大陸暦1962年――初めての笑顔


 話が終わったあとマクレアがまだ仕事が残ってるということで、私たちはシンたちに送られて一緒に修道院へと戻った。

 裏門から入り外庭でマクレアと別れてから私は自室へと足を向ける。その足取りは心なしか重い。ユイと顔を合わせるのを気まずく感じている所為だ。

 でもユイは私がマクレアから事情を聞いたことは知らない。だからなにも知らない振りをしていつも通りにしていればいい。

 私はそう自分に言い聞かせると、深呼吸をしてから自室の扉を開けた。


「おかえりなさい」


 すかさず言葉で出迎えたユイの顔はいつも通りの無表情だった。


「ただいま」


 私は気まずく感じながらも平常を装って挨拶を返す。

 ユイはベッドに腰掛けていた。その膝には本が開かれている。寝間着を着ているのでお風呂から上がってずっと本を読んでいたのだろう。

 私はさっさと支度をすると「お風呂に行ってくる」と言ってまた自室を出た。

 そしていつも出かけたときのように手早くお風呂を済ませて自室に戻ると、ユイは変わらず本を読んでいた。でもその手にある本は先ほど読んでいたものよりは小さい。今日マクレアのお使いで受け取りに行った本だ。

 私はユイの机の上に置いてある蛙の置物を一瞥してベッドに寝転がる。捨てずにちゃんと飾ってくれていることに少し嬉しく感じながら天井を見る。横からはページをめくる音が聞こえる。その音を落ち着かない気持ちで何度か聞いたあと、私は口を開いた。


「ねぇ」

「はい」ユイが本から顔を上げる。

「その本、マクレアに頼まれていたやつよね」

「はい。先ほど殿下がお風呂に行かれたときに先生がいらしたので、渡したら貸して下さいました」

「そう」


 もしかして最初からそのつもりで取り寄せたのだろうか。歌が好きな――と私は感じる――ユイのために。

 そういえばマクレアって結構ユイのこと気にかけてる感じはあるのよね。夜市よるいちのこともそうだし、二人で話しているのを見ても私に接するよりは表情が柔らかい気がする。まぁ、あんな過去を知っていれば誰でもそうなるのかもしれないけれど。


「面白い?」

「どうでしょうか」


 自分が面白く感じているかどうかもわからないのか……。


「そういえば歌って誰に習ったの?」

「母です」

「そう、なんだ」


 だから、だろうか。私のピアノを聴いて泣いていたのは。

 私がお母様が亡くなって初めてピアノを弾いたときのように、ユイもお母様のことを思い出して泣いていたのだろうか。

 ユイはまた本に視線を落とす。

 相変わらず無表情で本を読んでいる。

 このように彼女が人形みたいなのには、なにかしらの理由があるのだろうとは思っていた。

 でもそれがお母様との約束を守るため――生きるためという重い理由だとは思いもしなかった。

 だけどユイにはもうそれを守るつもりはない。

 ――いや、違う。守るつもりがないのではない。守るのが辛くなったのだ。

 一人生き残ったことに、感情を殺してまでも生きなければいけない状況に、心が限界を感じたのだ。

 ユイが自分の感情を自覚できなくなったのはおそらくその影響だろう。心がユイを守るためにそうしたのだ。辛さや痛みを自覚して彼女が心を壊してしまわないように。

 それでも、なにも感じなくなったとしても、その想いだけは忘れることが出来なかったのだと思う。

 ユイが一度は願った――この状況を終わらせたいという想いを。

 でもユイには自分で自分をどうにかすることが出来なかった。

 もうお母様との約束を守るつもりがないと思いながらも、もう自分がいつどうなってもいいと思いながらも、自らこの状況を打開することが出来なかった。

 それはおそらくお母様の言葉が彼女を縛りつけているからではないだろうか。

 娘のことを思って、生きていて欲しくて言った言葉が今のユイにはある意味、呪いになってしまっているのではないだろうか。

 どんなに心が悲鳴を上げようとも、生きなければいけない呪いに。

 だからだと思う。

 ユイがマクレアに全てを打ち明けたのは。

 自分の身が危険に晒される可能性のある行動に出たのは。

 自分で自分をどうにか出来ないのならば、自分以外の誰かがどうにかしてくれることを期待して。

 この状況から誰かが自分を救ってくれることを――自分を殺してくれることを期待して――。


「すみません」


 ユイが唐突に謝ってきた。


「え、なにが」

「私の言ったことを殿下が気にされていたので私のことを話したと、先ほどマクレア先生が仰っていました」


 言うんだ。


「私が余計なことを喋ったばかりに。すみません」

「謝らないでよ。訊いたのは私だし……でも貴女、マクレアに人に話してはいけないと戒められてたんじゃないの?」

「はい」

「なのにどうして喋ったのよ」


 その疑問にユイは答えず、視線を下げた。


「マクレアに話したときと同じ気持ちで、話したの?」


 少しの間ユイは黙っていたけれど、やがて「いえ」と首を振った。


「その気持ちはなかったように思います」


 違うんだと安堵する。そういうのを期待されるのはやっぱり嬉しくないから。


「それならなんで」

「……わかりません」


 わからない、か。


「本当、わからないことだらけね、貴女」

「そうですね。殿下がいらっしゃってから増えた気がします」


 私は上体を起こしてベッドの上でユイに向き直った。


「それはきっと、私に腹を立ててるのよ」

「腹を」

「シンが言ってたでしょう? 私が貴女の静かな生活を乱しているから腹を立てているのよ」

「そう、なのでしょうか」

「そうよ。あ、流石に全部が全部そうだとは言わないけれど。でもとにもかくにも、貴女がわからないと感じるのは感情が動いてるときだと思うの。だからそういうときはもう少し、突き詰めてみたら? 自分のことを」

「自分を、突き詰める」

「そう。自分のことがわからないって結構、精神的緊張ストレスだと私は思うのよね。だって勉強でもなんでもわからないことがわからないままなのって気持ち悪いでしょう? あぁ、それもわからないのか。気持ち悪いのよ。それと同じで感情も自覚できないとやっぱり気持ちが悪いんじゃないかしら。とはいえ自覚していてもその感情を消化できなければ、それはそれで気持ちが悪いんだけれど」


 私のお父様に対しての感情のように。


「まぁ、貴女の場合はそれ以前の問題だし、そのわからない状態ってよくないと思うのよね」


 たとえ心がユイを守るためにそうしているとしても、自分が感じていることがわからないのはやっぱり健全な状態とは言えない。それに消化できない感情が溜り続けていては結局、心に負担がかかるだろうし、そんな状態をいつまでも続けていたらきっといいことにはならない。


「だからすぐにわからないって結論を出すのではなくて、今後は少し考えてみたら?」


 そうして少しずつでも自分がわかるようになれば、その感情を消化できるようになれば、心の負担も軽くなるはずだ。そしていつかは辛い過去を乗り越えて、生きることにも前向きになれるかもしれない。


「……どうして」ユイがぽつりと言った。「どうして殿下はそのようなことを仰って下さるのですか?」


 そう不思議そうに問われて、私は自分が言ったことが急に恥ずかしくなった。


「別に意味はないわよ」


 だからついぶっきらぼうに答えてしまう。


「意味はないのにどうして」

「だから意味はないって」

「なのにどうして」

「あーもう! わからないっての!」


 ユイがわずかに目を開いた。


「私だって自分でもなんでこんなこと言ってるのかわからないの!」

「殿下でも、自分の気持ちがわからないことがあるのですね」

「そりゃあるわよ。人間の心っていうのは複雑怪奇なんだから。自分のことを全部わかってる人なんてそうそういないの」

「そうなのですね」

「そうなの」私はベッドから下りる。「ほら、行くわよ」

「どこに」

「どこって決まってるじゃない。礼拝堂よ」


 ユイが夜に眠れない原因はもうわかっていた。

 ベッドに入って眠れない時間を過ごすことがどんなに辛いかは私も知っている。

 そういうときは色々と思い出したくないことも頭に浮かんでくる。

 それならばベッドに入る前に少しでも気が紛れることをしたほうがいい。

 ユイは瞬きしてこちらを見上げていたけれど、やがてうなずいて立ち上がった。

 外に出ると、夜風が肌を撫でてきた。

 お風呂で火照った体に、秋の夜風は心地良い。


「ちょっと涼んでいい」

「はい」


 二階の手すりに腕を置いて周囲を見る。

 そこから見える中庭にも、通路にも、まだ見習いの姿がある。

 消灯時間はもう過ぎているけれど、夜市よるいちの間は消灯時間が一時間ほど遅くなっている。夜市よるいちに行った見習いの戻りが遅くなるためだ。だから見習いたちはギリギリまで特別な夜を楽しんでいる。聞こえている声もどことなくいつもより楽しそうだ。

 レスト修道院にいたころは、この雰囲気が好きではなかった。

 自分の気も知らず楽しそうにしている回りにきっと……嫉妬していたのだろう。

 でも去年、シンたちと夜市よるいちに行ってその気持ちは変化した。

 浮かれるみんなの気持ちが、やっと理解できた。

 そして今、この雰囲気を私は受け入れられている。

 ユイのことを知ったあとでそんな気持ちになるのは悪い気がするけれど、でも言いたいことを言ったことにより、夜市よるいちのあとからもやもやしていた気持ちは大分晴れていた。

 でもそれは自己満足ではある。ユイにしてみれば私が事情を知ったことでなにかが変わったわけでもないし、なにも解決はしていない。

 それでも少しは私の言ったことを気に留めて、彼女が前向きになってくれたらいいなと思う。

 どんな理由があっても、死を救いと考えるのは悲しいことだと思うから――。

 しばらく風に当たっていると、隣に立っていたユイが「殿下」と呼んだ。


「なに?」


 ユイを見る。彼女の真っ直ぐな髪が夜風で揺れている。


「ありがとうございます」

「お礼を言われる意味がわからないんだけど」

「私にもわかりません」

「なによそれ」


 わからないのにお礼を言うのがなんだか可笑しくて、思わず笑ってしまう。

 笑って、そして目を見張った。

 ユイは、笑っていた。

 ほんの僅かだけど、目を細めていつもより口端を上げている。


 それは私が初めて見た、ユイの本当の笑顔だった。


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