第28話 乙女の煩悩

 アイネを信じたい心とは裏腹に『楽しいから』という理由だけで場を混乱させる発言が過去にもあったため、イリスは迂闊に信用できないという複雑な心境に陥っていた。


 そんなイリスの心配をよそに、老眼であろう老人の眼前にアイネが何かを提示した。


「はい、これ証明書」


 まさか偽造? 


 イリスは偽造犯罪では……と平静を装いつつ、内心そわそわとして、心に冷や汗をかくようだった。

 その気持ちを汲み取ったレイが囁くように告げる。


「心配ない。あれは本物だ」


 イリスが振り向くと、僅かに微笑んだレイと目が合った。


「魔術師協会認定の証明書……ぐぬぬ、間違いない」


 老人は悔しさを滲ませ、口を閉ざした。


「それじゃあ今度こそ、私達はこれで〜」


 アイネは勝ったといわんばかりに、ほくそ笑んだ表情でイリスとレイに手招きをした。


 我が母ながら、とんでもなく性格が悪いな。


 イリスは老人相手に舌戦を繰り広げた末、丸め込んだ感じになってしまい、なんだか申し訳ない気持ちになっていた。


 老人の視線を背中に感じながら、暫く無言のまま歩いた。

 ルカ達の姿が見えなくなったことを確認したイリスは、気になっていたことをアイネに問いただした。


「なんで魔術師の仕事で来たって、嘘ついたの?」


 アイネは周囲を探るように視線を左右に振る。


「宿に着いたら話す。今、見られてんのよねー」


 そう言われたイリスも注意深く見回すと、町人に混じって複数の視線が向けられていることに気が付いた。


「あの人達は?」

「恐らく、カトレアの治安を担ってる軍部の人間か何かだと思うけど私服だから断言できない」


 レイも表情はそのままに、視界に入る軍人と思しき男を視認していた。


「確認できるだけで五人。そのうち一人は、ルカを引き渡した時の集団にもいた」

「うーん……鬱陶しいから撒くか! レイ君行ける?」

「はい」


 レイはイリスを抱き上げると、アイネと二手に分かれた。予め打ち合わせをしていたかのように軽快な動きだった。

 後を追っていた軍人らしき数名の人物は、どちらを追うべきか咄嗟の判断に迷ったため、初動が遅れる。

 レイはその一瞬で大きく距離を離す。人けが少ない場所までイリスを抱えて移動すると、喧騒が過ぎるのを待った。


 レイは外套のフードを外し、獣耳をぴんっと立てると、周囲の音から情報を得るために神経を研ぎ澄ませて目を閉じた。


「ここまで来れば大丈夫そうだ」

「びっくりした……母は大丈夫かな? いや、大丈夫だよね。心配するだけ無駄な気がする」

「恐らく、ここにいる誰よりも戦闘慣れしていると思う」


 心配する方が烏滸がましい気がしたイリスは、考えることをやめた。


「どうやって合流しよう?」

「想定していたパターンの一つだから、問題ない」

「えっ、そうなの?」


 イリスだけが知らされていなかった。


「この国に入る前に幾つかのパターンを決めていた。さっきも、アイネさんのサインがあったから二手に分かれたんだ」


 抜かりのないアイネとレイの準備に、ただただ感心するイリスだった。


「もし分かれて動くことになった場合、今日泊まる予定の宿で合流することになっている。ここからだと、そう遠くない」


 そういうと、レイは背負っていた荷物を下ろして中から帯状の布を取り出した。


「イリスも同じような布を持っているだろう?」

「うん。でも、これ何に使うの?」

「現地の人に馴染むための物だ」


 母アイネに言われ、荷物と一緒に詰めてきたものの、使い方がわからない。


 レイがイリスの目の前に立つと、不意にイリスのフードが外された。

 日差しが遮られ、レイの影が落ちる。

 イリスの顔に優しく布が触れたかと思えば、気づいた時にはイリスの頭から首にかけてレイが器用に布を巻き終えていた。

 久々に間近まで迫ったレイの顔は、額の汗すらも眩く、陽の光がレイの顔の陰影を映し出し、美しさを際立たせていた。

 イリスは熱風に撫でられたことも相まって、顔が熱くなるのを感じた。


「ん? 大丈夫か、イリス? 顔が赤い。熱でもあるのか?」

「だ、だだ大丈夫! 巻いてくれてありがとう」


 イリスは忘れていた。

 レイが、無自覚に人たらし行為に及ぶ人間だということを。


 あっ……ぶなかったー! 私だから我慢できたけど、他の女人なら襲いかかるレベルだよ。


 意外と肉食なイリスは、律した己を褒め称えた。

 イリスはくるっと背を向け、大通りを指差した。


「えっと、あっちから行けばいいのかな?」

「いや、こっち……」


 レイが一歩前に出ると、自然な動作でイリスの手を引く。

 せっかく落ち着いたイリスの心臓が、また忙しなく波打つのだった。


 レイの温もりに意識が向いている間に、気づけば目的の宿屋の前まで辿り着いていた。


「……リス、イリス!」


 レイの何度目かの声掛けに視線を上げると、心配そうな瞳をしたレイの顔があった。


「本当に大丈夫か?」


 言えるわけがない。レイの温もりから妄想に耽っていたなんて………言えるわけがない。


 イリスはしっかりと目を瞑ると、心頭滅却し煩悩を捨てた。

 宿屋の中にアイネがいると思えば心は凪ぎ、地に足が着くように現実世界に戻ることができた。


 ありがとう、魔お……母よ。煩悩は完全に消えました。


 イリスは心の中で感謝を述べると、目の前にある宿屋の扉を開いた。

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