やる瀬が無い話

仲瀬 充

やる瀬が無い話

「上はカッターシャツにネクタイなのに下はパンツいっちょうか、ズボンはどうしたんだろう」

「警部、着ていたスーツは上下とも壁のハンガーにきちんと掛けてあります」

「泥酔していたっていうのにそいつは妙だな。気にはなるが検視官が事件性はないって言うんだから引きあげるとするか。すえた匂いで俺も吐き気がしてきた」


・・・・・・・・・・・・・・・


「よかった…」

福田亮太は掲示板に自分の受験番号を見つけてホッとした。地元の公立高校一本に絞っての受験だったのだ。数日後の入学手続きの日は母親と二人で学校に行き、帰りに駅前の大衆レストランに寄った。

「今日は何でも好きなものを食べなさい」

亮太はメニューを遠慮がちに母親に向けた。

「これでもいい?」

指さした「和牛ステーキご膳」は2千円近くする。

「いいよ」

いつもなら千円未満のものしか頼まないようにしている亮太は合格の喜びを噛みしめるようにゆっくりと味わった。レストランを出ると母親は家までのバス代を渡した。

「ちょっと用事があるから先に帰ってて」

そう言って駅の方へ歩いて行ったのだがそれが亮太の見た母親の最後の姿だった。


 父親は自分の妻の失踪にうろたえもせず行方を探そうともしなかった。いなくなったわけは亮太には分からなかったが父親に確かめるのは憚られる気がした。

「亮太はお父さんのこと好き?」

何か月か前洗濯物を畳みながら母親が聞いてきたことがあった。

「特別好きでも嫌いでもないよ。なんで?」

「別に。でも嫌いじゃないならよかった」

奥歯にものが挟まったような言い方だった。父親に何か問題があるのかと思って亮太は同じことを聞いた。

「母さんは?」

母親は畳みかけの手を休めて遠い目をしたまま何も言わなかった。


 母親がいなくなっても父親は毎晩静かに酒を飲んだ。ただ酒量が増えて仕事帰りに外で飲んでくることも多くなった。可燃物の回収日に当たっていたある日、亮太は父親の部屋に入った。すると銀行の通帳がゴミ箱に捨ててあった。その通帳は母親が積み立てていた亮太名義の学資保険で、開いてみると全額が引き落とされ解約されていた。母のパートの収入がなくなったので経済的に苦しいのだろう、亮太はそう思いながら個人情報に当たる部分だけハサミで刻んで通帳をゴミ袋に入れた。


 とび職の朝は早い。入学式の日、亮太が起きると父親は仕事着のニッカズボンをはき終えたところだった。

「もう高校生なんだから飯は自分で食べるようにしろ」

そう言って千円札を1枚手渡して仕事に出て行った。その日、亮太は下校すると近くのスーパーで野菜と食パンを買った。キャベツ、ピーマン、玉ねぎ、それにソーセージを加えた野菜炒め、あとはご飯とインスタントのコーンスープ。これが高校生活1日目の夕食だった。以降も父親は毎朝亮太に千円札を渡し、自分は酒の臭いをさせて遅く帰った。


 亮太は大ざっぱに方針を決めた。父親が飲まずに帰ることも考えて夕食のおかずとご飯は多めに作る。結果としてそれはたいてい翌日の父の朝食になったのだが。作るのが面倒なときはスーパーで割引きの弁当を買うかカップ麺ですませる。朝はトースト1枚、昼も学校の購買部で惣菜パンを1個買うだけにした。切り詰めて小遣いを浮かせたかったのだが少し貯まると米代や文房具代に消えていった。お金がないため部活動はもちろん友達付き合いもままならない。2年、3年と学年が上がるにつれて亮太の成績は順調に伸びていったがそれは家に帰っても授業の予習復習くらいしかすることがなかったからだ。3年生の2学期になって進路決定の3者面談で担任は熱心に亮太の父親に進学を勧めた。

「とびの息子に学問はいりません」

父親の前時代的な返事は亮太の予期したとおりだった。担任が「もったいない」という言葉を何度繰り返しても父親は聞く耳を持たなかった。学資保険はとっくに解約されていたし亮太自身も進学にさほど未練はなかった。


 高校卒業に当たって亮太は就職先を近県の工務店に決めた。外壁塗装の会社だが寮があるので生活費が抑えられる、それが決め手だった。3月下旬に会社から誓約書や身上書その他の書類が届いた。

「父さん」

「うん?」

「入社式の服装はスーツでって書いてあるんだけど」

肘枕でテレビを見ていた父親はのそりと立ち上がると洋服ダンスを開けて物色した。そして白く細い縦じまの入った紺色のスーツを選び出してハンガーごと亮太の前に置いた。

「これをやる。スーツのクリーニング代は高いから汚すなよ」

「ありがとう」

さっそく着てみたが上着の袖とズボンの丈が少し短い。父親より身長が高いせいだがおかしいほどではない。お下がりとはいえ亮太は初めてスーツを身に着けて笑みがこぼれた。

「似合うかな」

気恥ずかしくて独り言のような口調になった。

父親はちらと横目で見たが何も言わずに視線をテレビに戻した。


 3月末日の朝、亮太は顔を洗っている父親の背中に声をかけた。

「じゃ父さん、行くから」

電車とバスを乗り継いで昼過ぎに会社に着くと社長にあいさつをしたあと寮に向かった。寮は歩いて行ける距離にあり年配の寮母が迎えた。

「1階は食堂と厨房とあたしの部屋、それにお風呂なんかの共用スペース。部屋には簡単なキッチンとトイレはあるけどお風呂はないからね。2階が居室で福田くんは一番奥。いい部屋だよ、花見もできる。荷物が片付いたらあたしの部屋においで」

夕方に着くというもう一人の新入社員も含めて入寮者8人は全員独身とのことだった。鍵を渡された亮太は208号室に入ると思わず「おお!」と声が漏れた。寮母が言ったとおり庭の桜が満開で窓を開ければ枝に手が届きそうだ。宅配便で送っておいた荷物は室内に運びこまれてあった。まず「衣類」と書いた段ボール箱からスーツを取り出した。明日朝から着ていくのでしわにならないよう丁寧にハンガーに掛けて壁に吊るした。段ボール箱三つの荷物の整理はすぐに終わった。


「福田ですけど」

亮太は管理人室のドアをノックした。寮母はお茶をいれて亮太を炬燵の差し向かいに座らせた。寮の規則を話し終えると寮母は老眼鏡をかけて亮太の身上書のコピーを見た。

「あんた、お母さんはいないんだね」

「いなくなりました」

「いなくなった? お父さんが女でもつくったのかい?」

「よく分かりませんがたぶん逆だと思います」

寮母は眼鏡を外して亮太を見た。亮太は問われるままに両親のことを話した。

「ふうん。お父さんに女もお金の問題もないんなら虐待だろうね」

「いえ、父さんが手を上げるのは見たことないです」

「そりゃ本物のDVだろ。あたしが言うのは無関心っていう冷たさだよ」


 父は母に無関心だったんだろうか。思い起こせば僕も父に叱られたことがないかわり褒められた記憶もない。それは冷たいということと結び付くんだろうか。とび職のイメージとはかけ離れて父は感情の起伏がほとんどない人間だ。父の影響なのか僕も喜怒哀楽を遠慮がちにしか出せない。そんな僕や父を母はどう思っていたんだろう。居たたまれなくなって出て行ったんだろうか。亮太には父親の気持ちも母親の気持ちもよく分からなかった。

「どうしたんだい? ぼうっとして」

「あ、いえ、無関心が虐待になるのかなって思って」

「あたしは殴られるよりもこたえたね。家事をする便利なロボット、旦那はあたしのことそれくらいにしか思ってなかったんだ。ありがとう、すまない、そんな言葉一度もかけてもらったことなかったよ。飯を食わせてやってるって思いがあるから自分の冷たさが分からないんだね。あたしもずっと気づかなかった」

「え?」

「今でも思い出すよ、居間でお茶飲んでたら旦那がふすまを開けて入って来た。そしたらあたしは用事もないのに無意識に立ち上がっちゃったんだよ。冷たいすきま風が入って来たようにゾクッとしてね。そのとき初めて気づいたんだ、この人とはもう一緒に暮らしていけないって。結局人を愛するってことが分からない人だったんだろうよ、かわいそうに」

最後は他人ごとのように呟いて寮母は窓の外に目を向けた。その横顔を見て亮太は母親も遠い目をして黙りこんだことがあったのを思い出した。


 亮太は散歩に出てみた。会社と反対の方向に歩くと人家がまばらになり川が流れている。川の土手が黄色く見えるのは一面の菜の花のせいだ。老人たちが土手ぞいの道をウオーキングしていてすれ違うときにあいさつの声をかけてくる。いい町に来たと思った。亮太は散歩を切り上げて部屋に戻ると腕組みをして壁に掛けたスーツと窓の外の満開の桜を交互に何度か見た。明日からの社会人としてのスタートに力がみなぎる思いだった。じっとしていることができず部屋の掃除を始めた。部屋を掃き終えて窓を拭いていると車が数台、敷地に入って来るのが見えた。寮住まいの社員が帰って来たのだろうと思って見下ろしていると部屋のドアがノックされた。ドアを開けると流行りのしゃれた髪型をした若者が立っていて、やあという感じで軽く片手を挙げた。

「君が福田くん? 僕、203号室に入る竜崎、よろしく。新入りどうし仲良くやろう」

そう言うと手に提げている紙袋からリボンで結ばれた小箱を取り出した。

「これは?」

「引っ越しのあいさつ。母さんは洗剤なんかがいいって言ったけどダサいからチョコレートにしたんだ。じゃまたあとで」

竜崎はそう言って出て行ったがすぐに隣室のドアをノックしている音が聞こえた。自分もあいさつに回った方がいいのだろうか、亮太は悩んだが竜崎のあとに手ぶらで訪ねるのは気が引けた。食堂での夕食で全員がそろうと亮太と竜崎は寮母に促されて6人の先輩社員に自己紹介をした。心なしか亮太の耳には竜崎への拍手が大きい気がした。明日が全体の歓迎会なので今日は軽く乾杯だけということでビールの栓が抜かれた。田舎町だからなのか寮母をはじめ誰も亮太たち未成年の飲酒を問題にするふうはなかった。


「もしもし」

「はい……」

電話に出た父親の声は眠たげだった。

「ごめん、寝てた?」

「なんだ亮太か、何か用か」

「いや特に。無事に到着して寮にも落ち着いたから連絡しとこうと思って」

「明日から仕事だろう、給料日は何日だ?」

「25日」

「家のローンがきついから月々いくらか送れよ」

「分かってる。それじゃ切るよ、おやすみ」


 翌日4月1日、亮太は始業時からの入社式に臨んだ。亮太と竜崎は20名余りの社員の前でまたあいさつをさせられた。式は短時間で終わり社員の殆どは現場に出て行った。亮太たち二人は事務室に書類を提出したりまた別の書類を書かされたりした。そのあとは支給された作業着に着替えて倉庫で足場の組み立て方や塗料の種類などのレクチャーを受けた。そして1日の勤務が終わると町の割烹店の座敷を借り切っての歓迎会。亮太たちは主賓ということで今度は作業着からスーツに着替えて会社から直行した。

「福田、一杯いこう」

最年長の社員が銚子と盃を持って亮太の前にあぐらをかいた。

「僕、まだ18ですから」

「なに言ってんだ、俺なんか中学出て働き出したときから親父の晩酌の相手をさせられたもんだ。ほら飲め」

「じゃいただきます」

「明日から現場だが高所恐怖症じゃないだろうな」

「大丈夫です、頑張ります」

「当分は雑用だが経験を積んで早く塗装技能士の資格を取れよ。ところでお前、渋い背広を着てるな」

亮太は隣りに座っている竜崎をちらっと見た。

「竜崎くんにはダボっとしてるって言われたんですが僕は気に入ってるんです。親父のお下がりなんですけど」

「どうりでな。昔はそんな縦じまのが流行はやったんだ」


 亮太と竜崎の前には入れかわり立ちかわり社員たちがやってきてビールや酒をいだ。宴が盛り上がると寮母が座敷の隅から移動式のカラオケ機器を引っ張り出した。そしてカラオケ大会を仕切り出し、まず社長、その後は年齢が高い順に指名していった。亮太も皆に合わせて手拍子をしながら聞いていたが酒が回ってどんどん気分が悪くなってきた。トリは新入社員ということでまず竜崎が男性アイドルグループの歌をステップを踏みながら歌って喝さいを浴びた。最後は亮太の番だが寮母に促されて立ち上がると体がふらついた。

「ほら大トリなんだからシャンとして! 何を歌うの?」

「『二輪草』ってありますか?」

ずっと昔親戚の寄り合いで両親が歌っていた記憶があった。

「若いのに歌謡曲でいくのかい? いいねえ、まかしとき」

デュエット曲なので寮母も張り切ってマイクを手にした。曲の最後の「二人は二輪草~」というところで寮母はピースサインのように指を2本立てて亮太を見た。つられて指を出したとき父親と母親も同じポーズで顔を見合わせて歌っていたことを亮太は酔った頭の奥で思い出した。


・・・・・・・・・・・・・・・


 翌日の朝、亮太の死を警察に通報したのは寮母だった。

「食堂に降りて来ないから会社に遅れると思って呼びに行ったんですよ」

鍵はかかっておらずトイレのドアが開いていて倒れている亮太の脚が目に入った、あわてて上がりこむと亮太は吐いた汚物にまみれてトイレの床にうつぶせに倒れていたと寮母は刑事に言った。昨夜一緒に帰って部屋に担ぎこんだ隣室の先輩社員も事情聴取を受けた。

「ふらふらしてて息づかいが荒かったんで大丈夫か、病院行くかって聞いたんですけど福田がこうしたんで僕も自分の部屋に引き上げたんです」

社員は顔の前で右手を2、3度横に振るしぐさを見せた。そして、亮太がうめいたり吐いたりしている気配が壁ごしに伝わってはきたが自分も酔っていたので寝入ってしまったとのことだった。その証言が裏付けるように、急性アルコール中毒で嘔吐おうとを繰り返すうち吐瀉としゃ物が気管に詰まっての窒息死、これが臨場した検視官の見立てだった。

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やる瀬が無い話 仲瀬 充 @imutake73

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