カギを拾ったられば

頻子

カギを拾ったられば


 道端でカギを拾った。赤い鈴がついていた。

「あ、僕がもらいます」「はあ」「僕のマンションのカギみたいですので」「はあ……」

 俺はカギを男に渡した。

 そしてそのことを忘れていた。


***


「とんでもないことをしてくれたもんだ」

「なんだって?」

 頭を洗っていると、鏡に映ったイマジナリー・フレンドが話しかけてきた。

 俺はシャワーで泡を洗い流し、それから、なんとなく話の流れでカギを渡したことを思い出した。

「カギか? あの」

「とんでもないことをしてくれたもんだ」

 イマジナリー・フレンドとは長い付き合いだ。20歳でまた戻ってきた。脳内倫理委員会として働いている。俺がもらいすぎたお釣りを戻すべきかどうか問うと「自覚がある場合は窃盗罪になるぞ」と言ってきて、いざバイトのおばちゃんに申しでて、「いいよいいよ」と言われたら、もう何も言わない。「義理は通したんだからもらっておけ」という風に働く。

 俺はこいつにあまり人格を認めていない。俺の頭の中にある、抽象的な判断のインターフェースが擬人化されたものなのだろうと思った。


 思い返してみると、確かに違和感はゼロではなかった。

「僕のマンションのカギです」という言動は奇妙だ。「僕のカギ」ならまだしも、「僕のマンションのカギ」だからといって、なんなんだ?


 そのカギは、ちょっと特徴的なカギだ。楕円形のカードキーだったから、男が自分のマンションのカギだ、と判別できたことはわかる。

 もしもそうだったとして、だからといって、他人の鍵を持っていって何をしたいのかわからない。別に、管理人にも見えなかった。くたびれた労働者のような、どこにでもいるような風体だった。

「まあさ、落としたのが手袋とかだったらさ」

 耳の上に泡っぽい気配が残っているのに気が付いた。もう一度シャワーの蛇口をひねるのはめんどくさかったので、湯船に身を沈める。ぶくぶく。

(まあわかるよな、たとえばつっかけておいたりしてさ。汚れないようにしてもらったら、助かるよな)

 と言ってみたものの、浮かんだのはさらし者になっているかのような光景だった。

 片方の手袋は役には立たない。もう片方の手袋は運命共同体であり、何も悪くないのに始末されてしまうものなのだろうか……。

「とんでもないことをしてくれたな」

 イマジナリー・フレンドが言って、俺は本題に引き戻される。

「違和感はあったろ?」

「じゃあ、どうすればよかった? あいつが頭のおかしいやつだったとして、自分のじゃないものを、堂々と『もらいます』と言ってきたんだぞ。俺に断る権利はあるのかよ」

 ぼそぼそとしながら「僕のマンションのカギみたいですので」とは言った男の図々しさを思い出す。不格好で収まりがつかなかった。ああ、そうだ、あのカギには鈴がついていた――小ちゃい鈴。鳴るやつではない。飾りの。ひもは編み込みが入っていて、お守りにくっついてるやつみたいな。男がつけるかはどうだろう?

「陰気そうだったけど別にやべーもんは持ってなかった。でもやべーやつだったらやべーじゃねぇかよ」

「なら刺されてやれよ」

 イマジナリー・フレンドは軽口を言った。でも、こいつにだって、そんな、妄想だけの、あるかもわからないリスクを負ってやるのはあほだとわかっていて、少し狡猾で合理的なことを考えはじめる。

「じゃあさ。『いえ、これは、知り合いのカギですね。覚えがありますので渡しておきます』というのはどうだ? それで……ま、交番にもっていくんだ。カギだったら届けるだろ、たぶん。誰かに渡すよりはいいよな」

「そこまですることか?」

「その女の子が殺されたらどうする? ストーカーじみた、元カレだったらどうする? 推理小説だったら、お前ははめられてるところだぞ。たまたま拾ったカギにお前の指紋がついている。どうする?」

「女の子とも限らないだろ。それは差別だぞ。いや、どうするって……」

「違和感を無視するな」

 イマジナリー・フレンドは言った。

「違和感を無視するな」

 ずきずきと頭が痛んだ。


 こういうやつが、車の、下に、マグネットでとりつけられたGPSなんかに気が付くんだろうか?

 野生の動物のように誰かの気配に敏感で、ただ部屋に入っただけで、匂いをかぎ分けて、「誰かが入った」と述べるのだろうか?

 俺は何も気が付かない。俺の知り合いに、カラー・コンタクトレンズを入れたことに何日で気が付くか試したやつがいた。俺はちっとも気が付かず、「友達」はなんとなく「知り合い」くらいに後退した。

「お前、前から走ってきた人間がいるとして、もう一人走ってきたとして「今の人がどちらへ行きましたか」と言われたら、答えるんだろうな。やばい奴かもしれないのに」

「なあ、ずいぶん前を歩いていた女の子がいたよな。あの子が落としたんじゃないか? あの男は渡した鍵じゃない鍵で、マンションに入らなかったか?」

「さあ。覚えてねえよ」

 湯船の栓をぬいて、俺はぼーっとしていた。そういうことができる気温だった。春だ。不審者も多くなるよな。連鎖する思考が妙に陰気っぽい。

「おい、あの男が、『ありがとう、僕のカギです、探していたんです、と言ったとする』、嘘かもしれないが判別するすべはない。渡さない理由はないだろう?」

「じゃあ無罪か?」

 俺は俺の日常がなんとなくぬるい連帯と親切心で埋められてて、俺の意思よりも先に全体を優先する傾向があるという思考回路に頭を支配されはじめていた。急に世の中が嫌になった。パトカーのサイレンが聞こえてきて罪を責められたような気持ちになった。家の中に知らない誰かがいるような気がして振り返った。下の階で赤ん坊が鳴いているか犬が吠えているかしている。いや、そういうものではない。

「そんなに神経質になることないだろ……ないだろ」

 イマジナリー・フレンドは俺に侮蔑の目を向けている。

「違和感を無視するな」


***


 あくる日、髪の長い女がハンドバッグからカギを出し、マンションのドアを閉め、ごみを捨てて、ポケットからカギを落とし、それでそのままどたばたと出かけて行った。それを俺は見た。

 しかしそれは、青いひものついた鈴だった。ああ、じゃあ、予備のカギだ。ポストにでも入れてやるか、なんか、なんらかするべきだろう。親切にするなら。見て見ぬふりでもいい。

 声をかけるべきだろう。

 俺は俺の意に反して、カギを手にしていた。心臓がバクバクする。これがなくなったと分かればカギを交換したりするかもしれない……。そうしたら……。数万かけて? それは窃盗ではないのか? 俺のやることは許されるのか?

 自由度の高いオープンワールドのゲームで死ぬほどピッキングやスリをした光景が脳裏に浮かんだ。勝手に感じていた罪悪感を埋めるためだ。つーかそもそもロックオンされてるなら早々に引っ越したほうがいいし、救えたとも思わない。でも俺は窃盗をしたのだ。欲しくもないのに。物語は俺に味方してくれるだろうか。同棲しているだけで恋人のカギを受け取っただけなのかもしれないじゃないか。

 倫理的な、イマジナリー・フレンドが俺をにらんでいる。イマジナリー・フレンドが俺をにらんでいる……。

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カギを拾ったられば 頻子 @hinko_r_1

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