第13話 プールのミスター・トランプ
今日は食べ物でも、動物でもない話です。
それをするには、まず水泳の話からしないといけません。
実はうちの旦那さんが水泳好きで、プールでも湖でも、海でも、泳ぎ始めたら1時間は普通に泳ぎ続けることができます。
そんな彼に付き合って、断続的にスイミングプールに通うようになりました。
プールは25m、深さはスタート側が4m以上。
反対側は足が着く深さです。
ラップスイミングの時間帯は、そこを7レーンくらいに区切っていて、人が少なければ1人で1レーンを使うこともできます。
プールの両サイドは、主に水中でウォーキングをしたり、エクササイズをしたりする人が使っています。
もしレーンが全て塞がっていれば、大抵の人は「一緒に泳いでもいい?」とレーンにいる人に声をかけることが多いです。
で、2人でひとつのレーンの右側と左側に分かれて泳ぎます。
その場合、狭いので、基本はクロールですね。
さて……。
こんな感じのスイミングプールに、私と夫が密かに『ミスター・トランプ』と名付けた男性がいます。
ほぼ毎日、同じ時間にやってくる常連。
泳ぐわけではなく、足にはフィンを付け、足の間に浮力サポートの水泳スティックを挟み込み、両腕を組み、空気椅子のような姿勢で、ぷかぷかと背後に進み続けます。(ラップレーンです)
このプールに通い始めた頃は、あまりによく会うので、「こんにちは〜」と何回か挨拶をしたものですが、一切返事が返ってこないので、挨拶するのを止めた相手です。
様子を見ていると、特定の人とはよくお話ししているようでした。
「今日もミスター・トランプが来てたね」
「そうだねえ。ほんとに毎日来てるみたいだね」
「あの人、愛想ないでしょ。男性ロッカールームでは話すの? よく、男性陣の話し声が聞こえてくるけど」
「いや、あの人は話しかけても話さないよ?」
そんな会話をするのが、プールに行った日の定番でした。
ところがある日のこと。
そんな日常が壊れたのでした。
* * *
「右か、左か?」
クロールでスタート台まで戻ってきたところ、頭上から突然、ぱっこ〜ん! と何かで頭を叩かれました。
「ひゃ!?」
一瞬、何が起こったかわかりません。
私は潜ってターンをしないので、25m泳ぐと、一瞬、立ち泳ぎになって方向を変えて泳ぎ始めます。
その立ち泳ぎになった瞬間を襲われました。
深さ4mありますけど。
びっくりして溺れたらどうするんじゃい!!
そう思って目の前に突き出されている水泳スティックの先に目をやると、いました。ミスター・トランプです。
ミスター・トランプは同じ言葉を繰り返します。
「右か、左か?」
(うわ。初めてミスター・トランプと話してるよ)
そう思いながらも、根がチキンな私は、「ひ、左?」と答えると、ミスター・トランプは何事もなかったかのように、レーンの右側で、例の空気椅子スイミングの準備を始めています。
(驚いた……普通、頭を叩くかね!? それに、「一緒に泳いでもいい?」「シェアしていい?」じゃないんだ。「右か、左か?」って、ホテルのベッドかい!)
私は正直、ぷんぷんしながら、クロールを再開しました。
じゃあ、ぱっこ〜ん! の瞬間に何か言えよ、と思うかもしれませんが、悲しいことにそういう瞬発力がありません。
(うう、瞬発力と機転とよく回る口がほしいなぁ……)
そんなことを思っていた時、ふと、プールの底に何かを見つけたのです。
たまに、底の方にゴーグルなどが落ちているのを見かけたりしますが、小さなそれは、銀色に鈍く光って、まるでイヤリングか指輪のように見えました。
この辺りの女性達は、あまり気にしないで、平気でアクセサリーを付けたまま泳いでいます。
もしかして、大事なものを失くした人がいるかもしれない……。
そう思った私は、ちょっとイタズラ心もあり、ミスター・トランプに声をかけました。
「ねえねえ、あなた、潜水するの得意でしょう?」(以前、見たことがあります)
そう声を掛けると、自分が声を掛けられるのは想定していなかったのか、ミスター・トランプはかなりびっくりしていました。
彼を驚かせたことで、その時点でかなり溜飲を下げたのですが、ここまで来たのだから、とプールの底に何か落ちているんだけど、と言ってみると、意外にも「ああ、よくあるんだよね。よし、取りに行こう。潜水用のゴーグルに変えるから、ちょっと待っててくれ」と言うではありませんか。
うわ〜。普通に話せるじゃないの。それに親切!?
そう思いながら待っていると、ミスター・トランプは見事に落ちていたものを拾って来てくれたのでした。
それは何と、ただのヘアゴム。
水深があるし、私自身もゴーグル越しに見ていたから、かなり歪んで見えていたようです。
「うわぁ、ごめんなさいね〜〜〜」と恐縮すると、さらに意外にもミスター・トランプは爽やかに笑って、「よくあることだよ」と言ってくださいました。
まあ、そんなことがあっても、次回からミスター・トランプと急に仲良くなる、とかそんなことはなく。
相変わらず、お互いに言葉を交わすことなく、黙々とそれぞれのエクササイズに精を出すのでした。
それでもちょっと、ミスター・トランプの人柄に触れたような気がしました。
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