5ー3
「今日はこのくらいだな。まあ、下ハブがつけられたんだから五十点は取れたって事で」
「けど、ツブシだってまだですし…」
「誰も今日一日で全部覚えられるとは思っていないよ。ドリさんだってそうだ」
「え?」
「とりあえず明日は撮影なんだから、さっさと予定だけ聞いて帰って寝るこったな。遅刻なんてした日にゃ、死ぬよりひどい目に遭うからな」
そう言ってクチナシは最後の指導に移った。
「最後にメイクと油の落とし方を教えっから。座って」
「はい」
クチナシは慣れた手さばきで羽二重を取ると、福松の前にプラスチックでできたボトルを置いた。そして引き出しからコットンを取るように指示を出す。
「コットンにこのベンジンを染みこませて。ドバっと出るから慎重にな」
「分かりました」
言われるがままにコットンにベンジンとやらを垂らす。するとすぐに刺激臭が福松の鼻を襲った。無防備だった鼻孔にベンジンの匂いが容赦なく入り込み、福松は盛大にむせ返った。
「な、なんすか、コレ? ガソリン?」
まさしくガソリン臭さが周囲に立ち込めた。揮発性が高く可燃性のある薬品の匂いだ。一瞬、クチナシの悪戯だとか用意するものを間違えたとか色々な考えが福松の頭の中を交錯する。
しかし、クチナシは至って平然としている。
「厳密にはガソリンじゃないけど、ガソリンの親戚ではあるな」
「これを…どうするんですか?」
「それを含んだコットンで髪を拭くんだよ。油が解けるから良く落ちる。鬢付けはお湯とか水だけじゃ簡単には落ちないから」
「え…身体とか皮膚とかに悪くないんですか?」
「短時間なら平気らしいよ」
「らしいって…」
「あ、ただ目に入ると失明するから気をつけて。染みこませすぎると垂れっから」
「さらっと怖いこと言わないでくださいよ」
そんな薬品を頭に塗るのは抵抗があった。けれども、決して冗談で言っている雰囲気ではなかったので渋々言う通りにした。
垂れ出ない程度にベンジンで湿らせたコットンを生え際に恐る恐るつける。思った通り揮発性が高いのですぐに清涼感が伝わった。しかしそれと同時に擦ったというか、軽い火傷を負ったかのようなピリピリとした感覚が後を追いかけてくる。どう考えても肌に優しい成分だとは思えない。
それでも髪にこびりついた鬢付け油がどんどんと流されていくのは分かった。固まったラードよりも頑固な油汚れだったので、トータルで判断すると爽快感の方が上回っている。
やがて生え際全てを拭き終わると、ふうっとため息が自然に零れた。思った以上に力が籠っていたようだった。
「はい、お疲れさん。後は化粧前を軽く片付けてくれりゃ終わりだ」
「うす。ありがとうございます」
「それとお前は明日から撮影のメイクするときはあっちの部屋に来い」
クチナシは言われなければ気が付かないような場所にある扉を指さして言った。何だか雰囲気が陰気な扉だった。もしかして…。
「妖怪が見える人用の部屋ですか?」
「お? 察しがいいな。オレみたいのが見えないとか、聞こえないとかいう奴の相手すんの大変だろ? 説明だって面倒くさいし。あの部屋ならそんな面倒な事は起こらない。自分で付けられるんだったら、ここの部屋でもいいけどよ」
「いえ。お世話になります」
「早いとこ、あの部屋を卒業できるように頑張るこったな」
そこでようやく本日の番外講義である羽二重講座が終わった。
吉成とクチナシに特訓に付き合ってもらったお礼を言い、福松は床山部屋を出て一階の製作部に向かった。
伊佐美はこちらに気が付かないでデスクワークをしていたので、福松から声を掛ける。
「伊佐美さん」
「あ、福松さん。待ってました」
「すみません、遅くなりまして」
「いえいえ。羽二重をつけるの練習してたって聞きましたから」
福松は制作部の脇にあった簡素な応接用のソファに案内された。そしていよいよ明日の撮影について説明を受ける。
「なんとドリさんの推薦で初現場入りですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「では、初の現場なので詳しく説明しますね」
「お願いします」
伊佐美はクリップボードに挟まれた一枚の紙を見せてきた。福松はそれが香盤表だとピンと来た。
香盤表とは撮影や舞台で使われるスケジュール表の事である。シーン毎に登場人物の出番や必要な小道具、衣装などなど進行を円滑に進めるための情報が記載されている。
元々は歌舞伎の舞台で用いられる各場面の出演場所に○をつけるだけの簡素な一枚紙だった。その○が点在する様が中国の線香を立てる四角い升である香盤に似ている事から名前が付いたと言われている。
伊佐美はその香盤をぺらりとめくった。
下にはもう一枚の紙があり、番手、時間、場所、SNO、演者と福松の見たことのないタイプの香盤表があった。見方が分からず困惑したが、その中で『駕籠中間 福松』という名前を見つけると心が弾んだ。
「明日は駕籠中間をお願いします。今日の講義で大分できていたと聞いていますから」
「が、頑張ります」
あまりハードルを上げられても仕方がないので、福松は意気込みだけは立派に答えた。
「それでメイク入りですが、朝の6時には床山に来てほしいです」
「結構…早いんですね」
「ええ。出演者もそれなりにいるので。基本的には時代劇塾と同じ流れです。表のゲートから入ってきて、その日の楽屋場所を守衛さんの所で確認してください。それで6時に床山に上がると言った具合ですね」
「ははあ。分かりました」
「明日は私が外部出演とエキストラの担当なので朝にはいると思いますから」
そう聞いて少し心強くなった。何分、全てが未知な領域なので顔見知りがいるというのはとてもありがたかった。
伊佐見に挨拶を済ませると福松は駐輪場に向かった。不安や緊張が期待と高揚に包み込まれているような妙な感情が足を浮わつかせていることに気がついている。そんな気持ちを胸にもうすっかりと日の落ちた太秦の町並みを自転車で駆けていった。
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