ようこそ無知なる少女よ
多くの人間にとって不快であろう、煙草の臭いが染みつき籠もった部屋。
その中心に布団を敷き、既に上がった春の日差しに照りつけられながらも、
「むふ~」
まるで起きる気がせず、このまま行けば日が落ちてもまだ寝ていそうな
そんな彼女を現実が咎めるかのように、突如ベルの音が室内へと鳴り響いた。
「あとごふ~ん……」
だが
このままいけば訪れてくれた人もいないと察して帰るだろう。──ただしそれが宅配便など、ごく一般的な訪問であった場合の話だが。
ピンポーン。ピンポーン。……ピンポピンポピンポピピピピピピ──!!
「るっせえなぁ!! だぁれだぶち殺すぞ!! 出るからちょっと待ってろ!!」
怒濤の連打に
怒り心頭の頭。ただでさえ普通より音がでかい呼出ベルだというのに、こうも連発されちゃたまったもんじゃない。
宅配便だったら殺す。隣か下だったらやっぱり殺す。借金取りだったら特に殺す、というかまだ借金はないから問答無用で血祭りだ。
最悪の寝起きのまま、
何だかんだ言ったが、裡に来る物好きなんざ私の人生に対するクレーマーか管理人の可能性が高いんだ。前者ならともかく、後者を一服して待たせるのは流石に後が怖かったらしい。
「どこのどいつだまったく……!! 隣のぼけヤクザだったら許さねえぞごら……!!」
だが扉の前にいて、綺麗な姿勢で頭を頭を下げてきたのは管理人でも隣のヤクザ風でもなく。
若さの象徴たる制服を着こなした、こんな小汚い場所など似合わない黒髪の少女であった。
背丈、身なり、佇まい。その他諸々から察するに、凡そ高校生……いや、中学生くらいか。
一体何の用だ。さては訪問場所を隣と間違えてない……ねえか、ヤクザ風だし。
「おはようございます、お姉さん。突然押しかけてすみません。こちら手土産です」
「……あっ? あ、ああどうも……はい」
頭を上げ、丁寧な口調の挨拶と共に差し出されたのは、これまたお上品な紙袋。
見下しつつ眺めていた
「あー悪い。誰だお前……?」
「……酷いですね。あんな雑に袖にしておいて」
「えっ、え?」
まあ思いつかないものはどうしようもないと、とりあえずは尋ねてみた
それを聞いた少女は、少し声の色を落とし、空いた両手を目に当ててしまう。
そんな少女の態度に、
やばい、泣かれる。それだけはマジでやばい。
玄関先でガキを泣かせたとか醜聞極まりない。ただでさえ無職と騒音で最悪なご近所からの評判が更に下落してしまう。最悪立ち退きまで待ったなしじゃねえか!?
「ま、待てっ! あーそうだ、茶でも入れてやるから! とりあえず中に入れ! なっ?」
「本当ですか? ありがとうございます。ではお邪魔します」
とりあえず一旦その場を凌ごうと、適当なことを口走ってしまった
だがそれを聞き、けろっとした顔で少女は
そこで初めて
「……くっさ、たばこの臭いで鼻が曲がりそうです。おまけに死ぬほど汚いです。その上そんな格好じゃ、うちだったらご飯抜きになりますよ?」
「あー見んな見んな! 余所は余所だしガキ招くような部屋じゃねえんだ! そこらに座って待ってろ!」
鼻を摘まんで苦言を呈する少女に多少声を張りながら、
そして壁に立て掛けられていた、いつ買ったかも定かではないボロさのミニテーブルを展開し、窓を開けてから簡素なキッチンでお湯を沸かし始める。
ああくそっ、何だってこんな小娘に私の諸々にけちつけられなくちゃならない。
昨日といい、最近はどうにもついてねぇ。別に厄年でもねえってのによ。
ああやばいヤニ摂りたい。そういやお茶っ葉なんてこの家にあったっけ。ああ、ヤニ吸いたいぃ。
後は適当なコップにお湯を注ぎ、どうにかそれらしく整えてはい完成。
そんな感じで一段落し、そして
あちらを立てればこちらが立たずと、梅干しを頬張ったみたいな顔になってしまう
だが苦悩の末、貰った紙袋を思いだしたので中を確認すると、そこには見事な包装の箱が。
……羊羹か。それも結構高い、私も聞いたことある気がするやつ。
ま、茶のグレードには合わねえがこれでいいか。というかこれ以外人様に出せるもんがねえ。
どうせ受け取ってしまった物ではあるが、この場においては仕方ないと。
日頃菓子を食べない自分を恨みつつ、適当な盆に載せて、座した少女の向かいに腰を下ろした。
「ありがとうございます。いただいてもよろしいですか?」
「……ああ、お好きに。茶はともかく、お前から貰った菓子だしな」
人形のようにちょこんと座りながら、湯飲みを持ち上げ茶を啜る少女。
その所作からさぞ教育が行き届いているのだろうと、この部屋と自分の不釣り合い感をしみじみと実感しながら自分もコップを手に取り、乾いた唇へと寄せる。
「あー染みるぅ。……それで、思わず部屋に入れちまったがお前は誰なんだ?」
「……思い出してくれないんですね。寂しいです」
改めて尋ねた
けれど、そんな反応をされようが
「……分かりました。ならばこうすれば、思い出してくれますか?」
とりあえずは謝ろうとしたが、それより早く少女は横に置いた鞄を手を入れ、それから立ち上がる。
手に握られているのは古く、けれども手入れの行き届いた黒縁の手鏡だった。
「なにを──」
「
刹那、
少女から光は溢れ、室内へと眩く発された後、現出した魔力と共に彼女の姿は一変する。
服は制服から青を基調としたドレスへと。そしてそれに沿うように黒髪もまた深い空のような青色へ。
そこまで来て、ようやく
先ほどまでの億劫さが嘘のように、まるで氷の心と思わせるほど冷静に。
彼女は無垢な少女でも忘れていた知己でも何でもなく、招かれざる
「……魔法少女、ああなるほど。お前、さては昨日のガキか」
「思い出してくれて何よりです。……ふうっ」
「改めまして、私の名はゆ──」
「待った。魔法少女が安易に実名を晒すな。名乗るなら
「……そうなんですね。今知りました、ありがとうございます」
思わず制止する
その事実に
魔法少女は
だというのに、目の前の少女は平然とそれを破ろうとした。そしてあろうことか、それを知ってすらいないような素振りをした。
つまりそれは、彼女が何も知らない魔法少女だということ。
そして何一つ準備もせず、何も知らず。素性も分からぬ魔法少女の正体を暴き、あろうことかそいつの家へと押しかける暴挙を犯し、私が魔法少女であると疑いもしない。
ここから導き出される結論は二つ。そして少女の態度を鑑みるに、恐らくは──。
「……お前名前は? いつ魔法少女になった?」
「名前は……ないです。なったのは昨日です。あの変な人に襲われて、それからすぐにポンってなりました」
そして少女は
なるほど、
ほとんど魔法少女の
……これも巡りってやつかよ。だとしたら、つくづく運命ってやつは気にくわねえ。
こういうのはギアルナの、あのくそぼけ世話焼きが担当するべき案件だろうによ。
「なるほどな。……で、力に目覚めた魔法少女様。お前一体、私に何をお求めなんだ?」
「鍛えてください。私を、強くしてくださ──」
「やなこった。むしろお前、魔法少女辞めろ」
少女の願いが紡ぎ終わるよりも早く、
少女は「えっ」と瞳を揺らし、思ってもいなかった言葉と狼狽してしまう。
けれど
「お前にゃ向いてねえ。さ、用件は終わったな? んじゃ帰れ、んで二度と面見せんな」
「……嫌です。お願いします。鍛えてください」
「分からねえ奴だな。あの程度の敵に勝てねえなら、命がいくつあっても犬死で終わるだろうよ。虫ほどの才能すらねえから、分不相応な力なんて忘れちまえ」
嗚呼、何て大人げなく最悪な大人だろう。元々だが、地獄にしか行けねえだろうな。
けれど駄目だ。ここは曲げちゃならない。目の前の少女は、魔法少女になるべきではない。
才能がない? 犬死にで終わる? 分不相応な力?
まったくもって笑わせてくれる。自分が自分で嫌になる。
もう少しマシな嘘だって吐けただろうに。そんな時代遅れな、
「さあ分かったな? 分かったならとっとと帰りな……あぁ?」
これで話は終わりだと、沈む少女に
だがそんな
「お願いします。私を強くしてください……。私に意味をください……!」
少女の必死の懇願。その声は平坦で、震えて、か細く、弱々しい波声で、それでも尚確りと。
昨日を生き残れたのは私がいたからで、それは奇跡であって偶然でしかない。
あの界隈の今についてはよく知らないが、それでも私がいなければ、昔であれば間違いなく死んでいたのがこの少女なのだから。
──けれど同時に、確かに何かが脳裏を過ってしまう。
汚い部屋だと嫌な顔をした床に頭をつけ、なりふり構わず頼み込んでくる必死さ。
それは
「……なあ、どうしてそこまで固執する? 意味や意義なんざ修羅場に求めるもんじゃない。魔法少女と言えば聞こえは良いが、実際は血生臭くて欲塗れな世界でしかねえ。私が言うのも何だが、その道は地獄でしかねえんだぞ?」
「……それでも、私は欲しいんです。私が私であっていい、私だけの存在理由が」
嗚呼、駄目だ。声だけで理解してしまう。
やはりこの
こいつは放置してはいけない。きっと私が断ったところで、こいつは構わず挑み続ける。そしてそう遠くない未来で必ず死ぬ。旧世代の魔法少女というのは、得てしてそんな頑固者だらけだったから分かってしまう。
きっと、私が関与できるのはここだけ。この瞬間の選択だけが、私と少女を繋ぐことが出来るただ一瞬。
ここで断ればそれで終わり。以後は余計な手出しでしかなく、自分に何一つとして進言する権利はなくなるだろう。
『任せたよ、ベル。私のように、手の届く範囲でもさ』
受け入れるか見捨てるか。
極端な選択を強いられた今に歯噛みする最中、不意に思い出してしまったのは昔の一幕。
遠いかつての、魔法少女のくせに、その姿のままの喫煙姿がどうにも様になっていたあの人の言葉。
もういないはずのあの人が、死人のくせに記憶の中からしてくる後押し。それが
……ほんと、厄介なこと言い残していきやがったよ。あんたは。
放置で良いってのに。所詮は他人事。知りもしない小娘の命なんて、私には無縁だというのにな。
ああでも、あんたもこんな風に私の手を伸ばしてくれたのかな。
「顔を上げろ。ったく、これだからクソガキは。今も昔も頑固でしかねえ」
「……帰りません。私は絶対──」
「ああそうだろうな! まったく! これだから魔法少女ってのは! 異常者の集まりめ!」
その目に映るのは、不安そうに怯える少女。それは
……ったく、自分から来ておいてそんな顔してんじゃねえよ。クソガキが。
「良いぜ、そこまで言うなら教えてやる。ただし私の教えは時代遅れ。絵面最悪のパワハラ上司だが、それでも泣き言吐いても変えたりはしねえ。……それでも教えを乞いたいって?」
「お願いします……!! あ、ありがとうございます……!!」
少女は悲痛に染まった顔のまま、けれども噛み締めるように頷いてくる。
そんな少女の顔を見て、
ああ、やっちまった。んな安請け合いしちまって、もう後には退けねえんだぞ?
それにしても。まさか私が、魔法少女ベルが
「私は魔法少女……ベル。常時はお姉さんと、変身時はベルと呼べ」
「は、はい……!!
「だから名前……まあいい。よろしくな、
柔く透き通るような白い手。触れれば割れそうな、器のような儚き少女。
これが今から私の背負う、名すらない未熟の重み。随分と久しぶりに感じる、他者との繋がり。
……ま、仕方ない。精々努力するさ。あんたみたいに行かずとも、私のやれる限りでな。
「……ところでなんだけど
「昨日あとを
「ええ……」
少女──
薄々察してはいたが、実はとんでもなく厄介な拾い物をしてしまったのだろうと。
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