流離
私の人生は旅そのものであった。
大学の在学中から、投資で糧を得ていたが、思うところがあって、海外を放浪した。
思うところと言っても、とくに旅を誘発するような出来事があったわけではなく、言葉にはできないが、しかし強い思いによって、私は旅に出た。
それから三十年あまり、私はほとんど日本に戻らず、ユーラシア大陸を周遊している。
〇
手始めに中国を巡り、それからモンゴル、中央アジア、ヨーロッパをさまよった。
ポルトガル西端のペニシェでは、海を眺めながら、アメリカに渡るか、それとも日本へ戻るかで、ずいぶんと悩んだ。
さらに、あれこれ考えているうちに恋人ができてしまうと、ポルトガルでは同性婚が認められていたので、彼と結婚して定住するという選択肢もできた。
しかし、悩んだ末に、私はどの選択肢も選ばなかった。
急な思いつきに突き動かされた私は、恋人に黙って、一人でモロッコのラバトへ向かってしまった。
なぜ、恋人を捨てたのか。
その理由はもう思い出せない。
理由など、なかったのかもしれない。
万事、私はそういう人間であった。
それからの私は、セネガルのダカール、オマーンのマスカット、カタールのドーハ、インドのゴア、マレーシアのクアラルンプール、インドネシアのジャカルタと、住まいを東へ東へと移して行った。
すこしづつ、生まれ育った日本へ近づいていった。
〇
他国へ入る際には、入国審査を受けなければならない。
その際に入国審査書を書くのだが、そこには宗教の欄がある。
私はその欄に、毎回、プロテスタントと記入する。
ユーラシア大陸をさまよいはじめたときはちがった。
入国審査書の宗教欄には、無宗教と書いていた。
私は、人智を越えた存在はいるのだろうとは思っていた。
いまでもそうだ。
しかし、特定の宗教を信じているわけではなかった。
そして、それはいまでも同じである。
入国審査書に無宗教と書くと、入国審査官の少なくない者が、私を
中には、神を信じていないのか、この世に神はいないと思っているのかと、私にたずねる者もいた。
〇
私は神はいるのではないかと思っています。
しかし、その神には、あなたがたとの神とはちがい、なまえがないのです。
各宗教では、信徒と神をつなげている様々なストーリーがあります。
それぞれの経典、それぞれの奇跡的な信仰体験があります。
しかし、私が存在を感じている神と、私の間にはストーリーがないのです。
神と私は没交渉の関係にあるのです。
少なくとも、私が感じ取れる範囲では。
〇
入国審査書の宗教欄について、付き合い始めたころの恋人に話したところ、彼は笑いながら答えた。
「君は、ばかに真面目だね」
それから、恋人は次のように話を続けた。
「入国審査官の視線が気になる。しかし、うそはつきたくない。だったら、形だけ入信すればいい。ぼくはプロテスタントだけれど、神様なんて信じていないよ。それでも、入国審査書にはプロテスタントと書いている」
恋人の故郷であるデンマークへ、ふたりで旅行に出かけた際、私は彼と交わした会話を思い出した。
そして、その場の思いつきで洗礼を受け、プロテスタントになった。
〇
ジャカルタでは雨期になると、何日も雨が降り続く。
私は貸家に閉じこもり、雨を見つめながらタバコを吸うばかりであった。
そんなある日、ラジオから、何度か聞いたことのある歌が流れてきた。
それは、ブンガワン・ソロという古い曲で、ジャカルタと同じジャワ島にある、ソロという古都に流れる、同名の川を讃えた歌である。
聴くと、心の安らぐ曲だ。
私はインドネシア語の歌を聴きながら、歌詞の一節を日本語で口にした。
『水は遠くまで流れ、やがては大海へ注がれる』
曲が終わったとき、私はソロへ出かける気になっていた。
〇
ユーラシア大陸をさまようなかで、日本へは何度か帰国している。
しかし、仕事上の都合で東京へ出向くばかりで、生まれ故郷の三重県には戻らずじまいであった。
恋人とデンマークへ旅行に出かけたとき、私は、彼の家を訪れ、家族にあいさつをした。
彼らは私を快く受け入れてくれた。
その歓待の最中、私は、恋人を日本へ連れて行くことを思いついた。
結局、思いついただけで行かなかったが、行ったところで、私の家族が、彼を受け入ることはなかっただろう。
その時の思いが原因で、ふるさとに足が向かなくなったわけではない。
とくに理由はなかった。
家族のことは、とくに嫌いではなかった。
良い人たちだったと思う。
生まれ育った土地には、よい思い出もあった。
ただ、ふるさとという存在自体を、私は受け付けなかった。
東京にいる秘書からは、そろそろ日本へ帰って来てはどうですかと、たびたび言われている。
私には、
もうリタイアしてもよかったのだが、五十になったばかりなので、まだ早すぎる気がしていた。
頭が働くうちは、仕事を続けたかった。
〇
古い歌に誘われて、気まぐれに訪れたソロであったが、何となく居ついてしまった。
古都としての
また、観光客が多いので、異邦人である私が住みつくには、ちょうどよい街であった。
〇
乾期は過ごしやすく、この土地を離れる気にはならなかった。
世界的に知られている、スクーとチュトの両寺院では、石で彫られた様々な動物が私を出迎えてくれる。
私は何度も飽きずに足を運んでいる。
訪れるたびに、私は、花様年華という映画のラストシーンを思い出す。
その場面は、カンボジアのアンコールワットで撮られていたと思うが、ヒンドゥー教がらみの遺跡であるのは、両寺院とちがいはなかった。
そのラストシーンで、主人公は、遺跡の壁の隙間に、だれにも言えない秘密をささやき、その隙間をふさぐ。
両寺院を訪れる際、私もまねてみようと毎回思うのだが、そのたびに、私にはささやくべき言葉がないことを、再認識させられる。
ソロは、ジャワ原人の化石で有名だったが、私は興味がなかったので、こちらは、一度も見に行っていない。
〇
涼しい日には、両脇を
そして、たまに、その存在を思い出しては、プロテスタントの集会に参加する。
牧師も信者もいい人ばかりであったが、ソロにいるとき、自分が異邦人であることをいちばん認識させられるのは、この集まりだ。
乾期のソロ川は水かさが少なく、水辺の平地では、家族連れや恋人たちが、思い思いの時間を過ごしている。
雨期は雨期で、いつまでも降りやまぬ雨を、ホテルのバルコニーから眺めていると、自分が動物ではなく、物言わぬ植物のように思えてきて、旅立つならば、乾期が訪れてからにと、思ってしまう。
〇
降り注ぐ雨のために、雨期のソロ川は、その様を一変させる。
乾期に、人々の憩いの場となっていた平地は水没し、土手いっぱいにまで水かさが増す。
ソロ川には、飲み終えた椰子の実から何から、いろいろなものが捨てられる。
それが雨期の
共産党に対する弾圧が行われていたときには、毎日、首のない死体が、ソロ川に浮かんでいたとのことだ。
彼らの死体も川下へ流れて行ったが、海へ流れついたものもあったのだろうか。
ソロ川には、いろいろなものが流されてきた。
これからも流されて行くのだろう。
この地にいつまでもいない、異邦人である私は、雨に打たれている濁流を眺めながら、捨てたいものは何でも、いくらでも捨てればよいと、無責任な思いを毎回抱く。
〇
鴨長明の方丈記は、次の文章ではじまる。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
これは、京都の鴨川を見て、思いついた言葉なのだろうか。
私が修学旅行で見た鴨川は、実に清らかな川であった。
私は、この有名な一節を口ずさみながら、遠くに見えるソロ川を見つめた。
そして、鴨長明の言葉は、この川には当てはまらないかもしれないと思った。
ソロ川の底には、重くべっとりとした太古の水が、激しい水流に負けることもなく、へばりついているのではないかと。
〇
ユーラシア大陸を一周して、たどりついたソロ川は、その感慨もあり、私が年を取ったこともあり、また、孤独に慣れたせいもあって、今まで自然に対して感じたことのない思いを、私に抱かせた。
この濁った川は生きている。
生きているから濁っている、と。
〇
いつから降りはじめたのかを、忘れてしまった雨の日。
私はホテルの室内で、花様年華を見直した。
これで何度目だろうか。
肩肘をつきながらテレビの画面を見ていた私は、ふと、捨てた恋人と一緒に、映画館でこの作品を見たことを思い出した。
「音楽がなければ見ていられないね、この映画は。ストーリーが単純すぎるよ」
数々の賞に輝いた作品に対する、恋人の感想を聞いて、私はその通りだと思った。
確かに、この映画のストーリーは、あってないようなものだ。
でも、言い換えれば、ストーリーなど、どうでもいい作品とも言えた。
私は、映画でも小説でも何でも、ストーリーを気にしない人間だった。
もしかしたら、いや、おそらく、人生についてもそうなのだった。
〇
さいきん、椰子酒を飲んでからベッドに入ると、同じ夢をよく見る。
ソロ川の水面が、きらきらと輝くのが見える丘の上で、椰子の老木に変じてしまった私を見て、東京から来た秘書が泣いている。
そのとなりでは、丘まで案内をして来たホテルのボーイが、チップをもらうために、所在なげに立っている。
その場景を、ホテルの一室から、ポルトガルで置き去りにした恋人が見つめている。
その部屋に置かれているレコードプレイヤーからは、ブンガワン・ソロが流れている。
そして、夢の最後は、私が捨てた恋人のつぶやきでおわる。
「水は遠くまで流れ、やがては大海へ注がれる」
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