夢のちがい
惰眠を貪ると夢を見るので嫌だ。
先ほどはある女性の夢を見た。彼女にはもう会えない。彼女はもう歳をとってしまったし、今若いころの面影が残っているのかさえわからない。年齢よりも性格とか楽天的なところとか優しさとか。少なくとも当時僕がそう思ったことごとくが今はないはずだ。それはとても悲しいことなのでそんなことを思わせる夢を見るのは嫌なのだ。
夢はだいたいが哀しいことばかりだ。楽しい夢ってあるのだろうか。怖いこととかハラハラすることとかはあるかもしれないがカタルシスを得ることはない。そのまま怖さやとかを感じたまま夢は終わる。
若い頃は浮かぶ夢をよく見た。空の上のほうを飛び回るような爽快なものではなく、地上30cmくらいのところを平泳ぎしているみたいな夢だ。それも都会の雑踏の中でそんなことをやっているので邪魔なことこの上ない。しかし道ゆく人は何も気にしなくて横を普通に歩く。大抵は彼らの歩く速度より遅く泳いでいるのでさっさと通り過ぎる。
場所は大抵都会のビル街で、多分週日の朝で、出社するビジネスマンたちが急いで歩いているんだと思う。そんな中なんとも能天気にポカンと浮かんでいるというわけだ。文字通り、たぶん僕は何も考えていない、ポカンとしている。
何度もこの夢を見るので自分なりに解釈をしようとしたことがある。山田太一に『飛ぶ夢をしばらく見ない』というのがあるが、あれは恋愛欲求が衰退して今はもう年老いてしまったという嘆きを表明しているものだと思うが(そこで久しぶりに沸き起こる感情を抑えきれないと反語的意味を示すものだと思うが)、つまりはそういうことか。確かに若者は欲求にギラギラしていて何かにつけ首を突っ込んで周囲に波風を立てながら自分を主張しようとする。あの浮遊感はそういうことなのか。しかし周りの人はそれほど気にしていない。歩いている人もまたこいつ泳いでやがらくらいに思ってスイスイ横を通り過ぎていく。自分は自分で何か深い思考を巡らしていそうで実際のところは頭も体もポカンとしている。そんなところか。
若い頃の解釈はもっとこうなんていうか自分はなんでもできるぜ、周りがあくせく払働いていても俺は自由だぜくらいの能天気な浅い解釈をしていた気がする。覚えてないが。
今はもう見ないそんな夢の解釈を今さらもう一回解釈してみると案外そんなところじゃないか。俯瞰的で冷静で醒めた見方で希望もないが。
そして今は会えない彼女の夢。若い頃も彼女の夢は見ただろうが、それは今すぐ逢いたいという希求だった。今はもう会えないという諦観。俯瞰的で醒めていて希望もなく哀しい。夢を見たからと言って行動を起こすこともない。これがいま夢を見るということだ。だから夢は見たくない。早く寝て早く起きる。惰眠はしたくない。
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