#4「いらっしゃい。おひめさま」
嫌なことはぜんぶ、こころの中に閉まってきた。
それで済むから。
私だけが、傷つけばいいから。
それでいいでしょ?
「それじゃだめですよ」
「え?」
ハケンのあいつが来てからというもの。毎朝出社するのが楽しみになった。
ほんとうに単純な心理だとは思う。
だけど、こういう単純な気持ちが、はじまりなんじゃないかって期待してる自分が居る。ユキはオフィスの休憩室で、ハケンの冬也を見つめ返した。
「あの、なにがだめなの?」
「コーヒーにはシュガーですよ。なんでシロップいれてるんすか」
ユキは真っ赤になって、シロップを飲み、げほげほとせき込みながら、すいません、と声をからして、シュガーを入れなおした。
「あの、いや、ぷっはは」
「え?」
「だれもシロップ飲めなんて言ってないし。ほんとになんか、昔から変わんないんだね」
「え、あ」
おそらく頭がどうかしていた。どうすればよいか分からなくて、頭が混乱する。特にこの男の前だと。
「お疲れ様です。じゃまた」
ハケンは少し早く帰れるらしい。久しぶりに再会したっていうのに。
その物足りなさも、何かこいつの罠かもしれないけど。
「ちょ、ちょっと待って」
「ん?」
高身長のくせに、ふらふら余裕ぶいた身なり。どこかその余裕さをずっと見ていたい自分が居る。
「あの、覚えてる?」
「なにを」
「なにをって…いろんなこと」
「あー。まあ。ぼちぼち」
軽い適当な返事。ユキはヒュッと首の奥が居たくなった。
「もっと覚えててくれるって思ってたんだけどなーって」
舌を噛みたい。まあ、少しでも気にしてほしかった。
「すいません、用事あって。いきますね」
冬也がポケットからスマホを取り出すと、するりとスマホが床に落ちた。
「あ、落ち…」
たまたまロック画面が見えてしまって、胸の奥がすっからかんになった。
ショートで、かわいい、おんなのこ。
おそらく。
「すいません。また」
彼女、だろう。
同僚に朝まで付き合ってもらおうと思ったけれども、そんなこと余計にショックだろう。しかしまあ。ロック画面を彼女にするなんて。ほんとうに愛されてるなと、ユキは謎の劣等感を感じた。
夜道を歩いていると、そよかぜが吹いた。
近くの公園のブランコが弱く揺れている。
よく遊んだんだけどな。
冬也との思い出など、もうどうでもよくなってきた気がする。
ブランコにすわって、なんとなく足をふらふらさせてみる。
途方もない。なんだこの劣等感は。
彼氏は居る。でも愛されてない。ただの道具。
そんな時に現れた、小学校からの初恋の人。こんな奇跡、もうどこにも無いだろう。
ああ、だったらしらなければよかった?そのほうがしあわせだったかな。
知るってつらいよ。
そんなことを考えながら、ため息をついた。
もうきっと誰にも愛されないかも。このままずーっと、ひとりかな。
同棲してるくせに、もう私にはなんにもないのといっしょ。
「ほんと、世界ってひどすぎ」
「わかるわーーーーー。おねえさんの気持ち、マジでわかる」
隣のブランコに何かいる。チャラそうな。あんまり関わりたくない人種。
顔を向けたら絡まれる?さっさと帰って…
ユキが立ち上がると、それはユキの手をひっぱった。
「えっ、ちょっと!」
「家かえってもさ、さびしいんじゃないの?」
あっ。その声の主は、どこか冬也に似ていた。目鼻立ちもそっくり。
「…さびしいって。そんなこと」
「そんな顔してる。たぶんさ、おねーさん、このまま家かえってもなんもつまんないよ」
「いいです。どうせ何万で抱いてあげるよっていう。私そんな軽い女じゃないんで」
「んー、半分正解で半分違うかも」
そいつは、手招きしてきた。
「俺が経営してるクラブがあってさ。怪しくないよ。出会い系でもない。その先はお姉さんが決める事だからさ」
クラブ…か。
大学生のとき、先輩に誘われたけど出会いの場だと思ったから、彼氏がいるって断ったんだ。でも、一回だけいったことがある…あの時、わたしどうしたんだっけ?
「たのしーよ。ぜんぶ忘れてさ。朝まで付き合ってあげる」
冬也みたいなそいつは、甘い声でそんなことを囁いてきた。
前の私だったら、逃げてやるのに。
ユキはもうそんなこと関係ないんだ、とどこかすがすがしい気持ちだった。
「ほら。ここ。俺のパーティ。いらっしゃい。おひめさま」
軽い女じゃない。でも、そうなりたい自分が居た。
たぶん、ここから何か変わっていくんじゃないかと。
変わってほしいんだと。うっすらとした希望を込めて。
#5「一夜のあやまち」へ続く
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