03
大陸暦1962年――ピアノと歌1
トポトポと音を立てながらカップに紅茶が注がれていく。
この音は好きだ。耳障りがよくて紅茶を飲んでいるときと同じく、どことなく安らぎを覚える。そう、この修道院の生活で数少ない安らぎを。
「砂糖はある?」
ティーポットを机に置いたリエナがこちらを見る。
「あります。入れるのがお好みでしたか」
「少しね」
リエナは近くの棚から小さな容器を取り出すと、その蓋を取って砂糖を小量すくいカップに入れた。
「ありがとう」
私はスプーンで紅茶を掻き混ぜてからカップを手に持つ。ダージリンの甘い香りが鼻腔を突き抜ける。紅茶はなんでも飲むけれど、特にダージリンが味も香りも楽しませてくれて好きだ。
一口飲んで一息つくと、ため息が聞こえてきた。部屋の奥にある執務机からだ。そこにはペンを片手に書類と向き合っているマクレアがいる。
彼女は手にしていた書類を机に置くとこちらを見た。
「殿下。仕事中にここにいられると気が散るのですが」
そう言ったマクレアの顔にはいつもの余裕がある、うさんくさい微笑みは浮かんでいない。苦虫を噛みつぶしたかのような顔をしている。それは私に対する感情ではない。書類に対しての感情だ。その証拠に私が部屋に訪れたときからマクレアはその顔を書類に向けていた。どうやら彼女は相当、書類仕事がお嫌いらしい。そしてそれを隠すつもりもないらしい。
普通、院長が見習いの前でそういう顔を見せるものではないと思うんだけど……私に煽ってくることもそうだけど、この人って結構、子供っぽいところあるな。でも普段のうさんくさい微笑みよりはこのほうが余程、人間味が感じられる気がする。
そんなことを思いながら私はマクレアに言い返した。
「なによ。治療学の授業のときはご自由にお過ごし下さいって言ったのは貴女じゃない」
そう。今は午前の治療学の授業中だ。
治療学とは、治療魔法を扱うための知識を身に付け実技で学ぶ学問のことだ。ここでは学年ごとに時間と日をずらして週に二回ほど授業があるらしい。
当然、その授業は魔法を使うこともできず、作用することもない
それに私は惨めな思いは抱いていた。
自ら授業をサボるならまだしも、最初からその授業に参加する資格すらもないなんて。
そしてここの見習いが、持たざる者と言われる
だけどその惨めな感情はユイの付きまとい――私からしたら奇行とも言える行動によりいつの間にかどこかに行ってしまっていた。それは授業当日の今日になっても戻ってきてはいないし、それどころか授業に参加する必要がないことに喜びすらも感じている。
なぜならユイがいないからだ。
一日中どこでも、サボりにさえも付いて来ようとするユイも、今日は自ら進んで治療学の授業に出ている。お風呂に行くときと同じく『治療学の授業に行ってきます』と報告だけしてあっさりと。どうやらお風呂のようにマクレアが認めていることに関しては、素直に私のそばを離れるらしい。……ん? でも、それにしては先日マスターのお店にまで迎えに来てたな。あれはユイの中でマクレアが黙認しているだけで認めているわけではない、という判断なのだろうか。
ともかくにも、そういうわけでここに来てからやっとまとまった一人の時間ができた私は、部屋で悠々自適に過ごしていた――そう。過ごしていたのだ。数十分ほどは。
別に邪魔が入ったというわけではない。
ただ落ち着かなくなったのだ。
一人の時間はここに来るまでは当り前のもので、来てからも私が喉から手が出るぐらいに欲しかったものだというのに、どうしてか以前のようにだらだらぼんやりと過ごすことができない。
それならばとこれまで授業をサボったときみたいに自習をしてみたけれどなんか集中できないし、仮眠を取るかと横になってみるも眠れない。
それで仕方なく部屋を出て、目的なく修道院内を散歩していて辿り着いたのがこの院長室だった。
そして駄目もとで紅茶を飲みたいとリエナに言ってみたら、意外にもすんなりと用意してくれたのが今だ。
「場所にもよります。ここはカフェではないのですよ」
そう言ってマクレアはまた、ため息をつくとリエナを見た。
「貴女も、権力に服従するような人間だとは思いませんでした」
「服従しているわけではありません。このような反抗期まっ盛りな人間は注意しても逆効果なだけです」
顔色一つ変えず、真面目な顔でリエナはそう返した。
「誰が反抗期よ。というか本人を目の前にしてよく言えるわね」
「気を遣われるのはお嫌いかと思いまして」
その通りだけど……。
返事の代わりにため息が出る。
本当、ここは院長といい副院長といい、いい性格をしている。むしろ院長がこれだから副院長も彼女が選ばれたのかもしれない。
二人が仕事に戻ったので、私は一人ゆっくりと紅茶を楽しむ。楽しみながらこうして院長室でくつろぐなんて以前ならありえないことだなと思った。
レスト修道院にいたときも月に一度のお茶会とは別に、ビクトリアが院長室に私を招いて紅茶を出してくれることがあった。常に一人でいる私を気にかけてくれてのことだろう。だけど私はいつもそれを味わうことなく、飲むだけ飲んで早々に院長室を後にしていた。ビクトリアを嫌っていたわけではない。彼女が私に気を遣いすぎて、一緒にいることが息苦しかったからだ。
それに比べて、この二人はまるで私に気を遣っている様子がない。
マクレアは曲がりなりにも王族である私に平気で無礼な発言をしてくるし、リエナはマクレアよりも礼節をわきまえてはいるものの過剰な奉仕はしてこない。だから同じ空間にいてもまだ気が楽なのだと思う。
少ししてカリカリというペンが走る音が止まった。見るとマクレアがため息をついてペンを置いている。それから立ち上がってこちらに来ると、向かいのソファに腰を下ろした。どうやら仕事をするのは諦めたらしい。それを見てリエナが素早くカップを用意してそこに紅茶を注いだ。
「ありがとう」
マクレアはリエナに礼を言って紅茶を一口飲む。
そして一息ついてからこちらを見た。
「ユイとは仲良くやっていますか」
「仲良くって、あれとどう仲良くなれっていうのよ」
ここに来てから四日経つけれど、ユイの態度は相変わらずだ。
「そりゃ会話をして親交を深めるとか」
「その会話が続かないの。たまになんか訊いてみたら『わかりません』しか言わないし。自分のことなのによ? それであちらから喋ることといえば必要事項だけだし」
「それは殿下の話の振り方が下手なだけでは」
「は?」
「ほら、その性格では? どうせ今までお友達もいなかったのでしょう? だから人との交友には慣れていらっしゃらないのではないかなと」
マクレアが嫌みったらしい微笑みを浮かべて見てくる。
「……貴女、人を煽る天才ね」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてない」
ここまであからさまに煽られるとなんかもう、怒る気もなくす。
「そういう貴女はそんな性格で友人がいるわけ?」
それでも少しは反撃をしたくてそう言ってやった。
「えぇ。私は殿下とは違い、猫かぶるのが得意ですから」
「それなら私の前でもその猫をかぶりなさいよ」
「得のない人の前で猫をかぶりましても、ねぇ?」
……やっぱり腹が立つかも。まぁでも彼女の認識は正しくはある。王族だろうと私にはなんの力もないんだから。媚びを売られたところでこちらには返すものはないし、売ったほうもなんの得にもなりやしない。
そう考えて少し卑屈な気持ちになっていると、マクレアがふっと笑みを漏らした。
「まぁ、殿下が得のある人間になってくだされば話は別ですが」
「……どういう意味よ」
「そのままの意味ですけど」
マクレアはうさんくさい微笑みを浮かべると紅茶を飲んだ。
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