり! お爺ちゃん!」
元則を見上げる少年が嬉しそうな表情をしていたのも束の間、見慣れない白衣の男に気が付くと、急にその表情は、しゅんと笑みを失くした。
「……その人たち、誰?」
「新しく来たお医者先生だ。恭四郎(きょうしろう)、挨拶しなさい」
恭四郎はそう言われたが、万吉にちょこっと会釈をしただけで、すぐにその場を離れ、階段を駆け上がって行ってしまった。
「もう少し愛想良くしたらあ?」
万吉もまた、小さく首を動かしただけだった。そんな彼の様子に呆れる旭の声がしたが、万吉は聞こえないふりをした。
元則は万吉を振り返ると、上がるよう促した。万吉がたじろいでいると、元則はまた首を傾げる。
「ここまで来て、こんな中途半端なところで帰るつもりかあ? 夕飯ぐらい食ってったらどうだ?」
「いや、でも……急に一人分増えるんでは、ご迷惑でしょうし」
「ご迷惑じゃねえさ、今日は俺が作る日なんだ。俺がいいって言ってるんだ」
と言うと、元則は万吉の腕を掴んで、家の奥へとずんずん進んでいった。されるがまま足を動かす万吉だったが、堪りかねて後ろを振り返る。一たちは玄関のところで突っ立ったままで、一に至っては、にこにこしてこちらに手を振っていた。
「これからどうするの? キンダイチ」
静かになった玄関で、旭が尋ねた。すると一は、靴を脱ぎ始めた。
「お邪魔しよう。話を聞きたい人がいるからね。旭くんもおいで」
「うん!」
「佐々野さんも」
「あ、ああ……」
静まり返った部屋の中、自分の他にはなんの影もない。恭四郎はほっと息をつくと、押入れの前にしゃがみこんで、中から一冊の本を取り出した。
小学一年生の恭四郎にとっては抱えるのがやっとな、分厚いその本は、表紙におどろおどろしい文字で『お化け大百科』と書かれていた。
恭四郎はそれをぱらぱら捲って、何かを探し始めた。河童やろくろ首や、妖怪ばかりが並んでいるが、見向きもせず一心にページを捲る。
そのときだった。
――かちゃ。
どきんっ、と心臓が跳ね上がり、思わずページを捲っていた手を止める。
部屋の扉が開かれる音だ。恭四郎はぎゅっと目を瞑って、本を抱き寄せた。
「恭四郎くん」
「ひいっ」
「こんばんは」
聞き慣れない声だ。しかし、怖いと感じさせるような色は、感じられないような気がした。
恭四郎はそうっと、後ろを振り返った。そこには、一や旭たちの姿があった。
「こんばんは」
愛想の悪かった万吉に代わってか、一は優しく微笑んで、もう一度言った。
「こ、こんばんわ……」
「やっぱり、僕たちが見えてたんだね」
「え……?」
「だって君、万ちゃんを見て言ったじゃないか。『その人たち、誰?』って」
万吉の後ろにいた三人がまさかお化けだったなんて、恭四郎は思わなかった。元則が万吉しか紹介しなかったことで、ようやくそのことに気が付いたのだ。
「少しお話しできるかな」
「え、ええっと……」
恭四郎がもじもじして、一の顔さえ上手く見られない。部屋の中を包みこむ沈黙に耐えられなくなってきたとき、あどけない声が空気をつんざいた。
「僕、結城旭って言うんだ!」
一の後ろから飛び出してきた旭が、恭四郎の顔を覗き込んだ。
「九歳! 君は?」
「え……っと、七歳……」
「そっかあ! じゃ、僕のほうが先輩だね! よろしくね!」
と、旭は右手を差し出してきた。恭四郎は戸惑いながらも、その手を握った。その異様な冷たさに、ぞくっと悪寒が走った。
「恭四郎、僕たち、ゲンさんにくっついてたお化けのことが知りたいんだ!」
「そ、それって、落ち武者のことですか?」
「そう!」
「やっぱり、あそこの祠のお化けなんですか?」
一の後ろで吾郎が頷いたのを見ると、恭四郎はまた俯いた。
「町のみんなが言ってたんです、あの祠を壊したら呪われるって。でもお爺ちゃん、みんなの言うこと聞かないで壊しちゃって……そしたら、壊したその日に、帰ってきたお爺ちゃんの腰に、落ち武者が抱き着いてて」
「でも今はいなかったじゃないか」
すかさず吾郎が言葉を飛ばすと、恭四郎は驚くべきことを口にした。
「実は、お爺ちゃんが診療所に行って帰ってきた後、落ち武者が僕のところに来たんです」
「何か言ってた?」
「自分がくっついてるせいで、君のお爺ちゃんは困っているから、もう帰るねって……」
「それっきりか?」
こくんと頷いた恭四郎に、吾郎は大きな溜息をついた。
「振り出しに戻っちゃったねえ」
旭もがっかりした様子で、そう溢した。
そのとき、扉をノックする音がして、全員が振り返る。扉の向こうから顔を覗かせたのは、エプロン姿の万吉だった。
「あ、えっと……恭四郎くん、ご飯できたよ……」
「はあい」
恭四郎は本を押し入れにしまうと、そそくさと部屋を出て行った。
「まるでお母さんじゃないか」
エプロンに染みこんだカレーの匂いを漂わせる万吉をからかうように、一が声をかけてきた。
「うるさいな、頼まれたんだよ……それより、一」
万吉は一の耳元に、何かを囁いた。それを聞いた一は、満足そうに頬を緩めた。
「佐々野さん、」
「ん?」
笑顔のままの一は、吾郎にこう言った。
「玄関の外に出てもらってもいいですか?」
「はあ?」
一に言われるがまま、吾郎は家を後にした。
身体はすっかり萎んだようで、もう元には戻らない気がしていた。顔を上げると、沈みかける夕日が、紫色の幕を下ろそうとしている。
「一人でどっかに行きおって……」
どうせ届かないとは分かっていても、吾郎は一人呟いてしまう。
「私もお前も、同じお化けなんだ。寂しいのは一緒なんだよ……」
「……吾郎さん?」
名前を呼ばれ、はっと我に返った。声のしたほうを振り返る。待ちわびた声だった。
「吾郎さん!」
庭にぽつんと立ち尽くしていた、落ち武者の姿があった。子供のように顔を綻ばせて、吾郎に駆け寄ってくると、その手を握った。
「良かったあ! また会えて! よくここがお分かりに!」
「お、お前こそ、こんなところで何を……」
「それが、要石が割られたおかげで、こうして動けるようになって……」
「それは分かっとる!」
「あ、えっと……どこまで分かってるんでござるか?」
「なんで帰ってこない!」
「ああっ、それは……動けるようになったのが嬉しくって、あっちこっち行ってたら、迷子になっちゃって……」
「それで?」
「取り敢えず、要石を壊したあのお爺さんの傍にくっついていれば、そのうち戻れるかなあと思ってたんでござるが、私がいると、お爺さんは仕事ができないらしくて、それで離れようと……」
すると、リビングの電気が点いて、庭に立つ二人を照らし出した。
父と母と恭四郎と元則の四人が、運んできたカレーをテーブルに置いて、それぞれ腰かけた。ところが、元則がすぐに立ち上がって、部屋の外から万吉を引っ張ってくると、テーブルに座らせた。
「……で、なんでまだここにいるんだ」
「あっし一人じゃ、戻るに戻れないし……それに、」
恭四郎が口いっぱいにカレーを頬張って、隣に座る元則に満面の笑みを向けて見せた。口の端についたカレーを、元則が拭いてやる。それから、大きな手で恭四郎の頭を撫でてやった。
「あのお爺さんの周りが温かくて、つい居心地が良くなっちゃって……」
「こんなの見せられちゃあな」
と吾郎は困ったように微笑んだ。
足元の芝生にぼんやりと、リビングで談笑する家族の影が映っている。
「お化けはみんな、一人ぼっちでござるなあ」
「でもお前は、私とは比べ物にならないくらい、途方もない時間、一人だったろう」
「もう覚えておりませぬが」
と落ち武者は、へらへら笑った。
「なあ」
「へい」
「墓場へ来い」
落ち武者はきょとんとして、吾郎を見やった。
「こんなに温かくはしてやれないかもしれないが、いいところを紹介してやる。お化けのくせにひっそりしてないで、誰かの話を聞いたりはしゃいだりするのが大好きな奴らがいるんだ」
「い、いいんですかい? あっしがいても」
「嫌とは言わんだろう」
「吾郎さんは?」
「たまに会いに行ってやるよ。ほら行くぞ、ちょうど来てるんだ――」
と、吾郎が玄関へ戻ろうとしたときだった。
その腕を、ぐいと引かれた。
「吾郎さんは、一人のままでござるか?」
「前からそうだったから、別に気にならん」
「でも、一緒に住むって約束だったではないですか」
はにかむ落ち武者のその顔は、まるで子供のようだった。
「吾郎さんもあっしも、同じお化けなんだから、寂しいのは一緒でしょう?」
翌日、一の探偵事務所には、いつも以上の賑わいがあった。特に旭は、いっぺんに増えた新しい仲間に、興奮が冷めやらない様子だった。
「これからよろしくね! 落ち武者!」
「へい!」
落ち武者は振り乱していた髪を吾郎に結ってもらって、それだけで見違えるほど立派に見えた。ただその表情は、相変わらず幼いものである。
「キンダイチの助手が増えて良かったね!」
「そうだね、旭くん。せっかく仲良くなれたから、落ち武者って呼ぶのはこれきりにしない?」
という一の提案に、落ち武者は頭を掻いた。
「お気遣いはありがたい。ただあっしも、名前は憶えてなくて……」
「そしたら、佐々野さんに決めてもらったらいいんじゃない?」
と、旭は吾郎を振り返った。
「佐々野さんは、落ち武者の友達なんでしょ?」
落ち武者も目を輝かせて、吾郎を見つめる。吾郎は戸惑いながらも、少し黙った後、小さな声で言った。
「……タスケ、なんてどうだ」
「侍っぽくていいですね」
すかさず一が相槌を入れる。
「せっかくですから、由来も聞いていいですか?」
「ええ……」
と吾郎は恥ずかしそうに口を尖らせて、暫く床を見つめてもじもじした後、またゆっくりと顔を上げ、落ち武者を見て言った。
「まあ、あれだ……いつか私の助けになってくれるようにとな」
「もっちろん!」と落ち武者はどんと胸を叩いた。「あっしも吾郎さんに助けられた身でござる! このご恩には必ずや応えてみせましょうぞ!」
「期待しているぞ、ただで助けたわけじゃないんだからな」
「佐々野さんも、僕の助けになってくださいね」
一の言葉に、吾郎はぎょっとした様子を見せた。
「そーだよ、そーだよ!」
と旭が飛び跳ねた。
「まさか、ただで居候する気じゃないだろ? まーさーかーねえ?」
吾郎はまんまとその挑発に乗って、まとわりつく旭を振り払って言った。
「私は人生の先輩だ。お前らみたいな若造より、二倍も三倍も世の中ってもんを知ってる。今日から私がお前のサポートをしてやるよ。キンダイチ先生?」
「宜しくね! 佐々野さん!」
「吾郎でいい」
「え?」
「言いづらいだろう、苗字じゃあ」
吾郎が照れ臭そうに目を逸らしながら言うと、旭は一層嬉しそうに叫んだ。
「分かった! 吾郎!」
「馬鹿! 敬語に決まってるだろう!」
「あり? そうなの? あはは!」
幽霊たちが戯れている様子を、ソファに座る万吉はぼんやり眺めていた。旭は吾郎にまとわりつき、吾郎はそれを避けようと逃げ回る。それを見ている一は、本当に楽しそうに笑っていた。
誰も彼も、生きている人間のようだ。
そのとき、乾いた音が響いた。扉が開かれ、向こう側から青年が一人、顔を覗かせた。
「キンダイチ先生、あのう……」
「はいっ! どうかしましたか?」
一は得意の笑顔で、青年に声をかける。ソファに座るよう促して、一は彼の向かい側に腰を掛けた。
静かにソファから立ち上がった万吉は、少し遠くでその様子を眺めていた。
「実は最近、気になることがあって」
「ええ、なんなりと!」
一は胸を張って、自信満々に声を上げた。
「墓場の名探偵、キンダイチ! どうぞ僕にお任せください!」
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