5.引越祝い
海斗と美波が準備を進めていたころ、ノースリーブとショートパンツに着替えた結愛の部屋のドアを京太郎はノックした。
「準備はできたかい?」
「できたよ」
京太郎はドアを開けた。
「この前買ったノースリーブを着たんだね。かわいいじゃないか」
「うん」
真面目な面持ちで言った。
「同級生ともっと交流を持ちなさい。十代らしく人生を楽しむんだ。海斗君のことが好きなら恋だってしてもいいんだ。お母さんもお父さんもおまえには幸せになってもらいと思っている」
ビー玉のように澄んだ双眸に涙が浮かんだ。
「お母さんのことを思うと楽しめないの」
「父さんもいつも母さんのことを思っている。忘れた日なんてない。いつか帰ってくるそう信じている」
涙を零した。
「ホントに帰ってくるの? どこに行っちゃったの?」
結愛の問いに答えることはできなかった。そっと髪を撫で、優しく言った。
「さあ、可愛い顔が台無しだ。涙を拭いて。今夜は楽しもう」
ふたりは玄関に向かった。
ビールとおつまみと花火を入れた袋を手にし、京太郎と結愛は自宅を出て、アパートへ向かった。
ふたりは彼らが待つ204号室へと到着した。
京太郎がチャイムを鳴らした。
ドアを開けた海斗は笑みを浮かべた。美波が京太郎に挨拶に行ったあと、一時間後に結愛からLINEがあった。引越し祝いパーティーに来てくれるとの内容だったので、すごく嬉しかった。
私服姿の結愛もかわいい。だがまずは京太郎に挨拶する。
「こんばんは、待ってました。さあ、入ってください」
「こんばんは、おじゃまします」手土産を差し出した。「食べ終わったらみんなで花火でもしよう」
「ありがとうございます」手土産を受け取った。「結愛ちゃんも入って」
「おじゃまします」
リビングルームのテーブルの上には自慢の手料理が載り、室内には馨しい香りが立ち込めていた。
みじん切りの玉葱をじっくり炒めて作った特製ミートソースをたっぷりかけたミートスパゲッティ。オリジナルレシピの拘りのタレに付け込んでカリッと揚げた唐揚げ。みんなで取り分けられるように大きな耐熱皿で作ったチーズたっぷりのグラタン。大皿に盛った健康的な野菜サラダにはクルトンをトッピング。そして、デザートのババロア。
京太郎が美波に挨拶する。
「きょうは誘って頂いてありがとうございます。すごく美味しそうですね。もうおなかペコペコです」
「たくさん食べていってください」
結愛も挨拶する。
「初めまして、結愛です」
「初めまして、よろしくね。好きなところに座ってください」
「母さん、これ」と、手土産を渡した。
「ありがとうございます。ビール大好き。料理と一緒に頂きます」
テーブルを囲んで置いてある座布団に腰を下ろした。
缶ビールを手にした美波が乾杯の音頭をとった。そのあと、グラタンを皿に取り分け、各自へ渡す。楽しいひとときの始まり。作るのに時間はかかっても、食べるとあっという間。
笑顔で会話を交わし、楽しく食事する。
結愛はちらりと京太郎を見る。
いつも一生懸命なお父さん。お母さんがいなくなったあの日から心の底から笑った日はあるのだろうか……。
お母さんもいない。お父さんも心の平安を感じたことなんてないはず。ふたりは仲が良かった。商店街の人たちからもおしどり夫婦だと言われていた。
お父さんはお母さんを愛していた――――
お母さんに会いたい。
あたし自身、こんな気持ちで恋をしてもうまくいかない。
「うちの母さんの料理、旨いだろ?」と、海斗は結愛に話しかけた。
結愛は唐揚げを頬張り、を笑みを浮かべて返事した。
「本当にすごく美味しい」
ゆっくりと食事を楽しんだ後、海斗は美波に顔を向けた。
「結愛ちゃんと花火してくる」
「バケツにお水入れて持っていきなさいよ」
「わかってる」
脱衣所に入った海斗は、水を張ったバケツを手にして、リビングに戻ろうとした。その時、ドアに描かれた木目調が、人の顔へと変化したのだ。苦悶するいくつもの顔が、口をパクパクと開けたり閉じたりを繰り返していた。それはまるで水の中で溺れているかのように。
何だこれ……と、自分の目を疑った。その直後、いつもの木目調のドアに戻ったので、目の錯覚だと思い、リビングルームへ戻った。
「行こう。花火しよ」と、結愛を誘った。
スマートフォンを手にした。
「うん」
玄関を出て、外に出たふたりは、駐車場の開いたスペースに屈み込んで、花火セットを開封した。蝋燭に火をつけ、アスファルトに蝋を垂らして、蝋燭を固定し、花火に火をつけた。
グリーンを帯びた炎が夜の色に溶けてゆく。
結愛の横顔が鮮やかな花火の光に照らされ、艶っぽさを増したように思えた海斗は、ドキドキが止まらなかった。
「綺麗だね」
笑みを浮かべた。
「うん。この花火、お父さんが選んだの。超綺麗」
「花火だけじゃなくて……」
艶やかなロングヘアを耳にかけた。
「ん? なに?」
花火よりも君が綺麗だ、って言えたら……一度ふられているから、この場の雰囲気を気まずいものにしたくない。あえて何も言わなかった。
「何でもない」
「いいな、海斗君。お母さんがいて」ぽつりと本音を口にしたあと、尋ねた。「お父さんに会いたいとか思うときってある?」
「ないよ。顔も覚えてないんだ。父さんはギャンブル依存症で離婚した。その後は慰謝料も養育費も貰わずに俺を育ててくれたんだ。だから俺にとって親は母さんだけだと思ってる」
「お母さん、苦労した人なのね」
「うん。色々とね」
「あたしのお母さんもね、お料理が得意な人だったの」
「そうなんだ」と、優しく相槌を返した。
結愛は今まで閉ざしていた過去を打ち明けた。
「十年前のあの日――――お母さんは、久しぶりに会う学生時代の友達と遊びに行った。遅くても夜の九時には帰るって言っていたのに……帰ってこなかった」俯いて少し間を置いた。「あの日の夜……あたしは茶の間でうたた寝をしていた。一度目が覚めたんだけど、茶の間にお母さんがいたような気がするの。いま思えば、寝ぼけていたんだね。
それからまた寝てしまって……目が覚めたとき、お母さんはいなかった。十時過ぎても帰ってこないから、心配したお父さんが、遊びに行った友達の自宅に電話を掛けてみた。六時半には家に帰ったと言われたから、すぐに警察に行ったんだけど、結局お母さんは見つからなかった」
海斗は黙って耳を傾けた。
「きっと……もう生きていないかもしれないって、ときどき思うの。平凡ながらにも幸せだったあたしたち家族の時間はそこで終った。お父さんはすごく波瀾万丈なの。中学生の頃、強盗に両親を殺害され、親友も自殺した。そのうえ、お母さんまで……。八城家は呪われている……」
京太郎の辛い過去まで知り、どのような言葉をかければよいのかわからなかった。
「俺でよければいつでも話を聞くから」
「ごめんね、こんな暗い話しちゃって」
「いいんだよ。打ち明けてくれてありがとう」
ビールを飲みながら204号室のベランダで、ふたりの様子を見ていた美波と京太郎には、結愛の会話の内容は聞こえていない。花火を楽しんでいると思っていた。
美波が海斗の想いを教えた。
「うちの息子、結愛ちゃんが大好きなんですよ」
「うちの娘も同じだと思います。海斗君の話を家でしてくれるんですが、一緒にいると元気が出るそうです。たった一度きりの青春です。恋愛もしてほしいし、もっと人生を楽しんでほしい、幸せになってほしい……そう思っています。
ご存じかとは思いますが、僕の妻は失踪しました。あの事件以来、結愛は落ち込みがちですが、僕に気を使って無理にでも明るく振舞おうとしてくれる子なんです」
結愛が思いやりのある性格であることを伝え、話を続けた。
「じつは四十五歳で授かった子供なんです。僕の人生はいろいろありすぎて、結婚したのが四十三歳。かわいくて仕方ないんです。親馬鹿かもしれませんが、本当にいい子なんです」
思わず涙を零した。
「ええ、見ていればわかります。あたしもとてもいい子だと思います」
「海斗君も素直でいい子ですね」
「はい。素直な子に育ってくれてよかったです」
京太郎はふたりを眺めて言った。
「僕たちも花火に参加しませんか?」
涙を拭って笑みを浮かべた。
「そうですね。花火なんて久しぶり」
外に出たふたりは、海斗と結愛に歩み寄った。
美波は海斗に言った。
「みんなで線香花火しない? 誰が一番長く持つか」
「いいよ」
「花火、取り出すね」と、結愛が花火セットの袋に手を伸ばしたそのとき、前方に幼い女の子が立っていた。今夜は晴天なのに傘を持って長靴を履いている。
このアパートの住人はヤシロマートを利用する。結愛も店の手伝いをするので、住人の顔は把握している。だがこの子は見たことがない。それに子供がひとりで遊ぶ時間ではない。
「おうちに帰らないの?」と、尋ねた。
三人は結愛に目をやった。
京太郎が結愛に訊く。
「何を言ってるんだ?」
結愛は京太郎に顔を向けた。
「そこにいる女の子に言ってるの」
「誰もいないよ」
「え? そんなはずない」と、視線を戻したが、いましがたそこに立っていた女の子は消えていた。気のせいにしては、鮮明だった。確かにそこにいたのに……「おかしいな、どこにいっちゃったんだろう? たしかにいたのに」
「でも誰もいないよ」と言った海斗は、線香花火を京太郎と美波に渡し、「はい、どうぞ」と、結愛にも渡した。
その時、海斗のスマートフォンの着信音が鳴った。
和真からだ。ここでは会話が漏れてしまうので、「ちょっと、電話に出る。花火、先に楽しんでて」と、アパートの正面へ移動し、鉄骨階段に腰を下ろした。
通話をタップし、スマートフォンを耳に当てた。電話の向こうが騒がしい。肝試しのメンバーが集まって騒いでいるようだ。
「もしもし? なんか超楽しそうだな」
「いま車の中にいるんだ。マジで肝試しに行かないの? 行くなら迎えに行くよ」
「行かないよ。結愛ちゃんのお父さんも交えて、引越祝いの最中なんだ」
どこに誘っても行かない結愛が一緒なのが以外だったので、提案した。
「だったらいまキャンプに誘えよ。お父さんだって結愛ちゃんには楽しんでほしいはずだ。お父さんから言ってもらえれば、きっと来るよ」
たったいま京太郎の過去を聞かされたばかりだ。キャンプに誘ってよいものなのか……少し気が引ける。なんだか気を使ってしまう。でも和真が言うとおり、誘ってみることにした。
「いちおう訊いてみる」
「そうしてみろ。それじゃあ、引越祝い楽しめよ」
「お前らも楽しめよ」
「うん、またな」
「じゃあな」
腰を上げて、駐車場へ戻ると、結愛もスマートフォンを手にし、LINEをしていた。
「和真たちから?」
「沙也加からだよ」
「そっか」早速誘ってみることにした。「キャンプ、本当に行かないの?」
「お店の手伝いがあるから」と、断った。
京太郎は尋ねた。
「キャンプって?」
海斗は答える。
「和真と沙也加たちとみんなでキャンプに行こうって話をしていたんですが、結愛ちゃんも一緒の方が僕たちも楽しいので」
京太郎は結愛に顔を向けた。
「友達を大事にしなさい。キャンプに行ってきたらいい」
結愛は戸惑う。
「でも……」
「父さんからのお願いだ。楽しんでいいんだよ」
行っても心の底から楽しめないかもしれない。だけれど、父の願いならと、静かに頷いた。
「わかった。行ってくる」
京太郎の前で言って正解だった。和真に感謝した。
「あとであいつらに連絡しておくよ」
結愛は返事した。
「うん」
そのとき一台の乗用車が駐車場に止まった。202号室に住むサラリーマンの滝田登が会社から帰宅した。自動車から降り立ち、歩を進める。
「いいですね、花火ですか」
美波が返事した。
「はい楽しいです」
「新入りさんですよね? やっぱり出ましたか?」
ここで“出たか?”と訊かれたら、幽霊のことだ、と、久保田に言われている。
「いいえ。ちょっとびっくりしたことが起きたんですが、あたしの勘違いだったみたいです」
「そうですか。二階はわりと出るんです。僕は慣れましたけどね。それじゃあ」正面へ歩いて行った。
やっぱり出るのか……と、勘違いとはいえ、先ほど怖い思いをしているので美波は不安になった。海斗が戻ってきたので、気を取り直して線香花火をみんなに渡した。
ここにいる誰もが気づいていないが、204号室のベランダから四人が花火をする光景を見下ろす姿があった。
夜風が吹いても、ずぶ濡れの髪が揺れることはない。
「ゴボゴボ……ゴボ……」口から水を吐き出した。「守る……殺す……」
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