大陸暦1962年――偉大な先祖


 昼食後の休憩時間、私は自室のベッドに腰掛けて寝転がりながら天井を眺めていた。

 年代を感じる白い天井には細かな染みがいくつかある。部屋の間取りや家具は以前にいたレスト修道院と同じでも、その天井の染みは違う。範囲や模様が微妙に異なる。そのことに最初は違和感を覚えて落ち着かなかったけれど、一月ひとつきも経てばすっかり見慣れた光景となった。

 それはこの天井だけではない。

 私は視線を横に移す。そこにある机の前にはユイが座っている。彼女は姿勢よく静かに本を読んでいる。最初は違和感しかなかった彼女の存在も、最近ではもう当り前のようになってきている。相変わらずの塩対応ならぬ人形対応で、どこまでも付いてくるけれど、それに苛立つこともほとんどなくなった。ほとんどだ。全くとは言わない。

 人間は適応力のある生きものだっていうのをなにかの本で見たことあるけれど、まさに今それを実感している。本当、慣れっていうのは怖ろしい。それでもベッドの硬さにだけはいつまでも慣れないのは何故なのだろうか。

 私はユイを窺う。目だけが文字を追うように動いている。

 隙間時間や自由時間、ユイは本を読んでいることが多い。題名からして小難しそうな本を。

 最初のころはなにもせずこちらをじっと見ていることが多かったユイも、半月ぐらい経ってからは本を読むようになった。おそらくそれが彼女の、これまでの空いた時間の過ごしかただったのだろう。私がこちらに移ったときから、この部屋には本が何冊か置いてあったから。

 それでもどうして突然、元の時間の過ごしかたに戻ったのかはわからない。

 もしかしたらユイも私と同じく、私という存在に慣れたのかもしれない。

 ユイが本のぺーじをめくる。その些細な所作も滑らかで綺麗だ。

 あれから一月ひとつき経っても、ユイのことはわからないことが多い。

 未だに所作が綺麗なことも、私の弾いた曲を聴いて泣いていた理由も、なぜ歌が上手いのかも知らない。

 正直ずっと気になってはいるのだけれど、なんか面と向かって訊きずらい。最初あれだけ邪険にしていたのに――今は大分していないと思う――今さら普通に質問するのもなんだかなと思う。

 だからといってマクレアにはもっと訊きづらいし、というか話してくれなさそうだし、リエナに訊くにしてもなかなか彼女が一人でいるときが見当たらない。

 だけど昨夜、一つだけ新しいことがわかった。

 ユイが望んでここに入ったということだ。

 しかも静かに暮らしたかったという少し変わった理由で。

 いや、変わってるかどうかはわからないけれど、少なくともここにいる見習いの中にそういう理由で入った子はいないのではないだろうか。

 ……それにしても静かに暮らしたい、か。

 どんな境遇に置かれていたら、そのように思うのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、ユイが本を閉じて立ち上がった。

 彼女をじっと見ていた私は、慌てて天井に視線を戻す。

 ユイは視界の端でがさごそすると。


「治療学の授業に行ってきます」


 そう言って自室を出て行った。

 今日は午後から治療学の授業がある日だ。だから私はこれから自由時間となる。

 ユイの足音が離れるのを聞きながら、今日はどうしようかと考える。

 考えるといってもそんなに選択肢は多くない。

 散歩するか、院長室にお茶を飲みに行くかの二択だ。

 出来ることなら自室でだらだらするとかも選択肢に入れたいのだけれど、なにもせずにいるのはやっぱり落ち着かない。なのでそうするのはもう諦めている。自習も自らサボらないとやる気がでないのだと最近、気づいた。

 少し考えた後、やっぱり紅茶かなとベットから起き上がる。

 扉を開けて外に出ると、むっと熱気が肌を撫でてきた。

 今日は少し暑いなと思いながら通路を歩く。まだ授業が始まっていないので、外にはちらほらと見習いの姿がある。その見習いたちは私に気がつくと、無遠慮にこちらを見てきた。その視線にはまだ軽蔑や強い嫌悪みたいなものは交じっていない。レスト修道院では当初からそういう目で見てくる子が多かったのに比べれば、ここの見習いはまだ優しくはある。それもおそらく生まれの違いによるものではないだろうか。血や能力を重要視する特権階級の生まれの子とは違い、貧しい生まれの子はあまり無能者マドリックへの差別意識が植え付けられていないのかもしれない。もちろん全員がそうとは限らないけれど。

 すれ違いながら礼をしてくる見習いたちに、一応は返礼する。

 一階に下りて通路を進み、裏庭に出るとその先に畑が見えてきた。

 そこそこに広い畑には一人、麦わら帽子を被った人の姿がある。

 私はちらっと空を見てから、その人に近づいた。


「今、雲がないから少し日陰に入ったら?」


 その人は顔を上げると、皺を寄せて微笑んだ。


「あぁ殿下。こんにちは」


 この年配の女性は、ここに務める用務員の一人だ。

 歳は八十近くらしいのだけれど、全くそんな風には見えない。背筋は真っ直ぐしているし、顔に刻まれた皺もそこまで多くない。でも視力は大分弱っているらしく、人でも物でも目の前まで近づかないとはっきり見えないのだと言っていた。

 彼女は空を見上げると、その見えない目を細めてからまたこちらを見た。


「そうですね。そうさせてもらいましょうか。お気遣いありがとうございます」


 二人で近くの小屋の屋根下へと入る。

 隣に並んだ彼女はふうと息を吐くと、首にかけたタオルで顔の汗を拭いた。


「今日は少し暑いですねえ」

「そうね」


 この人とは最近、こうしてたまに世間話をする。

 切っ掛けは治療学の授業中に散歩していたとき、声をかけられたことだ。

 ここはレスト修道院とは違い、用務員と先生が畑仕事の全てを担っている。だから普段、見習いがここに来る用事はない。私も初日に案内されて以来、ここに近づくことはなかった。

 だけど夏期に入ったころふと、そろそろ夏野菜が実り初めているかなと思った私は何気なしに畑に足を向けた。そうしたら畑仕事をしていた彼女のほうから声をかけてきたのだ。

 そのとき私は少しばかり面を食らった。レスト修道院にも用務員はいたけれど、礼をされるだけで一度も声をかけられることはなかったからだ。

 そんな私に彼女は籠の中からもぎたてのミニトマトを一つ手に取ると、それを水で洗って『お一ついかがですか?』と差し出してきた。レスト修道院では収穫したものをそのまま食べたりしたことはなかったので遠慮したら『私も食べたいので共犯になってくれませんか?』と彼女は微笑んだ。その言いようが少し面白く感じて、私はそれに応じた。

 そのとき食べたミニトマトは不思議と、食事時に食べたのより美味しく感じた。

 それから私はたまに、ここへと足を運ぶようになった。

 それは別に餌付けされたわけでも、またもぎたてが食べられることを期待してのことでもない。最初に彼女と話したとき、それが面白く感じたからだ。これまで祖父母ぐらいしか年配の人と話す機会がなかったから、新鮮に感じたのかもしれない。


「暑いときは日陰に入らないと熱中症になるわよ。ってまぁ、そんなこと言われなくとも貴女なら知っているだろうけれど」


 彼女は用務員になる前は星教せいきょう癒し手いやしてをしていたらしい。だけど歳を取ったこともあり十年前に引退して隠居生活を送っていたのだけれど、それが肌に合わず用務員になったのだとか。用務員になったのは生まれが農家で、農作業には慣れているからだと以前に本人が教えてくれた。

 そんな癒し手いやしてだった人間に無能者が忠告することでもないなと自笑していると、彼女が笑みを漏らした。


「殿下は本当にお優しいですねえ」


 しみじみとそう言われては、流石に少し気恥ずかしい。


「すみません、つい夢中になってしまいまして。今後は気をつけます」


 それからまたタオルで額を拭く。すると指が目に入った。少し土が付いた指先の隙間から赤いものが見える。


「指、切ってるわよ」

「あら」


 のんびりと驚きながら、指を目に近づけて見る。


「気づきませんでした。歳を取ると感覚も鈍くなりまして。嫌ですねえ」


 彼女がのんびり話している間に、私は近くにあった水が入っているバケツを持ってくる。


「ありがとうございます」


 それで彼女は手を洗うと、ポケットから小物いれを取り出した。そこから小さなガーゼと細い包帯を出して器用に片手で指に巻く。以前にも彼女が手を切っているのを見つけたことがあったけれど、そのときもこうして手当てをしていた。


「なんで魔法で治さないの」


 私はそのときから気になっていたことを訊いた。


「大した怪我ではありませんから」

「でも折角、魔法が使えるんだから使えばいいじゃない。もし私に気を遣ってるのなら、気にしなくていいから」


 世の中には魔法が使えず効かない無能者マドリックにそうやって気を遣う人もいる。私たちのような人間の前で魔法を使うと、当てつけのように感じるかもしれないと考えてのことだ。それが親切心からくる配慮なのはわかっているけれど、私からしたら余計なお世話だと思ってしまう。むしろそういう気遣いは、自分が無能者だと思い知らされて惨めになるだけだ。


「気を遣ってはいませんよ。あぁ、いえ、気は遣っていますかねえ」


 要領を得ない言いかたに、私は思わず眉を寄せる。

 それを見て――見えてるのかわからないけれど――彼女は穏やかに微笑むと上を指さした。


「粒子たちに」

「粒子って、魔法のもとの?」

「はい」


 粒子というのは大気中と全生物の体内に存在する小さな粒のことだ。

 その粒子に働きかけることで様々な現象を発現することを魔法と言う。


「このような些細な怪我で、粒子を働かせるのは申し訳ないですから」

「粒子にそんなことを思う意思なんてないでしょ」

「それは魔法学でも意見が別れているところなのですが、私はあると思っております」

「なんで」

「精霊は粒子が結合し、意思を持った存在なのはご存じですか?」

「えぇ」

「意思を持つということは、その意思となるなにかを粒子の時点で持っているのではないかという学説があるのです。そして私もそう思っております」

「へぇ」理屈は通っている気がする。

「その証明になるかはわかりませんが、粒子も大気中にまんべんなく漂っているわけではありません。まるでその場所を好むかのように片寄って存在しています。今もそうですよ」

「粒子って肉眼じゃ見えないんじゃないの」


 粒子は基本的に肉眼では観測することができない。

 観測または視覚化するにはなにかしらの結界やら魔法が必要だと、まだ家にいたころに習った。


「はい。普通はそうです。ですが私は視力が悪くなった影響なのか、肉眼でも薄らと見えることがあるのです」


 空を少し見上げていた彼女は、こちらを見た。


「殿下の回りにもいますよ。きらきらと綺麗な粒子たちが。おそらくレム――ひかり粒子でしょうねえ」


 ひかり粒子は神星しんしょう属性の粒子だ。

 神星しんしょう魔法にはほし魔法とひかり魔法の二つの属性の魔法があって、それぞれほし粒子とひかり粒子に働きかけることで魔法が発現する。


「無能者の回りに集まっても意味はないのに」

「粒子に損得感情はありません。ただ好きだからそこにいるのです」


 まるで粒子に感情があるのを知ってるかのような言い方だ。

 それを真に受けるか受けないかはともかくとして、人には好かれない私が粒子には好かれるっていうのはちょっと面白い。


「粒子にモテてもねぇ」


 苦笑しながら私は虚空を見る。もちろんそこにはなにも見えない。

 それでもしばらくぼんやりと見続けていると、同じく虚空を見ていた彼女がこちらを向いた。


「殿下はルーニア様に似ていらっしゃいますね」


 そして突拍子もないことを言ってきた。


「は」思わず驚いて彼女を見る。「ルーニアって、ルーニア・セレン?」

「はい」


 どうやら聞き間違えでもないらしい。


「殿下を初めてお見かけしたときからずっと思っておりました。ルーニア様に似てらっしゃるなと」


 まるで『母親に似ている』といった感じで彼女は言うけれど、ルーニア・セレンは私の親でも姉妹でもない。

 私の先祖、星王家せいおうけの始祖のことだ。


「いやいや、会ったことないでしょ」


 ルーニアが生きた時代は一八〇〇年以上も前のことで、当り前だけど今生きてる人間はもちろんのこと、長命種であるエルフ族や星竜族しょうりゅうぞくだって会ったことがない。


「肖像画は拝見したことがあります」

「あぁ」


 肖像画か。それなら私も昔に一度だけ見たことがある。お母様に連れられて星城せいじょう内にある歴代の王族の肖像画が飾られている肖像の間という部屋で。そこは基本的に王族以外は立ち入り禁止なのだけれど、数年に一度、美術館で一般公開はされているらしい。おそらく彼女はそのときに見たのだろう。


「それっていつ」

「若いころです」


 それならまだ目が見えているときか。いやいや、にしてもだ。


「私と顔、似てなくない?」


 ルーニアの肖像画は特段に保存維持には力を入れており、小まめに修繕もされている。だから描かれて一八〇〇年以上経った今でも、彼女がどんな顔だったのかはっきりと確認することができる。その顔を私も覚えているけれど、どこからどう見ても私とは似ていない。

 私は完全にお母様似だし、お母様の家、ボルゴ子爵家の始祖は星王家せいおうけどころかこの国とは全く関係のない国の血筋だ。その始祖の肖像画は見たことないけれど、お母様曰く自分とよく似ているらしい。

 それでもルーニアと私が似ているところを探すのならば、青い目だけだろう。

 ルーニアは青眼青髪で、その容姿は星王家せいおうけにも代々引継がれている。私はお母様譲りの金の髪だけれど、お兄様とお父様は青眼青髪だ。


「そうですね。でも不思議と似ている気がするのです」

「本人に会ったことがないのに?」

「ないのにです」


 にっこりと彼女が笑う。


「ルーニアと私なんて、持って生まれたものに天と地ぐらいの違いがあるじゃない」


 星王国せいおうこくの初代星王せいおうであるルーニア・セレンは、稀代と称されるぐらいの神星しんしょう魔道士だった。

 魔法が使えない無能者マドリックである私とはまさに正反対の存在とも言える。


「ただ私がそう感じたのです。老婆の戯言とお流しください。ですが私は殿下の心根のお優しさを知っております。なのでどうかあまり自分を卑下なさらないでくださいな」


 返答に困る私に彼女は微笑むと、礼をしてまた畑へと戻っていった。

 その背を見届けてから私も歩き出す。

 あのルーニアと似ているだなんて、皮肉にもほどがある。

 だけど彼女が本気でそう言っているのはわかったので、腹は立たなかった。

 それでも笑ってしまいそうにはなるけれど。

 彼女が不可思議なことを言うのはなにも今日が初めてではない。以前にもよくわからないことを一言二言、口にしたことがある。だけど今日のは抜群に飛び抜けていた。あの人ってちょっと変わった人なのだろうか。

 ……それにしても、ルーニアね。

 偉大なご先祖様であるルーニア・セレンのことは家にいたころも、修道院に入ってからも学ばされたので嫌でも知っている。

 古代大戦でこの大陸に蔓延した人体に害を及ぼす瘴気しょうきと、異形の化物である瘴魔しょうまの対策として魔道士を育成する都市を発案し、当時は他の属性ほど普及していなかった神星しんしょう魔法学を確立させ、のちに瘴気しょうきに汚染されたこの大陸を浄化することに成功。

 そして民衆の絶大な支持から弱冠二十歳で一国の王とまでなった稀代の神星しんしょう魔道士。

 そうやってルーニアが多くのことを成し遂げてそれを後世に残せたのは、彼女が生まれながらに持っていたからだ。

 なにも生まれ持たなかった私には到底、真似できるものではない。

 私にはなに一つ生み出すことも、残すこともできない。


 ――なんかやりたいことを探してみろよ。

 ――貴女がその気になればなんでもできるわ。


 ふとシンとリリルの言葉が脳裏に蘇る。


 ……なにも残せない。

 本当に、そうなのだろうか。

 本当に。


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