「キスして」と言えない

だるいアザラシ

「キスして」と言えない

 窓の外からは花火大会の賑やかな音が聞こえ来る。

 そよ風が軽く吹いて、屋根に吊るされた風鈴を鳴らし、花火の爆発音と混じり合って、夏特有の風情を醸し出している。

 夏休み前の期末試験から解放され、真澄は陽菜をこの北の小さな町の有名な温泉に連れてきた。



 夏だというのに、ここは全然暑くない。

 以前住んでいたところ、夏はとても暑かったから、ここに来てまだ1年も経っていない陽菜はこの涼しさには驚いた。

 言い過ぎかもしれないが、冬の美しい雪景色を思い出すくらい、ここの夏は涼しい。



 期末試験の成績はもう過去のもの、どうでもいい。

 今は隣にいる人をずっと見ることができて、陽菜はとても幸せだと感じる。

 昨年の年末で付き合い始めて以来、二人はよく一緒にいるだけど、試験期間になると真澄は自動的に陽菜と距離を置くようになる。

 学年が異なるため、廊下ですれ違うことも殆どなかった。



 真澄は、将来推薦を勝ち取るために普段からちゃんと試験に取り組まなければならないし、陽菜も彼女との付き合いで成績が落ちるわけにはいかないと言ってた。

 一週間か二週間しか離れていないとは言え、愛し合ってお互いを求めたくなる二人にとっては辛いことだ。



 寝る前にちょっとだけでも好きな人の近くに居ようと、真澄が自分の家の前に立ちながら「お休みなさい」と電話を掛けていたことを、陽菜は知らない。

 好きな人を少しでも見たいと思い、陽菜は授業中に窓越しにグラウンドで体育の実技テストを受けている自分をずっと見つめていたことを、真澄は知らない。



 畳の上に座っている真澄は、お気に入りのテレビ番組を見ている。

 陽菜は真澄の腕を組んで、十本の指がしっかりと絡み合う。真澄の肩に軽く頭を乗せ、興味津々とテレビ画面を見つめる。

 すでに一緒に温泉に浸かった陽菜と真澄のここ数日の疲れは、温泉がもたらしす安らぎに癒され、消されていた。



 恋人の体に寄りかかってリラックスする感覚があまりにも心地良すぎたためか、陽菜は少し眠くなって、ぼーとしてしまった。

 テレビの音が遠くなり、画面もぼやけ始める。



「うぅ、まだ寝っちゃいけない。この後、花火を見に行きたいから」

 自分の眠気に気づいた陽菜は、心の中で眠れないように自分へ暗示を掛ける。

 それだけだと足りないと思ったか、陽菜は体を起こし、背筋を伸ばして目を覚まそうとする。



 いつの間にか、テレビ番組は陽菜が興味のない物に変わってしまったが、真澄は相変わらずテレビに集中している。

 視線をテレビ画面から真澄の横顔に移り、陽菜はの心臓の鼓動が勝手に速くなっていく。

 いつからだろう、真澄が真剣に何かをやっている時と、馬鹿馬鹿しく自分を笑わせようとするところを見ると、陽菜はいつも安心感が湧いてホットする気分になる。それは初めて出会った時と同じ感じ、ずっと変わっていない。



「どうした?」

 隣の人の熱い視線を感じ取ったのか、真澄は首をかしげって優しく尋ねる。

 片手を伸ばして、自分に寄りかかったせいですこし乱れていた陽菜の髪をそっと撫で、整える。



「何でもない。真澄を見るのが好きなだけ」

 陽菜は淡淡とした口調でゆっくりと言葉を吐き出すが、溢れるような愛情は隠しきれなかった。

 ついさっき自分の大胆で直接的な言葉に恥ずかしさを感じたように、陽菜は頬を赤く染め、目もうろうろする。



「私より、テレビの方が面白いよ」

 陽菜の言葉と反応に、真澄は思わず口元に笑みを浮かべ、テレビを見続けようと再び顔を向けた。


『本当バカだな』

 真澄の動きに合わせて視線を動かしている陽菜は、真澄が注意をテレビに戻ったことに対し、静かに心の中で文句を言った。



 昼間、温泉近くの山を二人でのんびり散歩したり、温泉街の店を見て回ったり、風変わりな料理を一緒に食べたりするのは、一日中くっついて過ごすのが久しぶりの二人にとって最高だった。

 旅館に戻ってきて着替えもしていないのに、すぐ傍にいるバカにキスされた。

『真澄スイカ食べ過ぎただろう』と、真っ先に陽菜の頭に浮かび、淡い甘みがあるキスも悪くはないと思った。



 目の前にいる可愛い陽菜を見ながら、ずっとキスを我慢した真澄は、別の意味で強かった。



 自分の唇をそっと撫でながら、陽菜はふっと、口の中に残った微かな甘い味と、軽く触れるだけで心奪われる余韻を残すような感触を思い出し始める。

 気がついたら、真澄は既に軽く陽菜のあごを引き、彼女をじっと見つめている。


 テレビも消されていた。

 広い旅館の部屋には二人の呼吸と心臓の鼓動だけが響いている。



 二人の距離が近い。

 真澄ほんの少し身を前にして、陽菜の鼻を自分の鼻を軽く擦りつける。

 この親密な動きから、陽菜は真澄から漂う少し危険な雰囲気を感じたが、今日は彼女に身を任せたいと思った。



「今日の陽菜はいつもと違うね」

 口元のカーブは今真澄の得意気な気持ちを表しているが、彼女もまた、今日陽菜の色々微妙な変化に気づいていた。



「どこも変わってないが?」

 真澄の言葉に対して、陽菜はあえてとぼけるこのにした。

 実際、彼女自身も今日の自分が何か変と感じていた。



「ねえ、真澄…」

「うん?なに?」

「……」



「キスして」と言えない。

 陽菜は心の中で自分の臆病さを責めた。

 しかし、ひとたび真澄の目を見つめると、もっと彼女に触れたい、触れられたいと思った。

 ただ、真澄の優しいキスが欲しい、自分を宝物のように愛してくれる感覚が欲しい。

 その単純な欲望は陽菜が抑えきれないほどに膨らんでいく。



 真澄にお願いできないのなら、自分からすればいいのだ。



「陽菜、な…」

 真澄の驚いた表情を無視して、陽菜はわずかに開いた真澄の唇に軽く押し当てる。

 それ以上のことをするつもりも、離れるつもりもなく、真澄とのキスの感触に浸っているかのように、ただ唇を重ねる。



 時間が経つにつれて、陽子の手はすでに無意識のうちに真澄の首筋に回った。

 さっきまで陽菜の顎に引っ掛けたまま真澄の手も自然に陽菜の腰を包み込み、彼女を腕の中に引き寄せ、抱きしめる。



 いつもなら、真澄はキスの主導権を握り、陽菜をもっと激しい方向に導くのだろうが、今日の彼女は大人しい。

 先ほどまで発していた危険なオーラを消し去り、キスから伝えてくる陽菜の愛情を感じているかのように、ただ唇を重ねさせる。



 素朴で何の変哲もない和室は、二人の長いキスで少しピンク色に染まり、涼しい夏の夜だというのに、二人を包む空気は少し熱かった。

 今夜の陽菜は異常すぎると、心の中で呟きながら体をリラックスさせた真澄は、次の展開を予想していなかった。



 唇への感触が急に重くなり、体にかかる重さもどんどん大きくなった。

 真澄は陽菜の体重に耐えられなかったわけではなく、あまりに突然のことにうまく反応できず、陽菜にキスされながら畳に押し付けられた。



 キスに疲れたのか、陽菜はようやく真澄から離れ、体を支えるように両手で畳に着き、自ら押し倒されて横になっている真澄を見つめる。

 垂らしてきた髪に少しくすぐられた真澄は、顔に触れる髪を手で払ってから、陽菜の頬を撫で、心配そうに尋ねる。

「今日はどうしたの?」



 真澄に軽く触れられただけなのに、頬が火照り出す。

 今日の自分はきっと壊れたと、陽菜は思う。

 ただ触れるだけでは足りない。もっと欲しい、もっとあの抱きしめられた時の温もりが欲しい。



「別に…」

 真澄の心配そうな視線に口ごもりながら、陽菜はついに話した。

「真澄、今後のテスト期間はもう離れないで」

 毎回一週間以上も離れるなんで辛いよ、までは言えなかった。



「私もそう思っていた」

 自分で離れるとお願いしておきながら、真澄の思いは陽菜に勝るとも劣らないものだった。

 両手で体を支えながら、真澄は上半身を起こし、陽菜に腕を回させる。



「真澄が私に微笑んでいる顔が見れない、真澄の全然面白くない冗談を聞けない、真澄に触れられないなんで、私はもう耐えられない」

 陽菜は真澄の肩に顔を埋める。

 陽菜のくぐもった声は、真澄の心に深く刻み込まれた。



「私も陽菜を抱きしめながら川辺の景色を楽しんだり、陽菜と一緒に犬と遊んだりしたかった。可愛い陽菜とキスもしたかった」

 陽菜への思いを吐き出すと、真澄は思い切り身を起こし、陽菜を体の下に押し倒す。

「陽菜のことが好きだからこそ、私と付き合うことで陽菜の生活と学業に影響を与えたくはない。けど、私は甘かったな…」



 陽菜の人差し指が真澄の口を軽く当て、押さえつけられていた彼女は真澄にもう話さないでと首を振る。

 恋人になりたての頃と今の微妙な違い、時間と共に静かに変化したことに、二人ともすでに気づいていた。



「大好きだよ、真澄」

 そっと口にした告白は、たとえ何度も聞いたことがあったとしても、真澄の心の中にあるその言葉の重みは変わらない。

「だから、もう一回キスして…」



 今まで口にしなかった言葉が、少し甘えるような口調で陽菜の口から出た。

 そのシンプルな願いは、真澄の心に火をつけたように、強く燃え上がる。



「かしこまりました」



 柔らかく濃密なキスが、陽菜の額、目、頬に優しく当てる。

 そのまま滑り降りると、陽菜の柔らかい首筋が真澄に優しくかじられた。

 さらに下に行くと、真澄の唇が首筋の柔らかさと真逆なちょっと硬い鎖骨らへんに触れる。いたずらのように軽くかじったあと、痛みを和らげるように鎖骨をおう肌を吸い、自分の跡を焼き付ける。



 陽菜に迷惑をかけないよう、真澄は普段、人目に触れない部分にキスマークを残している。

 学校で男子に口説かれた時だけ、真澄は独占欲のあまり、わざと陽菜の首元に赤い跡をつける。


 真澄は付けた後で後悔するタイプだから、よく事後で陽菜に謝ってくる。

 こういう時、陽菜はいつもどうしようもない顔で真澄に文句を言うが、怒ることはできなかった。

 きっと陽菜はこの自分を愛するバカを同じくらい愛しているから、こんなことで怒れないからだ。



 もともと首元が開いているだけだった浴衣は半分以上脱がされ、真澄のキスで陽菜の体も徐々に熱くなっていた。

 キスをしながらも、真澄は陽菜の敏感な部分をいじって欲望を掻き立て、周囲空気の温度で陽菜の体が冷えて硬くならないようにすることを忘れなかった。



「今日まだ花火を見に行く?」

 窓の外から聞こえてくる花火の爆発音に気付き、真澄はこれから二人花火を見に行くことをようやく思い出した。



「真澄だけでいい」

 両手で真澄の首を回り込んだ陽菜は、少し恥ずかしそうに答える。



 陽菜の頬は赤く染まれ、目は少し潤んでいた。

 その可憐な表情に、真澄は「なんでこんな可愛い人がいるんだ!」と大声で叫びたくなった。

 叫びたい気持ちを抑え、真澄は優しく陽菜に微笑んだ。



「私も陽菜だけでいい」

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