第五話 一人殺せば犯罪者、百万人殺せば英雄、なんて言うけどさ

 一度だけ、まともに殴られたことがある。


 SNSの書き込みで口論になった生徒が暴力行為に及び、

 何を思ったか止めに入ってしまった。


 鼻の奥からジンっとした痛みが顔中に染みわたって、

 自然と涙が出た。

 無様に尻もちをついて、

 俺を殴った生徒が呆然と見下ろしているのを、

 呆然と見上げていた。


 身体はすっかり萎縮して、

 その生徒がちょっと動いただけで子供みたいに頭を庇っていた。


 怒りとか悔しさはなかった。

 ただただ、惨めだった。



 そんなの比較にならない。

 今はもう、惨めさなんか通り越して虚無だ。


 こんなことを考えていられるってことは

 死んでないってことで、

 あの高層ビル倒壊ハンマーを食らって

 生きていられるエリン様の身体は本当に凄いんだろう。


 でも、本音を言うなら一撃で終わってほしかった。


 頭は倍くらいに膨れ上がってるように感じるし、

 内臓が雑巾みたいに捻じれてる。

 全部の関節が粉々にされたみたいで、

 息を吸い込もうとしても鼻も口も塞がってた。


 重い影が俺の上から取り去られるとき、

 周りの地面が泡立った。

 圧力で溶けてる。


 もう終われ。

 夢でも転生でも何でもいい。


 もう終わってくれ。


 もう一撃。


 今度はほとんど何も感じず、

 浮き上がるような感覚があった。


 楽になれたかと思ったが、

 すぐに膨張した頭や捻じれた臓器の感触が戻された。

 もっとひどくなって。


 こいつらは俺がどんなに痛くて苦しくてもやめてくれない。

 空が青いとか、海の水がしょっぱいとか、

 そういう当たり前の事実として頭に刻まれるとき、

 理解が絶望に変わる。


 身も凍る寒さでさえ温かく感じるほど、

 冷たい血が満たされる。


 それは死じゃない。


 孤独だ。



 何度目かの衝撃でたぶん腕が取れた。

 肩から外に向かってとげが飛び出したような痛みがあって、

 骨が砕けたと思った。


 急に差してきた太陽の光が瞼を貫くくらい眩しくて、

 薄く目を開ける。


 浮き上がった白銀の籠手が光ってる。


 脱臼した俺の肩を引っ張ってるから痛いんだ。

 一瞬、何が起こるのかと期待させておいて、

 前腕部がスライドして出てきたのがほっそい砲身。


 音速の飛行機が上空を飛んでいくみたいな音がして、

 ハンマーがまた降ってくる。


 対して砲身から伸びた光は赤い点を付けるだけ。

 まさかのレーザーポインタ。


 笑っちまったよ。


 喉に熱い泥が詰まってて笑えなくて、

 血を吐いただけだったけど。


 こんなこと考えてられる時間があるならリディアに謝りたかった。

 あんなに辛そうだったのに一緒に来てくれて、

 励ましてくれたのに。

 俺、何もできなかった。


 この後、彼女も死ぬんだろうか。

 誰も越えたことのない山でもいいからさ、

 逃げてくれないかな。


 リディアが死ぬのは、俺が死ぬより、なんかヤダ。


 死んだらもとの世界に戻るのだとしても、

 ぜんぜん嬉しくない。

 やっぱ夢だったって安心して、

 でもこのときのこと思い出して、きっと泣く。


 あれ? 泣くんだ。


 出会って半日も経ってないのに?

 口論して一回励まされたくらいなのに?

 そんなのまるで──


 イーライ・デウの半身が

 何かに食いちぎられるみたいに消し飛んだ。


 食べ残しのハンマーの欠片が麦畑に落ちて

 身体に感じるくらい揺れた。


 畑はダメだって。

 窒素が肥料になる前の時代って

 食糧事情マジキッツイんだから。


 ………じゃなくて、これどうなった?


 残ったイーライ・デウの半身が意外と柔らかくくにゃっと曲がり、

 横に倒れる。

 正面だったら終わってたな。


 地響きと舞い上がった土煙で何も見えなくなり、

 大歓声が沸き起こるのだけは微かに聞こえる。


 砲身を収納した白銀の籠手が応えるように腕を振ってて肩が痛え。

 調子に乗んな。

 こんなんできるなら最初からやれ。


 籠手に引っ張られて身体を起こすと、

 腸が下っ腹にずしんと来る。

 異物感がすごい。気持ち悪い。


 籠手は首輪抜けでもするみたいに

 上下左右に細かく動いてる。

 なんだなんだ、散歩する元気まではないぞ。

 関節に板が一枚噛んでるみたいに動かないの、わかれ。


 土煙を突き抜けてイーライ・デウのミニチュアが襲いかかってくる。

 ミニチュアっつっても俺よりでかい。

 それが斧を振り上げてる。


 かろうじて動かせた左腕で頭を庇った。

 籠手と斧が接触した瞬間、

 空気が震えてミニチュアの輪郭がぼやける。


 鎧の背中が割れて中身が全部噴き出す。


 ん? 中身?


 血とか肉とか骨、

 要するに人間を構成するもの全部。


 空っぽだった兜の中に恐怖に歪んだ人の顔。

 このミニチュア、人の身体を使ってる。


 やめとけ、そんなこと考えるの。

 

 でも考える前に見ちゃってるよ。

 そしたら考えちまう。


 人の身体使ってるのってミニチュアだけ?

 イーライ・デウの断面にぎっちり詰まってるのって、

 アレなに?


 我慢する間もなく吐いてた。


 籠手に引っ張られて右腕が前に突き出したままだから

 身体をあんまり曲げられなくて、

 だいぶ自分にひっかけた。


 そんでさ、ずっと聞こえてるこれ、歓声?


 細かく動いていた籠手が急にピタッと止まる。

 手のひらを一方向に向けて、狙いを定めるみたいに。


 籠手の向いた先には槍を構えたミニチュアの一群が

 俺に向かって突進してきてる。


 何する気だよ、おいちょっと待てって、

 武装選択させろ、スタングレとかそういうのだよ。


「やめろ、来るな、逃げろ」


 掠れて声になってねえ。


 俺は自分の右腕を殴りつけ、

 身体をひねって籠手を外そうとした。

 ビクともしねえ。

 しかも不機嫌な犬みたいに唸り始めた。


 手ごたえってのがあるんだよ。

 手の中でさ、ちょっと柔らかい小さな虫みたいなの、

 いっぱい潰れた。


 十人くらい?

 もっといたかな?


 そいつらがビー玉くらいになっちゃって、

 地面に落ちるときの音。

 鉄の塊が土にめりこむ、そんな音だった。


 呆然としてたら腰になんかぶつかった。

 いやこれ、俺の身体すげえ揺れてない?

 ぶつかったとかじゃないよ。


 いつのまにか側面に回り込んだミニチュアが

 鯉のぼりにでも使うのかってくらい長いハルバードを俺の腰に埋めてた。


 潰れた連中、あれ囮だったんだ。

 こいつらはちゃんとエリン様のことわかって戦ってる。


 この戦場で分かってないのは俺だけ。


 腰の後ろでパイプみたいなのがねじ切れる感覚があって、

 足が動かなくなった。


 なんで俺、ショックで失神しないんだ?

 なんで半分ちぎれかけた自分の腰を見てるんだ?


 足が動かなくなるのとほぼ同時にレガースの側面が開いてた。

 小指の爪くらいの大きさの楔がハチの群れみたいに飛び出す。


 無音でそのへん飛び回ってると思ったら、

 ハルバードのミニチュアの頭に当たって軽い音をたてた。


 角度が悪かったんだろうなあ。

 破裂したミニチュアの頭の中身、

 かぶっちゃったよ。


 沸騰したみたいに熱い血とか歯の欠片とか。

 口にも入った。


 俺の口、開いてる。


 ようやく、遅ればせながら、俺は悲鳴を上げてた。

 泣いてんだか笑ってんだかわからん声出してさ、

 やめてくれやめてくれって喚いてるんだ。


 一人殺せば犯罪者、百万人殺せば英雄、数が殺人を聖化する、

 なんて言うけどさ、じゃあ、神ならどんだけだよ。


 一人だって無理な俺が神の領域に踏み込んじまったら、

 そりゃもたないよ。

 いろいろとさ、もたないって。


 下を見れば血とか原形をとどめてないのとか流れてくる。

 前を見ればガントレット君とレガース君の乱痴気騒ぎ。


 上を見るしかなくて、

 そしたら空にそいつがいたんだ。


 カズラっていう祭服があるんだよ。

 ポンチョみたいなの。


 そいつが着てるのはそれに似てるんだけど、

 金刺繍がかろうじて残ってる程度でだいぶ汚れてて、

 擦り切れてるけど綺麗だった。


 背中には錆びたブリキでできた翼。


 すぐにわかった。

 こいつが『狂乱の天使』だ。


 顔なんかただの白磁の焼き物みたいで、

 目には何も入ってない空洞。

 中は真っ暗。


 でもちゃんと俺を見てるのがわかった。

 見ててくれてた。


「助けてくれ。天使なんだろ?

なあ、俺を、こいつを今すぐ止めてくれ」


 気づいたらすがっていた。

 自分が何を望んでいるか、

 よく考えもせずに懇願した。


 天使は狂ってなんかいない。

 慈悲深い。

 俺よりも俺の望みをわかってる。


 指先から一筋の光が俺の額に落ちてくる。


 あ、たぶんこれ、レーザーポインタだ。


 さすがにこれはヤバいんだろうね。

 ガントレットが瞬時に虐殺をやめ、

 天使に向けて砲身を出す。


 レガースはパネルみたいなものを展開して

 俺の身体が浮いた。


 撃ちあいってほど派手なもんでもなかったな。


 ただガントレットから照射されたレーザーが

 天使のを飲み込んで太くなって、

 天使の左腕と翼が一枚、食いちぎられた。


 磁器の顔にひびが入って、

 染み出した水が一滴。


 降ってくる雨の最初の一粒みたいに俺の頬に落ちた。



 帰ってったよ、狂乱の天使。

 イーライ・デウの残骸もミニチュアもみんなほっぽって。


 俺を見捨てて、俺を置き去りにして。

 そのくせ自分が傷ついたみたいな寂しい背中で。


 ミニチュアはもうほとんど残ってなかったけど、

 ガントレットとレガースは最後の一人まできちんと面倒を見た。


 千切れそうな腰から下と上半身がぶらぶらと互い違いに揺れて、

 それに合わせて俺の頭も揺れてた。


 むせ返るような血と、ビニールが溶けたみたいな臭いがひどくて、

 吐いても収まらない吐き気にずっと耐えてた。


 あとはなんだろう?

 泣いてはいなかったと思う。


 だけど壊れた蛇口みたいに、

 ずっとどっかから嗚咽が漏れてた。

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