第二十七話 神の御業は時宜にかなって美しい
書簡を読むついでに文字の勉強もしたかったから
クロムにはお帰りいただいた。
そういうときのリディアの察しのいいこと。
もし俺に妹がいて、あんなこと言われたら
次の朝、ベッドから出てこれないと思う。
さすがのクロムの目にも光るものがあった気が……
大丈夫だぞ、クロム。
リディアはお前のこと、大好きだ。
「違います、それは無償という意味です」
リディアが指した箇所を読み直す。
見た目はアラビア文字っぽくて、
法則はハングルに近いかな。
体系が無駄なく整理されてる。
これなら覚えやすそうだが、妙に近代的だな。
「貴国の物資を難民救済のために無償提供し、
サルワト教の教義に基づいた聖化の儀式を受け入れるなら……
て、なんだこれ?」
「角を焼き切って食料を全部よこせ。笑顔で。
と解釈できます」
「ふざけやがって、全部こんな感じ?」
「それは好意的なほう」
天井を見上げて書簡を投げ出しちゃった。
リディアが黙って書簡を拾い集めてくれてる。
「悪い」
「いえ、気持ちはわかります。
あなたは悪魔でないぶん、余計に理不尽に感じるでしょう」
「俺の今いるところこそ地獄だ」
「地上ですが?」
「俺の世界の有名悪魔がそう言ってた」
「悪魔に地獄と言わせるとは、あなたの世界は
本当に恐ろしいところなのですね」
「いつか見せてやりたいよ。リディアならきっと気に入る。
ピアースからの手紙はなかった?」
「彼の名前もブラッド家の家紋もありません」
「生きてんだろうな、あいつ」
「死んでたら困るんですか?
私はいっこうに構わないのですが」
「なんでそんなに、あいつのこと嫌うの?」
「聖堂騎士ですよ? 悪魔狩りの専門家。
……エリン様に色目使いやがったし……」
声の調子からいって後半の比重が大きすぎ。
リディア、エリンさま好きすぎ。
「そう言うなよ、強姦未遂は詭弁だろ。
さっき言ってたやつ、あいつの協力があればやりやすいんだ」
「ああ、宗教運動がどうとか……
何をするつもりですか?」
「あれ? 興味あるの?
君はエリン様のお顔にしか興味ないんじゃ?」
「あれはエリン様が普段しない表情だったから、つい。
ホントきゃわ……かわいかったなあ……
あ、あなたの話にだってちゃんと興味ありますよ。
宗教運動ならエリン教ですね。やりましょういますぐに」
「それ、お前のやりたいことだろ。
俺がやるっつってんのは認知戦」
「なんです?
またわけのわらかないことを……」
「二十一世紀の最新戦術だからな。
けど、どっちかってーと悪魔の得意分野だ」
「ああ、メガテニストは悪魔の力を使うのが得意でしたね。
私の力でよければ存分にお使いください。
用意するものはありますか?」
んー、俺のクラスがメガテニストになりつつある。
まあいいんだけど、できればこっちでも
教師、やりたいんだよなあ。
「まずは俺の狙いが的外れでないと確認したい。
サルワト教? だっけ。教義や教会について知りたい」
「それならこの城にあった教典を兄さまが集めてましたね。
初期に赴任した司祭の備忘録もあったはず。
借りてきましょう」
「いいけど、エリン様がそんなの読むってあるの?
クロムの恐ろしい側面を見せられる羽目にならない?」
「ご安心を。エリン様は読書が好きです。
知識は膨大にあるのですが、使い方がわからないのです」
うん、かわいい。
賢いのにおバカな感じね。
エリン様のキャラも掴んでおかないとな。
でもそれ君とちょっと被ってるよ、リディア?
「なら頼む。
でも、今日はもういいや、なんだか疲れちまった」
「こっちに来たばかりですものね。
湯あみの用意をいたしましょう。
今度はどれくらいこちらにいるのですか?」
「わからないよ。それこそエリン様次第だろ。
いや、そもそもエリン様はこの状況を自分で
コントロールできてるの?」
あ、すごい微妙な表情。
エリン様を信じる理由と信じられない理由が
複雑に絡み合っておりますな。
「できてるよーな、できてないよーな?」
「神の御業は時宜にかなって美しい」
「そう、それ!」
なんか自分が言ったみたいにドヤ顔してるけど、
ほんとにそうであることを祈るよ。
俺がここにいる意味がちゃんとあるって。
あの親子を見捨てた意味があるんだって。
湯あみの間は目を閉じるか天井を見てるしかなくて、
そんなふうに俺は、前回より積極的にこの世界に
関わろうとしているんだなって考えていた。
浴室は調理にも使う石窯に隣接してて、
タイル張りの部屋にバスタブが並んでる。
その一つをカーテンで仕切って、お湯に香油を垂らして
リディアが入浴してる俺の身体に素手でお湯を
擦り込むみたいに洗ってくれてるんだけど。
もちろん身体を洗うのとか全部、リディアに任せてる。
だってほら、俺がエリン様の身体を見たり触ったりするのって、
ねえ? よくないよねえ?
でも、リディアさん?
なんか丁寧すぎると言うか、接触時間が長いと言うか、
ぶっちゃけ触り方やらしくない?
こういうもんなの?
「だいぶ、固くなっていますね。
エリン様では決してこうはなりません。
よほど緊張したのですね」
あ、マッサージね。
ごめんね、ヘンなこと考えて。
「そんなことないって言いたいけど、そうなんだろうな。
いきなり槍だのクロスボウだの……モリーは怪我してるし」
「モリーは無事でしたよ。
あなたが手早く事態を収拾してくれたおかげです」
「ストラはそんなふうには思ってくれなかったな」
「賢い子です。ちゃんとわかっていますよ。
私からも言い聞かせます」
「わかってないのは俺だよ。
あれでよかったのか、今でもわからない。自信もない」
「これからやろうとしていることも?」
「痛いとこつくなあ。
もちろんないよ、自信なんて。
うまくいかなかったらどうしよう?」
「さあ。また何か考えればいいのでは?
上向いて、髪洗いますよ」
「他人事だな。俺にはこのトーレって国が、
エリン様一人で守り切れる状況じゃないって思えるんだが」
「でしょうね。
ネルガルやアエシェマは力をつければ協定など無視します。
バシレイアもいつまでも悪魔の国を放ってはおかない。
エリン様はその全てを滅ぼせても、トーレの全てを守れない」
「だったら──」
「だから、あなたの外交という夢物語に同調したのです。
この国を守り、なによりエリン様を戦わせずにすむなら、
私は何でもしますよ」
「何でもって、いいのか? そんなこと簡単に……
って、ああ~~なにこれ気持ちいい」
リディアの指が頭皮を揉み解してる。
え? 頭蓋骨から外れちゃってんじゃない?
てくらい揉み解してる。
「ふふ、そうでしょう。エリン様もこれが大好き。
最初は逃げ回っていたのに、今では入浴と聞くと
どこからでも走って戻ってきますよ」
犬か。
でも気持ち良すぎて声でない。
マッサージの効果もあって身体がお湯に溶けるみたいで、
ついでにもやっとした不安なんかも流れてって。
結局、俺はまたリディアに支えられてるんだな。
「あなたがやろうとしてることなら、わかってますよ。
具体的に何をするかまではわかりませんが、
何を目指しているかなら、ね」
「ほう、言ってみ?」
「バシレイアとの同盟」
嬉しくてにやけちまった。
教師にとって打てば響くってのはすごい快感なんだ。
「無謀かな?」
「以前までなら。
でも今は、こちらにも交渉材料が揃い始めてる。
依然としてあなたでなければできるなどと思わない
難事ではありますが」
「へえ、交渉材料ねえ。
いつの間にそんないいものが……」
いきなりリディアが俺の顎をつかみ、
思い切り上向かせる。
息が止まるわ。
この角度からリディアの顔を見上げたら。
ほつれた髪が湿気で額に張り付き、
湯気で微かに上気した頬が薄紅に色づいて、
中央に向かって穏やかに盛り上がった唇と鼻の先端が
星座みたいにまっすぐな線上にあって、
その星座に導かれ、みるみる光を失っていく瞳にたどり着く。
今度は俺、何した?
「何も知らずにバシレイアとの同盟を口にしたのですか?」
「なんのことを言ってるのかわからない……
て時点でダメですよね?」
「撤回します。あなたは無謀です」
「結論を待ってはいただけませんか?
せめて知る努力をさせてください」
「まったくなにが自信がない、ですか。
よほどの自信がなければ言えないこと、言ってますよ」
「え、そお?」
「笑うな」
リディアはやや乱暴に洗髪を再開した。
でも髪を梳く指の動きは赤ん坊に触れるみたいに優しい。
伝わるよ。
彼女も変化を楽しんでる。
彼女も。
「仕方ありませんね。
明日は私が領内を案内しましょう。
あなたがいない半年の間に変わったことをよく御覧なさい」
「そいつは楽しみだ。
前はあんまり見て回れなかったからな」
「ちゃんとエリン様として振舞うのですよ」
「まかせとけ」
すげー疑いの目で見られてるけど、
まあ大丈夫だろ。いざとなれば黙っていればいい。
黙ってれば賢く見える。
リディア、鼻歌が出そうになると飲み込んでるな。
俺の前だと恥ずかしい?
機嫌がいいのを知られたくない?
俺の前では隠さなくていいって、
いつかはそう思ってほしい。
今は代わりに俺が鼻歌を歌おう。
なんの曲だと聞かれたら、俺の世界の歌を教えてあげよう。
俺はご機嫌だ。
そういうことにしたいんだ。
だって、俺の考えてることが全部うまくいったとする。
ネルガルは勢力の拡大を諦めるか?
力を増してるっていうアエシェマは?
エリン様を殺そうとしたうえに
俺の世界にまで影響を及ぼすアモンは?
そうなんだよ。
何一つ、解決する気がしないんだよ。
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