らくだ奇譚

らくだよだれ

怒る女

 当時僕は高校2年生。決して明るいとは言えない性格で1年生の時から同じクラスの同じように比較的おとなしい友人2人と休み時間に好きなアニメの話をしたり、休日に家で集まってゲームをするタイプで、悪く言えばオタクっぽいグループにいました。不良っぽい生徒にからまれることはあっても、目をつけられていじめを受けるといったことも幸いにしてありませんでした。何か目標を持って勉強をするわけでもなく、情熱を持って部活に精を出すこともなく、習慣として学校に行き、授業後は友だちと古本屋に行ったり中古ゲームショップを覗いたり、ファストフード店で食事したり、カラオケに行くこともありました。とにかくあまり魅力的でない青春を送っていました。

 ある日、うちのクラスに転校生が来ることになりました。転校生が来るという情報はすでにクラスに流れていました。それが女子だということも分かっており、僕は高校生特有の適度にロマンチックで適度にエロチックな妄想もしていました。

 朝のホームルームの時間、先生と一緒に入ってきた転校生を見て僕はぞっとしました。正確には、先生と一緒に入ってきた転校生の後ろからさらに一緒に入ってきたものに対して一瞬で恐怖を覚えたのです。先生、転校生に続いてさもあたりまえのように教室の入り口の横開きのドアから入ってきた女がいたのです。その女の様子が明らかに普通ではありませんでした。

 僕がその女から感じたのは「怒り」でした。その表情、纏う雰囲気、出で立ち、何に対してそう感じたのかは定かではありませんが、僕は憤怒と言っても差し支えないものをその女から感じたのです。例えるなら、ごくまれに家で父親が母親と大喧嘩をして、大声で怒鳴っているのを目の当たりにした時の、あの父親から感じる、逃げることもどうすることもできない時の恐怖。もう先生の紹介も転校生の自己紹介も何も聞いちゃいませんでした。ただ転校生の後ろにそびえる女から発せられる猛烈な怒気に、身を縮めていることだけしかできませんでした。

 言っておくと、僕には霊感なんてないし、おばけや幽霊の類を目にしたことは一度だってありませんでした。しかし、その時教室にいる誰も、僕以外はその怒る女の存在を認識してはいないようでした。

 転校生、仮にMさんとしておきます、は、いたって普通の女の子といった感じでした。うちの学校は校則で髪を染めることは禁止されていたので、どの生徒も黒髪で、髪を後ろでゴムで縛る女子が多かったのですが、Mさんも同様に肩くらいまでの髪をゴムやシュシュで縛り、服装も他の生徒と同じセーラー服を規則どおりに着ている、特に個性を感じられる外見はしていませんでした。

 Mさんはすぐに新しいもの好きで好奇心旺盛な女子のグループに誘われ、輪の中に溶け込んだようでしたが、僕自身は彼女が何をよく話し、どんな趣味を持っているかを知る機会はありませんでした。

 しかし、そんなMさんの傍には、いつもあの女がいました。どんな時でも「怒っている」。その雰囲気を全身から放出させながら、彼女の3メートル以内にたたずんで立っているのです。

 そして、それは僕にしか見えていない様子でした。Mさん自身にも、その女が見えているのか見えていないのか、まるでいないかのように振る舞っていました。

 僕は極力それを見ないようにしていました。その怒る女に僕が彼女のことを見えていることが悟られないように、そして、女の怒りが僕に向かないように。だから僕はMさんのこともあまり見ないようにしていたし、会話をすることもありませんでした。

 でも、それで学校に行かなくなることはありませんでした。学校が好きだったわけじゃないけど、僕にとって学校に行くことは、それ以外に選択肢のない当たり前のことであったし、怖いものという意味ではクラスの不良っぽい奴とか嫌いな教師とか他にもあったので、怒る女もそのように、ビビリながらも同じ空間にいる存在の一つだったのです。

 Mさんが転校してきてから時々、不思議なことと言うか、怪奇現象じみたことが起こりました。古文の授業中、教室の前にある黒板の上に掛けられていた時計が急に「バァン」と音を立てて文字盤が割れ、それから落ちました。板書をしていた先生は時計が落ちたことで文字盤が割れたのだと思っていたようですが、多くの生徒は文字盤が音を立てて割れたあとに時計が落ちたことに気付いていました。

 また別の授業中、廊下からガラスの割れる音がし、先生が見に行くと廊下の窓ガラスが割られていました。授業をしていた先生が職員室に行き、生徒指導の先生や教頭先生も来ていろいろと話し合っていました。先生が職員室に行っている間に廊下を見に行った生徒や休み時間になって廊下に出た生徒の話をまとめると、ガラスは廊下側から外に向かって割られたらしく、外にガラスの破片が散らばっていたそうです。その時の僕達の教室は1階にあったのですが、僕は放課後教室から出ると、窓は枠ごと取り外され、外でガラスの破片を片付けている先生の姿を見ました。

 時計の時も廊下のガラスの時も、僕はMさんの傍にたたずむ女がいつにもまして興奮しているのを感じました。それはドラマで見るような激昂のあまり人を殺してしまった後の犯人や、肉食動物同士がなわばり争いをした後の興奮状態に近い印象です。僕はなるべく怒る女を見ないようにしていたのですが、それでも女から怒りを爆発させた後の興奮をひしひしと感じ、ビビりまくりながら机に座っていました。

 そんな時でもMさんは、隣の席の女子と「なになに、どうしたの」「怖いねぇ」などと、他の生徒とたいして変わらない反応をしていました。

 他にも、ときどき教室の壁が何かに殴られたように「ドンッ」と音がすることは何度かありました。

 「心霊現象だ」「この教室には幽霊がいる」といった噂が流れましたが、頻度があまり高くなかったこともあり、これらの現象とMさんを結び付けて考える人はいませんでした。

 僕は2人の友人に、「怪奇現象が起きるようになったのってMさんが転校してきてからじゃね」と聞いてみたり、「Mさんの後ろに女が見える」と正直に話したこともあったのですが、友人達の反応は「ありえない」「かまってちゃん乙」「なに、お前Mちゃん狙ってるの」と、全く信じてもらえませんでした。僕はMさんのことを好きだと思われるのが嫌で、2人にこの話をするのをやめました。

 ある日の休み時間、僕がトイレから戻って教室に入ろうとした時、入れ違いに教室を出ようとしたMさんとすれ違うかたちになりました。僕はMさんの後ろにいる女を見ないように下を向き目をそむけてMさんの脇を通り抜けたのですが、自分でもはっきりわかるくらい不自然な動きでした。「もしかして、きょどって見えたかな」「僕がMさんのこと好きで、照れてるように見えちゃったかな」と気になって振り返ると、Mさんは僕の後ろで立ち止まり、僕の方に体を向けて立っていました。そして、振り返った僕はMさんとばっちり目が合ってしまいました。

 Mさんをこれほど近くではっきり見たのはこの時が初めてでした。視界の端に怒る女もいましたが、これにはある程度慣れていました。むしろ、Mさんと、というか女子と近距離で目を合わせた状況に緊張してしまい、僕は呆けたように固まってしまいました。

 しばらく見つめあっていたのか、それとも僕がそう感じていただけだったのか。するとMさんは一言、


「お母さんなの」


と言って、そのまま教室を出て行ってしまいました。




 Mさんとは3年生になっても同じクラスでした。文化祭準備の時に淡泊で事務的な言葉を交わしたこともありましたが、それ以外はあまり絡むこともなく、Mさんは怒る女を伴ったまま卒業しました。

 僕は留年しました。

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