灰のふる日に
青葉シラフ
第一幕 第一話「太陽の巫女と灰の予言」
「いらっしゃい、今回も同じのでいいですかい」
「ああ、
男が一人入ってくる。暗い赤のチェックの上着に、
「大事なお客ですから」
和装の男は立ち上がらずに、膝立ちの状態のままで、なにやら棚をあさる。
しみじみとした都会はずれ、植物特有の青臭い匂いがする六畳一間に男が二人。薬研で草葉をすりつぶす音だけが、部屋を満たしていた。
日はまだ高い。
「晴れのち灰なんだと」
客の男がぽつりと呟く。
「晴れのち灰とは、これいかに」
「さあ、何が何だか。世も末だよ、まったく。どこの局もみんな同じだ。空から灰が降るなんて馬鹿らしい。天気予報なんかじゃない、テレビも新聞もオカルトになっちまった」
「主人はそういうの、信じるんですかい」
「まさか」
店主の男はふと外を見る。雲一つない快晴に、灰などはおろか、雨すらも降りそうにない。丸々とふくらんだ
「ああそうだ、喉に効くやつも頼むよ。この頃咳がひどくて。主人の漢方を飲んでいるときは良いんだが、いかんせん悪くてねえ」
ガラガラと喉を鳴らして男は言う。
「
店主が目を細めてそう言うと、男は
草葉をすりつぶす音が、しだいに金属同士が擦れる音に変わってきた頃。店主はおもむろに立ち上がり部屋の端に行くと、
「今から生薬を煎じますが、大体40分くらいはかかります。その間どうですか、私の話を聞いていただいても」
「ああ、構わないよ。それで話ってのは何なんだい」
男はくるりと体を店主の方に向ける。
「話というのはね、例の灰にまつわる話なんですよ」
「主人、やっぱりオカルト信じているんでねえか」
「まあ話の内容はともかく、講談というのに興味がありましてね」
店主はいそいそと支度を始める。緩んだ帯を締め、客に正対して正座をする。空の棚を横にして机代わりに、
漢方屋の主人は様式美として「本日お話いたしますのは、灰にまつわるお話。もとい、太陽にまつわるお話でございます」と一言、一段階低い語り口調に変わる。
その口から発せられる言葉一つ一つが、たしかな重厚感を帯びて客の男の
「ああ続けてくれ、オカルト話でもいい。こんな主人は初めてだ」
『太陽が死ぬ、なんて話はおそらく聞いたことはないでしょう。それもそのはず、その伝承はすでに失われてしまったのです。ですが、伝承から講釈、そして講談へと姿形を変え、こうして細々と語り継がれてきているのです。
これによると、太陽が死ぬ時に灰が降るそうで。ですから今回の灰が降るというオカルトじみた予報も、これと似たようなものかもしれません。
ただその灰というのが少々困りものでして、厄災を引き起こすというのです。地が吸えば凶作に、海が吸えば不漁に、人が吸えば大病に、という具合でして、人々は皆この灰を大いに恐れていたということです。ただこの灰というのも、太陽が死んで発生するものでありますから、太陽が再び現れれば灰は止む、ということでございます。
そこで太陽の巫女、という者がいたそうで。なんでも太陽の神に仕えて、新たな太陽になることができるとかできないとか。その身を燃やし、炎を操ることができるとかできないとか。
なんにせよ、これからお話しいたします物語というのは、この太陽の巫女を中心として巻き起こる、太陽の創生の物語でございます。
物語の舞台なのですが、江戸時代のとある村に、太陽の神を
ただ神主にも位というものがありまして、どの位も白の上衣というのは変わらないので、
神が住まわれているという社の奥には、最上級の位とその一つ下の神主しか近づいてはいけないと、つまりは袴に白紋のある神主のみが、神の
さて、独特な習わしのある村ではありますが、ここの太陽の巫女を巡って展開していく物語でございます。
人前では初めてゆえ、少々至らないところはございますがご
昔々、といってもそこまで昔の話ではない。遡ること、今よりおよそ300年。西暦では1700年代の初頭。
戦乱の世が明け、平穏が訪れてもなお波乱万丈であったこの江戸の時代。
そこには古くからの言い伝えがあるという。「太陽が死ぬ時、神は悲しみ、地上に灰が降り注ぐ。その灰は大いなる災いを生むが、神に仕える
言い伝え通りに人々は
その村に、ミヅキという少年がいた。白い上衣に
少年の12の年の初めのこと。白色に白紋のある神主が、社の奥から転がるように駆けてきた。曰く、来るべき時が来た、という啓示を授かったという。「来る本年の最後の月に、天は光を失い、地上に灰が降り注ぐ。故にその前の月の
しかし、そのことを知っているのは神主のみである。正式には神主ではない見習いの少年には一切知らされず、少年にしてみればただ月日が過ぎていくのみであった。
その年の長月のある日、少年は白色の袴を身に着け歩いていた。前には紫色の袴を着た者が一人、少年はその神主に連れられて、季節に合わない厚着の装束で山道を歩いていた。
昇級の式の道中である。すたすたと先を行くのにつられて少年も歩みを進めるが、額には汗で玉ができ、足もしだいにふらついてきていた。しかし少年は依然として苦しみの色を見せなかった。
普段の松葉色と違って今日は白色の袴。はねた泥が
山の頂上まで来たところで、先を行く神主が止まる。
「本日より、無地の白色の袴の着用を許可する」
ここまでの道のりが昇級の式だとでもいうのだろうか、驚くほどあっさりと終わると、少年たちはゆったりと山を下り始めた。
往路はついていくことに必死で気が付かなかったが、木々が美しくそびえたっていた。スラと細身の木が並ぶ樹林、まるで自然のものではないように傷一つない無欠の秘境。ぴたりと足を止めて眺める少年の意識は、森に吸い込まれていった。
少年にしてみれば初めて登る山だ。見たことのない景色、聞いたことのない音、嗅いだことのない匂い。木々に触れ、木の実を摘む。少年は、自身の感覚を余すことなく眼前の風景に注いでいた。
自然へと
やがてそれが身を回して止まる。こちらに気が付いたのだろうか、それは石のように固まって動かない。風に吹かれ、その
「森の奥に、何やら人影を見ました。
「アレは、
少年は横の神主の男に尋ねると、彼は
また先ほどの方に目を向けるが、大樹の陰に隠れてしまって見えない。
まるでアレと呼ばれたモノを隠すように、樹齢にして千年は超えているであろうその大樹が、少年の目を阻んでいる。大樹には
横の神主曰く、御神木なのだというそれを通り過ぎ、少年と紫の袴の神主は山の
とある少女が目を覚ます。とはいえ、夜は明ける気配など無く、ますます深まっていくばかりである。
硬い床に寝ころびながら顔を横に向けるが、窓の無いこの小屋では外を見ることはできない。
枕元には、いつの間にか置かれていた、乾ききって固まったわずかな米がある。これを口に含んでは、嚙むでもなく井戸の水でそのまま流し込む。
こうして少女の一日は始まる。
朱色の緋袴に、白の上衣。雲間から
あたりを見渡せど、何も無い殺風景だ。少女のいる窓の無い小屋を中心として、森が避けるように円状に空間が広がっている。
ここは少女を閉じ込める
太陽の巫女として生を受けたこの少女は、ここで一生を終えることを運命づけられていた。いつか来るという灰の厄災に備え、その
淡い光を受けて、少女の影が薄く地に伸びている。しかし少女の瞳には、その光が届くことはない。ただ深く影を落とし、濃い
まだ長月とはいえ夜はほどほどに冷える。素足が土に触れて少しひんやりとする。
やがて少女は一人舞う。儀式の際に舞う神楽である。神の
することも無ければ、したいことも無い。ため息すら出ないほどに定められた日々だ。
太陽の巫女として、日に当たることを禁じられた少女は、日が沈むとともに目を覚まし、味のしない米を流し込んでは神楽を舞う。
星、月、うっすらと流れる雲。風、土、そして小屋と一本の傘。これが少女にとっての世界のすべてだ。
身に沁みついた神楽を一通り舞い終えると、少女は眠くなるまで星を数えて時を過ごす。
ただ、この日は無性に胸がざわめいて眠くならず、気が付けば東の空は明るみだしていた。
日に当たることのできない少女は、日が昇った後も眠れず、小屋の中で
ある時、少女の視界の端で何かが光った。立ち上がり、目を凝らしてみても、木々に
少しでも近くに寄りたいと少女は足を運ぶが、小屋から出る直前、光と影の境界線で足が止まる。
少女はまた顔を上げ、光を探すのだがどこにも見当たらない。
すると不意に眠気に襲われ、少女は泥のように眠りについた。
その日の夜、草木も眠る
岩にしみいるような
もう一度眠ろうと横になるが、胸がざわついてそれどころではない。
仕方がないと言って、少年は山で見たあの場所へ向かうことにした。だが、寝間着のままで行くわけにはいかない。
かといって白の袴を穿いていくこともできない。そうだと言って少年は、もう穿くこともないだろうと、洗ったばかりの袴で例の場所へと向かった。
昼間とはまるで違う山道を進むと、やがてあの御神木の所まで来た。足を止め、その方を見つめる。アレと呼ばれ、穢れとさえ言われたモノを探す。
林の奥のさらに奥、消し炭色の暗がりに、ほのかな光がゆらめいた。燃ゆる火と、見まごうほどの
明かりが少年を飲み込むほど近づいたところで、木々の切れ目が見えた。
林を抜けるとそこには、夢の跡のようにひらけた場所に出た。四方を山林に囲まれ、
ああ、なんて美しい場所だろうと感嘆の声を漏らすのも束の間、この空間の真ん中付近に一つ、ぽつりと佇たたずむ小屋を見つけた。なんだろう、と神秘の中で明らかに場違いな人工物に自ずと足が動く。
背筋がぞくりとするような寒気を覚えるが、身体の芯は燃えるように熱い。
やがて明るさが元に戻ると、少女が一人、少年の前に立っていた。
白い
声を奪われてしまったのだろうか、少年はただ立ち尽くし、目の前の少女を見つめることしかできない。
ただ、少女もまた、少年を見つめている。
「昼間見ていたのはあなたね。白紋の者しか入れないはずなのだけれど」
少女の瞳に松葉色の袴が映る。
「青い松葉の色。そのおかげね」
一人納得した様子の少女だが、いまだ少年の意識は置いていかれたままだ。
光の粒が少女の身体を包んでいる。少女の手とそれが触れあうと、じゃれるように明滅を繰り返す。月明かりに照らされた横顔の、なんと美しいこと。
時がゆっくりと流れているかのように鮮明に、水のように流動する黒髪が、少年の瞳に流れ込んでくる。
「き、君は……」
かろうじて声を出すも、それを最後まで
「来て」
短く告げ、すたすたと行ってしまう。取り残された少年は、よろめく足をどうにか抑えて少女の後ろ髪を追う。
先ほど見かけた小屋の手前まで来ると、背を向けたままに口を開く。
「太陽の巫女」
遠い目で独り言のように呟く。この言葉を掬ってくれる誰かを求めているかのような、そんな言い方。
巫女、という言葉に反応したのだろう、少年の眉がピクリと動く。しかし太陽の巫女というのは聞いたことがない。
「太陽の、巫女って」
その言葉を
くるりと身を
「あら、知らないのね。そう……知らないの」
瞳から溢れた
ただ、少女もまた、その泪の訳を、知らなかった。
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