二章プロローグNo.4 「炎神」
七年前 人海病院
炎神を目指す天使レオンハートは、この日天界から無理やり下界に落とされた。
その結果、彼は現在病院の中庭に植えられた木の枝に引っ掛かっている。
「……何してるの?」
無様な体勢のレオに話しかけたのは、一人の小さな少女。
丁度レオと同じくらいの年齢に思われる。
「いや……落ちてきたっつーか……落とされたっつーか……」
「助けてやろうか?」
「……いや、いい」
拒否したのは自分で降りることが出来るからでもあるが、そもそもその少女には自分を降ろせるようには見えなかった。
その少女は──車椅子に乗っていたのだ。
「どこから落ちたら木に引っ掛かるの?」
木から降りたレオとその少女は、病院の中庭を歩いていた。
少女はこの病院の患者らしく、今は彼女の病室に向かおうとしていたのだ。
「天界だ。俺は天使。師匠に落とされて木に引っ掛かった。まだ翼を上手く扱えねぇんだ」
「……何言ってんの?」
少女は苦笑いしながらそう言った。
「ああ、師匠ってのは炎神で……炎の神だ。分かるか?」
「分かるかい」
「修行の途中で落とされたんだ。ホントどうかしてるぜアイツ……」
「どうかしてるのは君もだよ」
「……いいぜ、別に信じなくても。信じてほしいわけでもねぇし」
「じゃあ信じよう。まあ……どうでもいいしね」
「あぁ?」
*
人海病院 二〇一病室
少女は自分のベッドに横たわる。
「お前……大丈夫なのか? その身体……」
「大丈夫じゃないよ」
「は?」
「というかさ、見て分かんない? 私の顔とか」
「顔? 別に……何も。どういうこった?」
「冗談でしょ」
「あぁ? どういう意味だよ」
「……」
少女の左半身は、酷い火傷の痕で塗れていた。
レオはそれを生まれつきある物だと勘違いしたのだが、いずれにしろ彼はそんなところを気にしないだろう。
「……私、治らない病気なの。前の病院で……もうすぐで治せるかもってとこで、火事が起きてさ。巻き込まれてこんな感じ」
「!」
そこで初めてレオは彼女の痣が火傷痕だと気付く。
「なんか、衰弱? 悪化? してね。多分一生……病院生活なんだわ」
「……」
軽い口調で放たれる重い事情に、レオは言葉を失ってしまう。
その時、部屋の外から小さな足音が聞こえてくる。
「あ、ヤバい。先生来るかも。隠れて」
「……こうすりゃ見えない」
レオは光輪と光翼を出現させる。
そうすることで人間には認識できなくなる。
「……消えたし」
レオが姿を消して、入れ替わりに少女の担当医が入ってくる。
少ない白髪を生やした高年の男性だ。
「……また勝手に出歩いていたね。海(み)香美(かみ)ちゃん」
「いいじゃないですか別に。どうせ……助からないなら」
「海香美ちゃん」
「何ですか? ああ、気休め? 馬鹿馬鹿しい」
「気休めじゃないよ。海香美ちゃん自身が気を強く持てば、結果は良い方向に──」
「パパとママが言ってるの、聞こえたよ。『どうしたってお金が足りない』……って」
「……それは……」
「先生、マジな話さ、私がいなければ二人も困らないわけよ。まあでも……先生は仕事だからね。精々頑張るといいよ。無駄な努力を延々と」
「海香美ちゃん。君は……」
「いや、医者ならもっと困ってる人のために頑張るべきかも。こうして私なんかに時間を掛けている間に……救える命はあるんじゃないですか?」
「……君もその一人だよ」
「……」
少女は完全に目を逸らしたまま俯いてしまった。
それから二人の会話が続くことはなかった。
担当医が出ていくと、レオはまた姿を現した。
「あ。出てきた」
「……聞いちゃまずい話だったか」
「別に。ってかホントに天使なんだね。少なくとも人間でないことは間違いない」
「……お前、ホントに死ぬのか?」
「いや死ぬとは言ってないよ。ただ、まあ……これから先何の希望もない人生が待ってるのは、確か、かな」
「……」
「何? 天使君。同情してる?」
「……いや、別に……」
言葉ではそう言っても、態度から彼の同情は見て取れた。
しかし残念ながら彼にはどうすることも出来ない。
だからこそ励ますようなことも言えなかったのだ。
『こんなところにいたか。レオ』
静かになっていた病室に、突如として一体の怪人が現れる。
男の姿のようではあるが、全身が発火していて、炎で隠れた顔を見ることは出来ない。
だが、熱はなく、周囲にその火が燃え移ることもなかった。
「し、師匠……!?」
「? どうかした? 天使君」
残念ながら少女には何も見えていない。
『帰るぞ』
「あ、アンタなぁ……俺のこと落としといて何も無しかよ!」
『悪かった』
「雑かよ!」
少女からすれば今のレオは独り言を呟いているようにしか見えない。
ただ、察しの良い彼女は、レオが自分の知り得ない存在と会話をしているのだと理解した。
「迎えが来たの? 天使君」
「え? あ、ああ……それは……」
『誰だ? 知り合いか?』
「いや、そもそも名前すら知らねぇっていうか……」
「ミカミ。
「……!」
それがまるで最期の言葉のように聞こえ、レオは自分でも分からないうちに焦りを見せていた。
だがやはり、絞り出す言葉は持ち合わせていない。
『行くぞ。レオ』
レオの師匠──炎神アグニクスは、何も知らず踵を返そうとする。
仕方なくレオもミカミに背を向けざるを得なくなるが──
「ちょっと待って」
「……あ?」
それまでのミカミはずっと冷めた目をしていた。
だが、振り返ったレオが見た彼女の瞳は、確かに縋るような視線を作っていた。
「……ねぇ、天使君。貴方は……天使なんだよね?」
「あ、ああ。それは……そうだが」
「天使なら、人間の私を救ってくれないの?」
「……ッ。そ、それは……」
「……意地悪なこと言ってごめん。じゃあせめて、私に希望を持たせてよ」
「希望……?」
ミカミは小さく頷いた。
「そう。私に生きる希望を与えてほしい」
「ど、どうしろってんだ」
「……また会おうよ。それだけでいい。私、学校行ったことなくて、友達いないから。誰でもいいから、また会おうって言ってくれたら……それが生きる意味になるかもしれない」
ミカミはもう全てを諦めたかのように悲しげに笑みを浮かべた。
レオからの返答も期待していないということだ。
だが、だからこそレオの返事は決まっていた。
「……ああ。ああ、分かった! また会おうぜ。いや、必ず……会いに来てやるよ。約束だ」
「……私、人と約束するの初めて」
「俺は人じゃねぇがな」
「そうだった」
二人は小さく笑った。外の風の音と変わらない小さな声で。
そして、レオはこの日のほんの数分程度の出来事を、決して忘れることはなかった。
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