犬の鑑定法

若草八雲

 境界を揺らすもの、境界を越えるもの、境界より来たりしもの。

 異なるもの、畏を持って意を示し、己が域を広げたり。

 異に伏し葦となるを拒むなら、汝、その意を示し、己が畏を制せよ。

 汝、その威を持って、異を征し、己が境を知らしめよ


―――――――――

 自転車で国を一周する。21日かけて国土を横断するその移動距離は、3,300km。3週間にわたるスポーツの祭典に国中が熱狂し、走行ルートの沿道では選手を応援する観客が途絶えないという。スタート・ゴールに選ばれることを希望する町は多く、希望にこたえるために走行ルートは毎年少しずつ変わっている。

 ロードレースとはそれだけ有名で人気のあるスポーツなのだ。

「と言われても、三週間毎日何時間もレースを見ていられるのはよっぽどの暇人だと思うんだけれど」

 身体を揺らしながらペダルを漕ぐ彼の動きに合わせて自転車が左右に揺れる。荷台に横向きに腰かけて、軽口を叩いてみるものの、想像以上に揺れるので落ちないようにしがみついている両手が痛い。

「そんな、言い方は、ないだろ!」

 ペダルを漕ぐのに合わせて彼が声を絞り出す。私を乗せて高台に行くのなんて簡単だと豪語していたが、シャツの背中は汗で透けているし、坂を上り始める前に比べて声が弱弱しい。

「やっぱり歩く?」

「いいよ。もう、少し、だから」

 彼の言う通り、坂の頂上は見えている。100メートルもないだろう。自転車が横転しないように、足が地面につかないようにバランスをとる私のほうも実は大変なのだけれど、私の事情で自転車を降りると週末まで彼はどんよりと落ち込みそうだった。

「それじゃあ、帰りは私が運転しよう」

 どうみても無謀な挑戦中の背中に、せめてもの謝罪を込めてそう打診する。

「いや、帰りも、俺が前だ、から!」

 ハンドルは譲らないという頑固な宣言とともに、私たちの自転車は坂の頂上に躍り出る。急に軽くなった車体はそのまま彼の足を回転させ高台の道を駆けていく。揺れの代わりのスピードに、私は思わず彼の腰に手をやった。

 汗ばんだ服は勘弁したいが、振り落とされるのはもっと嫌だ。

「なんで」

「君はどうせ下り坂なら楽ちんだって思ったんだろ」

「そりゃ当然。陸斗(リクト)がいくら重くたって私が運べるくらいには」

「その考え方が危険なんだ。ろくにブレーキもかけず、俺たちは途中の石か車にでもぶつかって大ケガするのが見えているんだよ」

「えー。信用ないなあ」

「自転車にさっぱり興味がない君を信用する理由がどこにあるのかね」

 そういわれると立つ瀬がない。

 高台の道は崖沿いにおおきく曲がっている。前ばかり見ていて目を向けたことがなかったが、崖下には凪いだ海が広がっていていくつかの漁船が浮いている。海岸線沿いに広がる町は、ミニチュアのようで自分たちが暮らしているとは思えなかった。自分で思っていたより町の規模が小さくて、少しおかしな気持ちになる。

 あんな小さな町なのに、私は町の人間のほとんどを知らないし、何なら家の近所で迷子になる始末だ。今日も陸斗との待ち合わせ場所がわからなくなって遅刻した。

「良い景色だね」

「言った尻から自転車のこと興味なくしてるだろ」

「でも、良い景色だ」

 彼が速度を落として自転車を止める。風を切る音が消えた代わりに眼下の街の音と背後の森を抜ける風の音が混ざる。

「まあ景色が良いのは確かだよ。この街の良いところだと思う」

「でもさ、わたしが後ろに乗っているくらいでへこたれていたら国を横断なんて出来ないんじゃない」

「あのなぁ。説明聞いてたか? ロードレースは人を乗せて走る競技ではない」

「そうなの? でもさっき8人チームとか言ってなかった?」

視界の端で彼が右手で目を覆う。

「8人乗りの自転車を漕ぐ競技でも、8人乗せて自転車を漕ぐ競技でもない。ロードレースっていうのは……ああ、いいや」

 説明を諦めてしまったのかポケットに入れた煙草を取り出して手の中でもてあそび始める。未成年の前で喫煙するのは品性が疑われるぞ。すっかり言い慣れてしまった軽口を叩きながら私は彼の煙草を狙う。

 彼は私が手を伸ばすのなど承知と言わんばかりに身体をそらし手を高く上げる。

「吸うのは俺だけだ。君はダメ」

「未成年の少女を連れだした大人としては少女の前くらい禁煙すべきだと思いますが?」

 上目遣いで覗きこんだときの陸斗の顔はどういうわけか思い出せない。逆光だったのかなと思っていたけれど、薄れた記憶の底を浚っても真偽のほどは定かではない。

 ただ、この日の陸斗は珍しく煙草を咥えなかった。その代わり、私の肩をポンと叩いて名案を告げたのだ。

「どうせ説明は聞かないだろ。今夜観るぞ」

 観るって何を?

「決まってるだろ。ロードレースだよ」

―――――――――

 次の山岳ポイントまであと2㎞。確か登山時、選手たちは時速15~20㎞程度で走っているはずだから、ここから10分程度で勝負が決まる。

 画面に映った四人の選手が互いの走行ルートを見極めながら、集団を抜け出すためのアタックをかける。1日6時間近く放映されるレースのなかでも手に汗を握る見所の一つだ。当然、店内の客もなんなら店員も画面を食い入るように見つめ始める。

「懐かしいな」

 カウンターから席に戻ってきた相棒、猿田真申(サルタ-マサル)は、タイミング悪く漏れた言葉を聞き取った。彼も店内が注目するテレビ画面に目をやるが、何が映っているのかは今ひとつ理解できていないらしい。

「姐さん、あの番組みたことあるんですか? ていうか、あれは何」

 何って。当然ロードレースだ。君はそんなことも知らないのか、サル。相棒に苦言を呈そうとして、譲葉煙(ユズリハ-ケムリ)は、自分が記憶の中の青年と同じ感想を抱いたことに気がついた。

「知らない人は知らないよな」

「なんか有名なんですか?」

「まあ。有名だとは思うぞ。そうだな…オリンピックくらいには」

「結構有名じゃないですか」

 オリンピックの知名度に“結構”をつける相棒がおかしい。でもまあ興味のない事柄や人生に関わらない出来事への興味なんて大抵がこんなものに違いない。

「それで、姐さんは観たことがあるんですか? あれ」

「昔はよく観ていたよ。知り合いが好きでね。今大会を観たことがあるかと言われると、観たことはないな」

 我ながら馬鹿みたいな発言だ。もっとも、ロードレースに限らないが多くのスポーツの大会は熱心な視聴者でなければライブか過去映像か識別ができないような気もする。

「それで自警団の事務所はこの辺だって?」

「それが、どうやら街の外にあるらしいんですよ。キャンプ。とんだ回り道です。でも、店長が案内役のことを知ってるそうなので呼んでくれました」

 それなら、今しばらくはこの店で待機というわけだ。携帯の画面に映した依頼事項を確認する。確かに自警団キャンプが依頼場所と書いてある。この辺の人間は樹海に踏み入らず街にいる。そう思い込んでいたのは譲葉たちのほうだ。

「まあアポイントを取っているわけでもない。手がかりが見つかっただけ幸先が良いことにしよう」

 テレビの前から歓声と拍手があがる。どうやら山岳ポイントの勝者が決まったらしい。

 自転車なんて縁遠いはずの樹海でもこうしてロードレースは支持されている。ただ長距離を走っていくだけでなく、思っていたよりま人の心を動かす競技なのかもしれない。 

―――――――

■三瀬図書館中央情報センター 依頼番号D00776

依頼者 : 蔵先市街自警団 名波耕太郎

場所  : 三瀬南部樹海 自警団キャンプ

依頼内容: 捜索依頼 詳細現地説明

報酬  : ※※※※※※※※※

特記事項: 

 蔵先市街は隔離政策のため周辺地域の情報の閲覧に制限がかけられています。当センターでは情報開示の申請に応じられない場合があることに留意してください。

 依頼者との接触以降の対応は受注者の責任において行ってください。依頼者との仲介は行いません。


警戒度 : 橙

※同種依頼または市外探索の経験者を推奨


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