希望の界隈Q

高秀恵子

第1話 Q界隈とは?

 朝の太陽が、俺を苛むように黄色い。それでも俺は指を口奥深くに突っ込んで手近な溝に胃の中のものを吐く。営業終了後の店々が掃除をする際に流す洗剤混じりの水が、俺の汚物を包み、下水道へと消えていった。

 毎朝の嘔吐は俺にとって快感となっている。

 Q界隈の表通りにはサパークラブや明け方までやっているセクシー居酒屋も多く、「不夜城」と呼ばれている。しかし明るい太陽の下では界隈は埃っぽく、固くシャッターを降ろした店がひしめき、安いラブホやスナックを改装したガールズバーの看板が、動画で見る昭和めいた雰囲気を醸しだしていた。

 昔はこういう街には野良犬が多かったらしい。路上の吐物を食料にして生きていたという。今は野犬は、この界隈にはいない。そしていかにもヤンキー然とした若者も。

 チェックのミニスカを履いた、女子高生風の成りをした女が、夜勤明けのガタイのいい労働者にしつこく声をかけて絡んでいる。労働者は、アフリカ系の血が混じったブラジル人のようだ。女はこの界隈から歩いて40分ほどの所にある底辺高校の生徒で、たぶん20歳を過ぎているだろう。この高校は3部制の単位制・定時制高校なので、18歳を過ぎた年増な高校生も多い。

 俺は近くのショーウインドウに写る姿を眺める。言っちゃ何だが俺はフィリピン人とのハーフなので、二日酔いして浮腫んでいても面構えは美しい。ただ、俺の通う高校の濃紺の上下のスーツと濃い緑色のネクタイが、この街に似合わない。制服は下着も合わせて3日間も着っぱなしでヨレヨレになっている。俺は寝具代わりにしていた段ボール紙を電柱の傍に置いた。秋の朝の風は冷たい。

 今さら学校に戻っても、なるのだろう。

 俺はQ界隈に通うようになってからこの3日間、家に帰っていない。酔ったまま、在籍している中堅自称進学高校へ行き、保健室で気分が悪いと言う理由で昼寝をさせて貰っている。

――五百蔵星斗いおろいせいとさん。君は本来は自宅謹慎なんだよ。だが家にいるとますます悪くなるのは目に見えている。それで学校謹慎にして、通学を許している。なのに何だ、放課後にはバイトをしてあげくバイト先の先パイと一緒に飲酒して二日酔いで通学か! 昔なら体罰を受けてただろうよ!

—―君の保護者にも電話やメールで連絡をしている。が、保護者からの返事は来ない。このままじゃ君の保護者がネグレクトをしていると児童相談所に通報してやる。

 さらにいつものようにこう言うだろう。

—―五百蔵さん。君の苗字は変わっているね。お父さんはどこ出身なんだ?

 この質問が俺には一番腹立たしい。親父がこの県出身者ではない、他所からの流れ者だと当てこすって言っているのだろう。

 俺は制服の上から通学リュックを担いでバス停に向かった。リュックの中身は何日も前と変わっていない教科書が入っている。それとバイト先の制服も。

 Q界隈は、別名「リトル東ヨコ」と呼ばれている。が、TOHOシネマズの映画館があるのではない。Q界隈は東京の「東ヨコ界隈」のように、コロナ禍で行き場のない若者達が外飲みをやり始めた場所で、いつの間にか、家にも学校にも居場所のない10代がたむろする街となった。集まるのにちょうどいい、雑居ビル跡の空き地もある。

夜は賑やかでいろいろな色の飲み物のアルミ缶が道端に並び、上半身裸で奇異な声をあげる若い男や、深夜2時を過ぎても車座になっておしゃべりを続ける女の子がいて、大勢の若者でにぎわっていた。歓楽街であり風俗街でもあるQ界隈は、県下の太平洋ベルト地帯の工業地帯であるR街と隣接し、肉体労働者、とりわけブラジル人労働者も集まる場所でもある。

 警察はたまに見回りにやって来るが、大麻や違法ドラッグ売りを捕まえるのが関の山で、若者達には「早く家へ帰りな」というぐらいで放置されている。

 それにしても夜はあんなに沢山居た若者達はどこへ消えたのだろう? カネがあれば昼間のネットカフェや、P町の勤明け労働者を泊まらせる安宿で寝ているのだろうか? それとも「先パイ」の所で泊まらせてもらっているのだろうか?

(俺はどこへ行こうか……)

 高校の保健室で過ごす手もある。しかし3日間も同じ服を着ているのは俺だって気持ちが悪い。俺は家に帰るためにバスを待とうと思ったが、その前にドラッグストアでエチケット袋を買う必要がある。バスの中で吐かないぐらいの良識が俺にはあるのだ。

 家に親父が居るのかどうか分からない。親父は風俗業を―― 一番、資本の要らないデリヘルを――やっていて、時々、嬢の「面接」や「研修」のために家にいることがある。俺がそのタイミングに居たら邪魔だろう。俺は賭けをするような気持ちで自宅に戻ることにした。家でシャワーを浴び、洗濯をし、そして仮眠をする。夕方5時になればバイト先の中華飯屋へと急ぐ。俺は今日1日をそう過ごすことにした。謹慎中になっている学校には、気分が悪いので休む、とメールを打った。

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