第2話 回想・茂樹とアポ

 寝て、起きては、マッチングアプリの操作の繰り返しだった。外出は精神科と失業状態認定のためのハローワーク通いだけで、私はずっと家にいた。読書をしようにも統合失調症の認知機能障害で集中力が落ちており、一冊読み切ることができない。服薬でアカシジアという体を落ち着けることのできない副作用も出ており、椅子に座っているのも苦痛だった。急性期を迎える前に好きだったアーティストの曲を聴くと、頭痛がして脳裏に星屑が弾けた。聴き続けるのは、まずいようだった。自然と私の行動は、ベッドに横になり、スマホをいじることだけになる。マッチングアプリとあとは各種SNSが私の世界になりつつあった。LINEオープンチャットの統合失調症患者のコミュニティでは、まだ陽性症状のある人が、「集団ストーカーが庭にいたずらをしていきました」「助けてください、小人が睾丸を潰そうとしてくるんです」などと訴え、混沌としていた。統合失調症に効くサプリなど、医師が勧めているわけでもない民間療法でしかないものを他の患者に勧める人もいた。そんなサプリが効くと思っているのか。ホームセンターで数百円で買える釘が、思考伝播を防ぐという宣伝文をつけるだけで一万円ほどで売れるのは、統合失調症患者が本気で思考伝播に悩んで見境がなくなっているせいだ。だが急性期の頭がチカチカする時期を抜けても、たいした責任能力のないブロガーの発信を鵜呑みにしてサプリを買う人がいることに、抱いてはいけないはずの、差別の気持ちが湧いた。私はどこか飲み込めない異物感を覚えながらも、コミュニティの投稿を見ていた。コミュニティに所属していても浮上しない人もいるが、浮上している人の大半は、統合失調症になったことを嘆き、日常生活を送るのに苦しんでいるという投稿をしていた。私はたしかにこんな寝たきりの生活は不健全だとわかっていたけれど、なにかひとつ自分の現状の不満をネットに吐き出せば、巨大な黒い渦に巻き込まれてしまう気がして、自分に関する投稿はしていなかった。他人が飲んでいるサプリに突っ込むのはやめたが、服薬を独断でやめると宣言した人には、「再発しちゃいますよ。独断でやめるのはまずいです」とリプライをした。この投稿には断薬せずに服薬し治療を継続するように促すリプライがたくさんついていた。統合失調症は服薬をやめると一年後に七十%の人が再発するといわれている。断薬したい気持ちには同調できるが、正気を保てる三十%――母数が断薬者な時点でだいぶ少ないであろう三十%――に賭ける時点で、理性的とはいえない。再発すると、以前迎えた急性期よりも、症状がひどくなると統合失調症を解説した本には書かれてあった。不治の病というほど深刻に命に関わる病気ではないが、それでも確実に日常生活を蝕んでくる病気であることは確かだった。幸いにして、私は症状が軽い。統合失調症と診断された際に入院させられてしまう人もいるようだが、私はそんなこともなかった。服薬さえしていれば、これ以上、日常が崩壊していくことはないはずで、だから、きっと、伴侶を、家庭を持てる。

 SNSで精神疾患を持っているがゆえに結婚相手が見つからず、結婚できないと嘆いている男性の投稿が目に付くようになった。以前からそういう投稿はあったのだろうが、結婚を気にしていない今の今まで、まったく気にならなかった。男性に精神疾患があると結婚できない不能者とみなされるのに、女性に精神疾患があっても許される風潮が、SNSでは取沙汰されていた。騙すつもりは一切ないが、私はプロフィールに一切病気のことは書いていなかった。会ってから、告白しようと考えていた。それはたしかに卑怯な戦法かもしれないが、女性であること自体は卑怯なことだとは思わなかったため、SNSの論争には興味が持てなかった。


 シゲ:紗季さんとぜひ会ってみたいです。カフェでお茶でもしませんか?

 Saki:冬は出歩くには寒いです。春になったら会いましょう。


 その男性に直接会ったのは、退職してからマッチングアプリを始めて一年が過ぎたころ春の季節だった。三ヶ月前からチャットを続けている男性だ。読書が好きらしく、私は認知機能障害に悩まされる前は読書をしていたものだから話があった。とはいっても、私は映画原作の本を読んで、実際に放映されたものと見比べるのが好きなだけで、彼のように読書が好きなわけではなかったが、そこは彼の読書している本の種類の幅の広さで話題をカバーしてもらった。

 冬の季節はなおさらベッドから動くのがつらく、十四時間よりも寝ている時間が長い日が多かったため、直接会おうと誘われても断り続けていた。ようやく桜の開花宣言が出てから、会うことに決めた。服薬で太ってしまう人も多いようだが、私はロクにご飯も食べずに寝ているので痩せてしまった。持っている服ではどうも見栄えが悪く、一年着ていない服は古ぼけて見えた。母に「服を買いに行きたい」と相談すると、私の外出を喜んで、お小遣いをくれた。過去マッチングアプリを始めた際の、私の両親への予想は当たっていたらしい。

 めずらしく実家に美香が帰ってきているようだったので、美香を誘って出かけることにした。美香は遠距離恋愛を実らせて結婚し、いまは北海道の美容室で働いている。美香の実家まで、車を運転して迎えにいくと、美香はお土産をくれた。

「もう紗季、ぜんぜん連絡ないからどうしているのかと思ったよ。仕事やめちゃったんだってね、Instagramで見たよ。失恋とかと関係あるの?」

 統合失調症と診断された際に、「失恋した」とInstagramに投稿していた。それきり更新は一切していない。投稿する気力がわかなかった。

「じつは私、統合失調症になっちゃって。その失恋がどうとかも全部妄想なんだよね」なんて言ったら、どう反応されるか想像すると怖い。職場での経験を私は忘れていなかった。美香は高校生からの友達で浅からぬ縁ではあるが、それでも、離れていく可能性を考えてしまう。

「今度話すね。いまその失恋を忘れるためにマッチングアプリやってるんだ。今日買い物に行くのも、そのマッチングアプリで、アポするための服を買いに行くの」

 美香は楽しそうに笑った。美香のショートカットの黒髪から覗く両耳には、シルバーのピアスがたくさんついている。ヘリックス、アンテナヘリックス、インダストリアル、スナッグなど。ピアスを隙間なくあけすぎて、シルバーの玉がぶつぶつと耳から生えているようにも見えて奇妙だ。美香は高校生のときには唇にピアスをあけていたし、わざわざ確認はしなかったがへそにピアスもあけているようだった。私は誰に強制されるわけでもないが、ピアスをあけたことがない。ピアスをあけてそれを維持する行為というのは、なりたい自分になる努力として私には思えて、いまの私には美香のそういうところが眩しくみえた。いま意識しただけで、ほんとうは美香の行動力を羨む気持ちは知り合った当初からあったのかもしれない。私は自分からはなにもしないまま、統合失調症を発症させて、また停滞のなかにいる。

 母から貰ったお小遣いで、美香に勧められるまま女性らしい華やかな色合いの服を購入した。

「頑張ってこいよー」

 美香は帰り際、そう言ってくれた。


 シゲ:待ち合わせは駅の前にしましょう。

 Saki:十三時ですね。わかりました。


 シゲ:着きました。

 Saki:こちらも同じく、着きました。


 今日の私は綺麗だと母が太鼓判を押してくれた。春らしい薄い緑色のフェミニンなワンピース。こういう恰好は、あまり慣れない。しきりに髪を触りながら、声をかけられるのを待つ。偉そうにしたいわけではなくて、緊張で彼を探す余裕がなく、突っ立っていることしかできなかっただけだ。

「紗季さん、ですか」

 予想外に高い声だった。

「……はい、そうです」

 不愛想に見えないように気を遣いながら答えた。

「はじめまして、というのも変ですが、茂樹です。今日はよろしくお願いします」

「紗季です。よろしくお願いします」

 茂樹はスーツ姿だった。公務員で市役所に勤めており、今日は半休をとったとのことだった。駅からほど近い、食べログで星4の店へ移動した。

「じつはごはんを食べていなくて。ここでいただいてもいいですか?」

「全然かまいませんよ。どうぞ」

 昼を少し外した店内は、それでも主婦や春休みの学生などでまだ混雑していた。カフェにはハンバーグなどのメニューもあった。茂樹はビーフシチューを注文した。カフェのメニューの中では、高いほうのものだった。茂樹はクリームソーダを追加注文し、私もコーヒーを頼んだ。

「昼間はだいぶ暖かくなりましたね。今日も晴れていてよかったです。ところで、以前から気になっていたのですが、紗季さんはなんのお仕事をされているのですか? ログイン時間もバラバラだし見当がつかなくて」

 マッチングアプリにはログイン時間を表示させる機能がある。

 いままで茂樹が仕事について訊ねてきたときは、「秘密です」あるいは「直接会ったらお話します」とはぐらかしてきた。当然の質問だった。

「じつは私はいまは失業中なんです」

「ほう、コロナですか?」

「いえ、コロナは関係なくて、病気を発症してしまいまして。あ、感染するようなものではないのでその心配はいりません」

 茂樹の顔色はとくに変わらなかった。

「なんのご病気ですか」

「統合失調症です」

「そうなんですか。統合失調症という病名は聞いたことがありますが、詳しくは知りません。どういう病気なんですか?」

 私は少し言葉に詰まりながら、説明した。

「大変なご病気なんですね」

 茂樹の感想はそれだけだった。そこには嘘を言っている雰囲気もなく、同情の空気も特になかった。

「会ったことを後悔していますか? 病気だと知っていれば会いませんでしたか?」

「いえ、そんなことはありません。後悔していませんよ。紗季さんはとても可愛らしい女性です。会えて嬉しいです。ぜひ次も会いたいです」

 私は心の中の氷が融けていく気がした。春の強めの陽射しがテーブルに反射して、目がちかちかした。私は断ってブラインドを下した。ビーフシチューの食欲をそそる良い匂いがあたりに漂っていた。

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