第2話

 美和子先輩は気絶したままだったが、茶室に現れた時よりも、顔色も呼吸も良くなっていた。すぐに保健室に送り、水の魔力を持つ養護教諭に任せたあと、また茶室に戻ると、予想通り、響子が仁王像のごとくに茶室の前で腕組をして立っていた。


 響子に説教はいくらで受けるから、その前に茶を飲ませてくれと頼むと、意外なほど素直に同意してくれた。もちろん、全員分を用意しろと偉そうに言われたが。


 茶杓で抹茶をすくい、温められた茶碗に入れる。あんなことがあった後だ。濃茶よりも、飲みやすい薄茶の方がいいだろう。


 茶碗に、静かに湯を注ぎ入れ、先ず、茶碗の底の抹茶を分散させるように、ゆっくりと混ぜる。丁寧に、ダマを潰すように、ゆっくりと。そして、茶筅を底から少しだけ上げて、茶碗の中の湯が回らないように手首を前後にしっかりと泡が立つまで振る。泡立ってきたら、茶筅の先を泡の表面まで上げ、ゆっくりと動かし泡を細かくしていく。


 この静謐さの中にある、変わることのない手順と凛とした所作が、子供の頃から大好きな私は、茶碗の中の目に優しい緑に癒されていくのを感じた。もちろん、見えているわけではないので、感じるだけだが、それでも抹茶のふくよかな香りもあいまって、段々と気持ちが落ち着いて来るのが分かる。


 泡が茶碗の真ん中に盛り上がるように、そっと茶筅を上げる。響子の前に茶碗を置くと、丁寧な礼が返って来た。


 東久迩響子。幼稚舎からの長い付き合いのある学友の一人で、東久迩子爵家の大姫。質は悪いが、家柄と察しと所作の美しさは認めてもいい。


「それで、まんまと逃げられたわけですか。お一人で大丈夫だと仰ったじゃないですか」


 そして、容赦がない。


「生霊は得意ではないのですよ」

「言い訳にもなりませんわね」


 清々しいほどに容赦がない。


「それで、生霊というからには、どなたか美和子先輩の周りにいる方が、先輩に憑いて悪さをしているということですわね」


 その通りだが、茶を飲んで、いきなり訊くか。もっと落ち着いて味わってくれてもいいんじゃないか。


「そこが気になるところなんですよ。男か女かさえ分かりませんでした。あえて言うなら、獣のようでしたね」


 私の言葉に響子が柳眉を上げる。その隣で行儀良く、ちょこんと座っていた一年の三人娘も、顔をひきつらせた。


「獣って、動物霊ということですの?」

「いえ、もう人としての理性を失って、畜生道に落ちつつあるのかもしれません」


 私の返答に衝撃を受けた三人娘の一人が、手にあった茶碗をぼとりと落とした。


「すっ、すみません。驚いてしまって、つい・・・」

「構いませんよ。制服が汚れてしまったのではないですか」

「いえ、先輩のお茶はいつも美味しいので、一滴残らず頂きましたから、大丈夫です!」


 はきはきと元気に答える後輩に、鬼の響子のやさぐれた心も癒されたのか、咎める言葉もなく苦笑していた。実に良い後輩だ。私の茶を一滴残らず楽しんでくれる者は、何であれ、好ましい。


「それで、どうしますの?」


 お前も、もっと余韻を味わってくれよ。瑞祥先輩が差し入れて下さった公爵領の特級の茶だぞ。


「この壊れた数珠で、念誦のネックレスを作り、先輩に当座の守りとして身に着けて頂くつもりです。その後は、どうしましょうかねぇ」


 三人娘に手伝ってもらいながら、畳の上に散らばってしまった水晶の珠を拾い集めていると、稲荷屋の菓子を上品に口に運んでいた響子があからさまにむっとした顔を見せた。


「能天気ですのね。どこぞの外道が、わたくし達の部長に憑りついていたんですのよ。誰だか知りませんけど、天誅を食らわせますわよ」

「ああ、そのことなんですが、嘉承の大姫のお力を借りれませんか」

「頼子の魔力が必要ですの?」


 東久迩響子には、嘉承公爵家の大姫という、これまた恐ろしい親友がいる。絵に描いたような「類を持って集まる」というやつだ。嘉承頼子は、風と火を持つ嘉承家に生まれながら、火の魔力だけを持って生まれた【烈火】の姫だ。さすがの嘉承の血だけあって、今の公達学園の幼稚舎から高等科の全ての生徒と教員の中で、頼子姫を越える魔力を持つ者はいない。


 そして、信じられない話だが、火の鬼姫は、あの「都の公達かくありき」な優美な瑞祥先輩を兄に持つ。嘉承家の当代が彼らの父親で、瑞祥家の当代が彼らの母親で、持って生まれた魔力ごとに嘉承と瑞祥を名乗っているので、長男と長女は嘉承、次男と三男と四男が瑞祥の家にいる。


 そんな鬼が、この目の前の鬼とタッグを組めばどうなるか。ずばり、学園の魔力ヒエラルキーのトップに君臨し、恐怖政治の始まりになる。


 ただ、女子学生には、学年を問わず熱烈な支持を受けていて、男子生徒には、多少、窮屈ではあるが、確実に学園の平和が保たれるので、それなりに人気がある。教師たちの覚えもめでたい。一部の南条派と呼ばれる不埒な男子には地獄だが、それは因果応報というものだろう。


「実は、数珠で捕らえた時に、淀んで腐った水のような匂いがしたんですよ。考えたくはありませんが、私の数珠から逃げおおせるくらいの力があるのなら、魔力持ち、それも水の魔力持ちが絡んでいる可能性がありますから、念のため、です。嘉承の大姫の火の力なら、ある程度の霊や妖なら弾き飛ばせますし」

「そういうことでしたら、頼子に頼むしかありませんわね。それに水の魔力持ちが闇落ちをしている場合を想定して、頼子経由で、早めに嘉承と瑞祥に報告をしておく方が良いと思いますわ」


 西国の公家は、何かしら社会的な不安要因を発見すると、西国統治を皇帝に一任されている両公爵家に、報告の義務があって、特に「闇落ち」に関しては、報告が遅れるだけでも、厳しい処分の対象になる。魔力持ちが闇に落ちると、社会に甚大な被害が出るうえ、下位の魔力持ちでも、命を燃やして、最後の魔力を振り絞るため上位の魔力持ちが手こずる相手になってしまう。これが上位の魔力持ちの闇落ちとなると、抑止できる魔力持ちの数は、帝国内でも限られ、確実な抑止力となるのは、嘉承公爵家の直系だけだ。


「闇落ちですか。勘弁してくださいよ。そうなると私達なんか足手まといもいいところですよ」

「あくまでも可能性の話ですわよ。直近の問題としては、美和子先輩のお体ですわ。すっかり痩せ細ってしまわれて」


 確かに美和子先輩のことは心配だ。三人娘が拾い集めるのを手伝ってくれた水晶を切れた糸に通して、ネックレス状にする。


「ネックレスでしたら、40センチくらいが鎖骨のあたりに来て、綺麗に見えますわ」

「糸に通すだけで止め金具がありませんから、40センチだと頭を通らないでしょう。お洒落ではなくお守りで身に着けて頂くものなのですよ」

「それはそうですけど、やはり女性ですから、身なりは大事だと思いますの」


 響子の責めるような視線を無視して、長めの水晶のネックレスを作った。元が数珠なだけに、地味だが、緊急事態だ。なりふり構っている場合じゃない。


「頼子なら、まだ学園内にいるはずですわ。内密な話もありますから、こちらに来てもらいましょう」


 そう言う響子の手には、掌サイズの仔猫がいた。早い。魔力を練って作られた猫だ。土の魔力持ちの中には、こういう土人形を作って伝書鳩のように使う連中がいる。本人と魔力で繋がっているため、声が本人なので、何度見てもぎょっとしてしまう。まさか、こんな可愛い仔猫から、鬼の声が聞こえるとは誰も思わないだろう。


「薫さん、貴方、何か失礼なことを考えていませんか」

「滅相もない。桜田部長のことを純粋に心配しているだけですよ」


 東久迩響子は、昔から質が悪いが、家柄と所作と察しと、ついでに勘もめちゃくちゃ良かった。

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