病院に彼女の見舞いへ行ったら、気が狂った老婆に話しかけられる。「ずっと会いたかった」と抱きつかれたので突き放してみた。しかし、実はこの老婆の正体は……

病院に彼女の見舞いへ行ったら、気が狂った老婆に話しかけられる。「ずっと会いたかった」と抱きつかれたので突き放してみた。しかし、実はこの老婆の正体は……

 病院の待合室は、窓から差し込む冷たい蛍光灯の光と、消毒液の匂いに満たされていた。腕の時計を見つめながら、俺はため息をつく。彼女が盲腸で入院し、経過観察が必要だと医者に言われてから、何か胸の奥がざわざわと落ち着かなかった。「面会はしばらくできません」と言われても、彼女の姿を確認しないことには気が休まらない。普段、強がりな彼女が病院のベッドに横たわる姿を思い浮かべると、気が気でなくなる。


 病棟の静まり返った廊下を忍び足で歩く。 時刻は夜の8時を回り、面会者の姿もほとんどない。遠くで救急車のサイレンが響くだけで、他には何の音も——。


「…………ようへい」


 妙に空気が張り詰め、背中がじんわりと汗ばんできた。


「……俺を呼んだか?」


 ふと、誰かが名前を呼んだような気がして立ち止まる。しかし、振り返ってもそこには誰もいない。再び歩き出そうとした瞬間、背後から低く、囁くような声が聞こえてきた。


「待っていた、ずっとずっと待っていた」


 耳元でそっと囁かれたようなその声に、ぞくりと鳥肌が立った。振り向くと、そこには信じがたい人物が立っていた。


 暗がりの中に、一人の老婆がいた。


 彼女は、ぼんやりとした廊下の光の中で浮かび上がるように立っている。深い皺に覆われた顔、白く乱れた髪、目の周りには何十年も積み重ねたような影が宿っている。しかし、その瞳には奇妙な光があり、俺をまっすぐに見つめていた。


「お前……誰だ?」


 気づけば、声が震えていた。老婆は微笑みを浮かべると、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 その足取りには何か目的を持った確信があり、俺を見失うことのない視線が射抜いてくる。


「ずっとずっと会いたかった、あなたに」


 その声には、狂気とも呼べる執念が込められていた。老婆は、まるで俺の問いを無視するかのように、両手を差し出してきた。次の瞬間、冷たい手が俺の腕を掴んで、鋭い痛みが走る。


「ちょ、ちょっと、待ってくれ!」


 老婆の指先は、まるで氷のように冷たかった。その異様な冷たさに本能的な恐怖が湧き上がり、俺は彼女の手を振り払おうとした。

 しかし、老婆の握りは驚くほど強く、どれだけ振りほどこうとしても離れない。


「愛しているのよ……あなたを」


 老婆は、俺の耳元で囁いた。その声は甘美でありながら、どこか暗く沈んでいる。


「離してくれ! 俺は、俺はお前のことを知らないんだ!」


 叫び声を上げ、全力で老婆の手を振り払った。老婆の冷たい手からようやく逃れ、息を荒らげて廊下を駆け抜ける。


「洋平洋平洋平洋平洋平洋平洋平洋平洋平」


 振り返ると、老婆は静かに立ち尽くし、ただこちらを見つめ続けている。その目には、異様な光が宿り、まるで俺の逃げ場を見透かすかのように不気味に輝いていた。


「なんなんだ、あの老婆は……」


 心臓が鼓動を打ち、耳鳴りがするほどだ。頭が混乱し、息を整えるために立ち止まると、病院の空気が急に薄暗く、異様に冷たく感じられる。ふと周りを見渡すと、いつの間にか病院の廊下ではない、見覚えのない場所に立っていることに気づいた。


◇◆◇◆◇◆


 どこかの細い路地のようだった。瓦屋根の古い家々が並び、砂利道が足元に続いている。周囲には低く頭を垂れた笹や枯れかけた雑草が風に揺れていた。見上げると、薄暗い空がどこまでも広がり、いつの間にか現代の病院の気配はどこにも感じられなくなっていた。


「……夢、なのか?」


 思わず呟いたが、この場所の静寂と冷えた空気はあまりにも現実的だった。自分の息遣いさえ、耳に響くほど静まり返っている。


 途方に暮れていると、遠くからぽつりぽつりと人の声が聞こえてきた。古い木製の玩具を持った子どもがふらふらと歩き、着物を着た老人が屋根の補修をしているのが見える。

 皆、疲れ切った表情を浮かべていて、何かに怯えているようにも見えた。周囲に目を配っていると、あるひとりの少女が視界に入った。


 彼女は黒く美しい髪を長く垂らし、淡い青色の着物を身にまとっていた。どこか儚げで、光を避けるように少し俯いている。その姿が視界に飛び込んできた瞬間、俺の足が自然と彼女に向かって動き出していた。


 近づくと、彼女は俺に気づいて顔を上げた。澄んだ湖のような瞳がこちらを見つめ、その表情はどこか驚きに満ちていた。


「……あなたも、ここに迷い込んでしまったの?」


 彼女の声は、小川がさらさらと流れるように優しかった。その声に、俺は一瞬、彼女が現実の存在なのか疑ったほどだった。しかし、彼女の瞳には確かな意思があり、その一瞬一瞬が、俺の中で現実として重なっていく。


「……そうみたいだ。ここは、一体どこなんだ?」


「ここは……私たちが生きるために隠れている場所。戦争から逃れるための、私たちの小さな世界」


 彼女の言葉に、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。戦争――。それが俺をここへ連れてきたのかもしれない。俺が口を開く前に、彼女は微笑んで手を差し出してくれた。その手は温かく、細く白い指が少し震えているように見えた。


「私の家に来るといいわ。あなた、一人でしょう?」


 俺は彼女の手を握りしめ、自然と頷いた。彼女と歩く道は静かで、夜の空気が冷たく澄んでいる。見上げると、どこか遠くに星が微かに瞬いていた。


 彼女の家は、古びた木造の小さな屋敷だった。どこかしっかりした佇まいがあり、かつては裕福な家柄だったことを感じさせる。しかし、家の中はほとんど家具もなく、質素な寝具と台所だけがあるだけで、寂しい雰囲気が漂っていた。


 彼女は黙って湯を沸かし、古い茶碗に注いで俺に差し出してくれた。その所作には、どこか上品な仕草が宿っていた。


「君は……もしかして、昔は裕福な家庭で育ったのか?」


 俺が問うと、彼女は少し驚いた表情を見せた後、ゆっくりと頷いた。


「……ええ。父は、この町で少し名のある資産家だったの。でも、戦争が始まってからは何もかもが変わってしまったわ」


 彼女は視線を落とし、静かに湯気の立つ茶碗を見つめた。その眼差しには、ただの過去を語るのではない、何か強い感情が宿っているように見えた。


「ごめん。聞きたくないことを聞いてしまったかもしれない」


「ううん、大丈夫。私は……むしろ、こうしてあなたと話せて嬉しいの。ずっと、誰かと話したかった」


 彼女の言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなった。戦時中の過酷な状況の中、彼女がどれだけの孤独を抱えてきたのかが痛いほど伝わってきた。そして、そんな彼女と出会ったことに、俺は奇妙な縁を感じずにはいられなかった。


「そうだ、名前を教えてもらってもいいかな?」


「……私は、桜子」


 桜子――その名前は、彼女の清らかさと儚さを感じさせ、まるで春に散る桜の花びらを思わせた。


「俺は……俺の名前は、洋平だ。桜子、よろしくな」


 彼女は小さく微笑んで頷いた。その微笑みが、桜の花のように儚く美しく、俺の心に深く刻まれた。


◇◆◇◆◇◆


 桜子と過ごす日々は、穏やかで、そしてどこか儚さが漂っていた。二人で朝早くから小さな畑を耕し、彼女が作った粗末な朝食を囲み、夜には星空を眺めながら言葉を交わす。そんなささやかな時間が、どれほど温かく、そして貴重であるかを俺はこの場所で初めて知った。


 桜子の動作には、どこかお嬢様らしい品の良さがあった。食事を運ぶ時の丁寧さや、ふとした瞬間に見せる上品な仕草は、彼女がもともと裕福な家庭で育った証拠だった。しかし、今の彼女は質素な衣服をまとい、冷たい畑土に手を触れながら、静かに生きている。


 ある夜、俺は桜子と二人で星空を見上げていた。広い空には無数の星が瞬き、まるで彼女の瞳のように透き通って輝いていた。


「戦争さえなければ、君はきっと今も幸せな暮らしをしていただろう」


 俺がぽつりと呟くと、桜子は少し驚いたように俺を見つめ、やがて静かに微笑んだ。


「……たしかに、何もかもが変わってしまったわ。戦争が始まるまでは、父と母と穏やかな毎日を過ごしていた。何不自由ない生活だったの。でも……」


 彼女は小さくため息をつき、星空を見上げた。


「でも、戦争が始まってから、私の世界は一変したわ。父は兵士として戦地に行き、母は病で亡くなって……私はただ、この家に一人残されたの」


 彼女の声は、風に流されるように静かで、どこか悲しみが滲んでいた。彼女がここで一人きりで過ごしてきた時間の重さを思うと、胸の奥が苦しくなる。


「……寂しかっただろうな」


「ええ。でも、今は……あなたがいるから」


 彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔は儚く、そしてどこか安らぎを与えてくれるような温かさがあった。俺は自然と手を伸ばし、彼女の手をそっと握った。

 その瞬間、彼女の手がかすかに震えたのがわかったが、彼女は握り返してくれた。


「俺も……君がいてくれて、本当に嬉しい」


 その言葉を口にした瞬間、自分がどれだけ彼女のことを想っているかが、はっきりと分かった。戦争という残酷な現実の中で、彼女が俺の支えであり、希望であることを。


 それからの日々、俺たちはまるで家族のように過ごした。彼女は俺に様々な昔話を語り、俺は彼女に現代の話を少しずつ教えた。彼女の純粋な瞳が驚きや喜びで輝くのを見るたびに、俺はここでの生活が奇跡のように感じられた。


 しかし、平穏な日々も長くは続かなかった。


◇◆◇◆◇◆


 数週間が過ぎたある日、村の様子が一変した。戦況が悪化し、各地で兵士が不足しているという知らせが町に流れ、緊張感が漂い始めた。日常の会話の端々に「徴兵」「出征」といった言葉が混じるようになり、桜子の顔にも不安の色が浮かんでいた。


 そしてある日、俺の元にも「赤紙」が届いた。戦場に立つことが運命づけられた一枚の紙。その紙切れが、俺と桜子に迫る残酷な現実を突きつけてきた。


 俺がその赤紙を見つめていると、桜子がそっと肩に手を置いてくれた。その手は冷たく、かすかに震えている。


「行かないで……と言えないことが悔しいわ。でも……」


 彼女は涙をこらえるように、強く唇を噛んでいた。その姿が、胸に突き刺さるように痛かった。彼女は何もかも失い、今また自分の大切な人を失うかもしれない恐怖に怯えているのだろう。


「君のために、俺は戦ってくる。必ず戻ってくるから」


 そう告げた俺の声は震えていたが、それでも彼女に強く誓った。桜子は静かに頷き、涙を浮かべながら微笑んだ。


「……私は、待っているわ。どれだけ時間がかかっても、あなたが戻ってくるのを信じて」


 その晩、俺たちは最後の夜を過ごした。彼女と寄り添いながら、俺は彼女の手の温もりを感じ、二人で見上げた星空を胸に刻んだ。

 別れの朝が来たとき、俺は彼女の姿を心に焼き付け、後ろ髪を引かれる想いで戦場へと向かった。


◇◆◇◆◇◆


 戦闘機のコクピットに座り、操縦桿を握りしめる。空の広がりと共に、冷たい風が機体の隙間から入り込んでくる。桜子との別れの瞬間を思い出し、胸の中に小さな炎が灯る。


「必ず……必ず帰るんだ」


 桜子に誓った言葉を噛みしめながら、操縦桿を握る手に力を込めた。視界の先には、青く広がる空がどこまでも続いている。戦場の音が、耳を突き刺すように響き渡る。俺は再び思い出す。彼女と見上げた星空、静かな夜の語らい、微笑み合ったあの瞬間たちを。


 しかし、現実は無情だった。仲間が次々と撃墜され、青空に黒い煙が立ち込めていく。

 まるで命の灯火が、風に吹き消されるかのように、機体が次々と墜落していく。


「くそっ……!」


 俺は必死に敵機をかわしながら、操縦桿を握りしめ、敵機の数を減らしていく。しかし、次第に弾薬も底を突き、逃げ場もなくなっていくのがわかった。敵機の一斉射撃が俺を襲い、激しい衝撃が機体を揺さぶる。


「やられるか……」


 被弾した機体が操縦不能になり、コクピットの窓越しに青い空がどこまでも広がっているのが見えた。俺は桜子との日々が走馬灯のように駆け巡るのを感じ、目を閉じた。最後に脳裏に浮かんだのは、あの夜、彼女が涙ながらに「帰ってきて」と言った姿だった。


「……ごめん、桜子」


 静かに呟き、意識が遠のいていく。体の感覚が次第に消えていく中、俺は桜子の声を、どこか遠くで聞いたような気がした。


◇◆◇◆◇◆


 目を開けると、見慣れた病院の天井が見えた。戦場の音も、機体の冷たさも、もう感じられない。ただ淡い蛍光灯の光が静かに揺らめき、消毒液の匂いが漂っている。


「ここは……」


 夢だったのか?

 あの戦争、桜子との日々はすべて夢だったのか。だが、心の奥に残る彼女との思い出は、あまりにも鮮明で消えることがない。

 俺はまだ混乱したまま、ゆっくりと身体を起こした。


 ふと廊下に視線をやると、そこにはあの老婆が立っていた。


 彼女は静かに、じっとこちらを見つめている。以前のような不気味さは消え、代わりに柔らかな笑みを浮かべていた。その微笑みには、長い年月を超えた思いが込められているようだった。


「……おかえりなさい」


 老婆は、静かにそう言った。その声は、まるで桜子が語りかけているかのように優しかった。俺はふらふらと立ち上がり、彼女の元へと歩み寄った。


「君は……桜子、なのか?」


 老婆は小さく頷き、目を潤ませた。彼女の表情に、あの若い桜子の面影が浮かび上がって見えた。


「私は……ずっと待っていたの。あなたが帰ってくるのを」


 その言葉に、俺は胸が締めつけられるような思いが込み上げた。彼女は、俺がこの時代に戻ってくるのを信じて待ち続けていたのだ。どれだけの時が経とうと、俺への愛を胸に抱き続け、再会の時を待っていたのだ。


「……君に、戻ってくると約束したのに、俺は……」


 彼女は微笑み、首を小さく横に振った。


「いいの。あなたがこうして帰ってきてくれた。それだけで、私は幸せなの」


 彼女の言葉に、俺はただ涙がこみ上げるのを感じた。彼女の長い年月にわたる想いが、静かに、しかし確かに伝わってくる。

 その想いが、どれほど深く、強いものであったのかを思うと、言葉にならない感情が込み上げてくる。


「おかえりなさい、洋平さん」


 彼女がそう言った瞬間、俺の心に永遠の安らぎが訪れた。どれだけ時が流れても変わらなかった彼女の愛に、俺もまた応えるために、彼女の手をそっと握りしめた。


「……ただいま、桜子」


 老婆の瞳が静かに潤み、彼女は満足そうに微笑んだ。その微笑みは、時を超えた愛がようやく報われた瞬間だった。


【完結】


————————————————————


 主人公が帰ってくる。

 そう信じて誰とも結婚せずに、ずっと待ち続けた老婆の気持ちを考えると……。

 もう、本当に涙が出てきちゃうんだよね。


 老婆は——。

 見た目は変わってしまったけれど。

 中身は昔と変わらず、あの頃のままの美しさを兼ね揃えたヤンデレメンヘラな点がいい。

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