第2話 なにゆえ剣の修羅は屋敷を去るに至ったか

「秋継はいったいどこにいった!」


 太陽が天頂にさしかかる頃あい、屋敷に野太い男の怒声が響く。思わず首を竦めたわたしは几帳の後ろに隠れた。


 朝廷から帰ってきた父上である。恐らくはわたしが和歌の勉強をサボったことを聞いて怒り狂っているのだ。


 ひとり息子といえども未だ無駄飯を食らう身、わたしは父には頭があがらない。


 借りてきた猫のように縮こまりながら、わたしは父に跪く。わたしをみおろす父の眉間にしわが寄った。


「また和歌の勉学を怠ったそうだな。なにゆえおまえはかように剣にばかり執着するのか。」


「京を守る貴族家なれば、武芸を極めるのは我らの定めかと……。」


「よいか秋継、大将が先陣をきって矢を射かけるなど神代の神話のみよ。かように陰陽道のすすんだ世にあっては剣などなんの役にもたたんのだ。」


 父上の呆れたようなため息混じりの声に、わたしは怒りを覚えた。


 かつての世界にて父上のような言葉は聞き飽きている。この世でも剣など無用の長物と軽んじられて我が願いは切って捨てられるのか。


 父上が床に転がる棒きれを拾って折ってしまう。


「なっ!」


「いいか、剣の修練などといって棒きれで遊ぶのはもう禁ずるぞ! おまえはこれから毎日きちんと詩歌管弦の嗜みを学ぶのだ!」


 父上は肩を怒らせて座敷を去っていった。


「次に剣と口にすればおまえをこの屋敷から追い出すからな!」


 父上の吐き捨てた言葉が耳のなかでいつまでも響いている。わたしはため息をついて頭をさげた。


 やはりこの世もままならぬものはあるらしい。わたしは床に散らばった木屑をみつめて決心した。


「父上、お世話になりました。」





 その晩、わたしは京の小路をひとり歩いていた。


 父上はわたしが剣と口にすれば屋敷から追い出すとおっしゃった。だが残念なことにわたしは剣への執着を捨てきれそうにない。


 というわけでまた手間をとらせるより先に自らお暇したというわけである。


 食事の用意に時間をとられるのは業腹だが、山ごもりはかつて何度もしたことがある。もし死んだとしたならわたしの剣の道もそこまでだったということだ。


 まったく晴れやかな気持ちだ、これで存分に剣にうちこめるというもの。


 どこにゆこうかと浮かれた頭で考えながら夜の橋を渡っていると、欄干にもたれてうずくまる老人が目に入った。


 面倒なことだと思いはしたものの、わたしは老人のそばに駆けよる。たとえわたしが剣の修羅であっても、人の道を外れるつもりはなかった。


「ご老体、いかがなさいました。」


「う、ううう……。」


 四肢が酷く痛めつけられている。呻き声をあげる老人は指ひとつ動かせないようだった。


「……げろ。」


「む、なんとおっしゃいましたか?」


 老人の掠れた声はか細くて、よく聞こえない。


「に、逃げろ! これは罠じゃ!」


 瞬間、満月の明かりをなにかが遮った。


 紅と白のだんだら模様が、宙にうかんでいる。いきなり姿を現した鯉の化け物がその大きな口を開けてわたしたちを飲みこもうとしていた。





 乗りあげた鯉の重みに耐えきれず、橋が崩れ落ちていく。水しぶきの飛び散るなか、固くまぶたを閉じていた老人がゆっくりと目を開いた。


「まったく、これだからこの世はわたしを飽きさせてくれない。」


 老人は己が中州にあることに気がつく。老人を抱えて降りたったわたしは笑顔であった。


「京の中だというのに、かような大物の妖が潜んでいるとは。油断をすこしもせずに貪欲にこちらの命を狙うそのひたむきさ、まこと天晴れである。」


「な、なにを言うておるのだ! 早く逃げなければ喰われてしもうぞ!」


 化け鯉が、胡乱な目玉をぎょろぎょろとさせてわたしたちのいる中州へと泳いでくる。つられて、黒々とした川の水が怒涛の波となって迫り来た。


「ご老体、すこし剣をお借りしましょう。」


 老人の腰に佩かれていた太刀を拝借する。恐怖で体が固まっている老人を背に、わたしはすらりと鞘から刀を抜きはなった。


「では、そこの名もなき鯉よ。いざ尋常に真剣勝負を願いつかまつります――!」





 老人に気兼ねして勝負がつまらなくなってはかなわない。わたしは川の流れから頭をだす岩の上を飛び跳ねながら老人から離れた。


 化け鯉はそのままわたしを追いかけてくる。丸石の敷きつめられた河原までやってきたわたしは笑って鯉を待ちわびた。


 どんどんと鯉の大きな口が迫ってくる。


 そのまま河原へと飛びこんできた鯉をかわしてわたしは宙に飛んだ。空中で身を捻りながら、わたしは狙いをさだめる。


 降りていく勢いのまま、わたしは鯉の右腹をかっさばいた。


 鮮血が噴きだして、わたしの狩衣が赤く染まっていく。ふっくらとした腹から臓物をまき散らしながら、鯉はのたうちまわって川へとひき返した。


 太刀をふって血を振りはらう。


 ああ、なんと楽しいのだ。地を蹴るのがすこしでも遅れていれば今ごろわたしは鯉の腹におさまっていただろう。


 これこそ命の奪いあい、真剣勝負である。


 頬を紅潮させて、わたしは鯉をみつめた。鯉の瞳には初めてわたしへの憎悪がうかんでいる。


 鯉が跳ねながらわたしにむかってまた泳いできた。だが、今度は先ほどのものよりもずっともっと速い。


 まるで稲妻のように水面を切り裂く鯉の尾びれに、わたしは太刀を横にかまえる。 


 鯉がわたしを呑みこまんと飛びあがったその瞬間、わたしは足をそっと脇にずらした。目測が狂った鯉がわたしのちょうど真横を通り過ぎていこうとする。


 そこにわたしは剣をさしこんだ。


 太刀の鋭い刃が、鯉の分厚い唇に触れる。すこしの抵抗もなくすっと刃が肉に入っていった。


 激痛が走ったのか、鯉がびくりと体を震わす。


 だが、勢いにのった鯉はもう止まることができない。太刀がどんどん鯉に食いこんで裂いていく。


 そうして、わたしは鯉を上下に両断してしまった。


 真っ二つに斬られた鯉の死骸がズズズと石ころを滑っていき、最後に土手にぶつかって止まる。あたりに静寂がもどった。


 それからしばらくして、わたしはようやく構えをほどく。


 勝利の余韻に浸って、わたしはつい先刻まで死闘を演じた敵である鯉の亡骸をみつめた。自然と手をあわせる。


 わたしは敬意をあらわにその冥福を祈った。


「名も知らぬ鯉よ。此度の真剣勝負、実に心躍るものであったぞ。願わくば、また冥府で剣を交えよう。」


 そうして、わたしは鯉の脂でぬらぬらと光る河原を歩いて老人の待つ川の中州へとむかった。

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