京都あやかし撮影所 ~仕出し陰陽師の福松くん~
音喜多子平
1ー1
「長時間のご乗車お疲れ様でした。当バスはまもなく終点の京都駅に到着します」
そんなアナウンスが高速バスの中に流れると、乗客たちがもぞもぞと座ったままに降車の準備をし始めた。バスの一番後ろの席に座っていた
福松は十三時間ぶりにバスを降りるとガチガチに固まった身体を伸ばして凝りをほぐした。彼が出発したのは東北は仙台のバスターミナル。高速道路を使っているとは言え陸路である為そのくらいの時間はかかってしまう。
朝の京都の空気を思い切り肺に取り込む。吐き出す息は白く、その見た目だけで寒さを助長した。
京都と言えば修学旅行の定番で人生に一度くらいは訪れる者も多かろうが、福松の場合は人生で初めての出来事だった。なので全国的に知名度の高い観光地も数えるほどしか調べていない。京都駅についたのでせめて京都タワーくらいは見てみたいとは思っていたが、生憎と駅の反対側に降車した上、観光目的で訪れた訳ではない。それに加えて用事を済ませるまで無駄足を踏みたくないのが彼の性分でもあった。特に初めての場所では。
福松は早速、目的の場所である『梅富士映画撮影所』までのルートと到着予想時間をスマートフォンで調べた。
京都駅から山陰本線に乗っておよそ二十分の道のり。
現在の時刻は八時前。約束は十時だから余裕を持って移動ができる。それを確認すると福松は空腹を実感した。腹が減っては何とやらと言う言葉もあると自分に言い聞かせると、まずは腹ごなしできる場所を探した。しかし如何せん中途半端な時間であったので、結局は駅の中にある朝から営業しているコーヒーのチェーン店に入り、モーニングメニューを注文するだけに留めておいた。
濃いめに淹れてもらったコーヒーを飲み終え、完全に目を覚ました福松はいよいよ梅富士映画撮影所に向かうことにした。
◇
福松は山形県の置賜郡にある荒砥という街で生まれ育った。例えば『東北にある田舎町』を想像して見てもらいたい。彼の生家のある場所は正に想像してもらったようなところであった。山の麓にある田んぼばかりの町で、名物と言えば川魚を取るために河川に設置するヤナと呼ばれる仕掛けとそれによって獲れる鮎くらいのもの。盆地のために夏暑く冬は雪深いというような場所だ。
そんな自然豊かな町で高校を卒業するまで過ごした福松は、大学進学と同時に宮城県の仙台へと出た。田舎出身の者としてはそれでも大都会に出るくらいの高揚感と意気込みがあった。
大学に入学したばかりの福松はサークルの勧誘活動の場を歩いている最中、ふと目に入った演劇部の看板が無性に気になり見学に赴いた。その時たまたま同じく見学に来ていた女子学生に一目惚れをした福松は下心で演劇部の入部を決めたのだ。残念ながらその女子学生は見学に訪れただけで入部することはなかったようだが、福松は演劇部に入った事を後悔はしなかった。
というのも人手不足という理由で入部早々に役者として舞台に上がった彼は、たった一回の公演で役者というモノに嵌ってしまったからだ。それからの彼は年に三、四回ある演劇公演の全てに役者として携わり卒業のギリギリまで部室に入り浸っていた。在学中はプロアマ問わず様々な演劇を鑑賞したり、ワークショップなどにも積極的に参加して大学生活を充実させた。仙台と言う街は演劇やそれに関するイベントが盛んに催されていることも幸いし、初公演に立った時に比べれば、そこそこに見えるくらいの演技力を身につけるまでになっていた。
しかし、福松はそれを一生の生業にしようとは考えなかった。いや、より正確に言えば一生の生業にしようする覚悟が持てなかった。
演劇活動に熱を出しすぎるあまり就職活動がおざなりになっていた福松は大学を卒業する間際になって地元に帰るか仙台に居残って就職するかを悩んだ結果、仙台にある小さな企業から内定をもらったことを理由にそこへの就職を決めた。新卒と言うアドバンテージを失わない事だけを考えただけの向こう見ずな就職だった。
それが運命の分かれ道となった。
福松の就職した企業はいわゆるブラック企業であったのである。学生レベルでも多少のリサーチをすればわかるほど悪名高い会社であったのだが、就職活動に満足な時間を割かなかった彼は大学の就職係に寄せられてた求人を禄に吟味もせずに片っ端から応募をかけていた。
そうして就職した会社で無茶な働き方を強いられて心身を疲弊させた福松は、一年と持たずに退職を願い出た。するとその時の直属の上司が辞表を持参した福松に向かって、
「仕事なんてどこいっても同じくらい辛いんだぞ。人間に天職なんてものはないんだから置かれてる場所で頑張って、今の仕事を天職にするしかないんだよ」
と言ってきた。
上司としては上手く言いくるめて退職を考え直そうとしていたのかも知れないが、その言葉は想定していたものとは違う形で福松の心を打った。
何をしても辛いのだったら、せめて好きな事を仕事にして辛い方がいいじゃないか、と。
そう思い立った福松は勝手に背中を押された気になって辞表を取り下げるどころか、かつて一瞬だけ頭の中に思い描いた夢を実現できるのではないかという確証のない自信を持つまでに至っていた。つまりは役者として生きていくという夢だ。
具体的な退職を決めた彼は、すぐさま今後の身の振り方を考えた。役者と言えどもそのカテゴリはいくつもあるし、なる方法となれば更に多くの選択肢がある。福松はかつて自分が携わった公演やワークショップの記憶を反芻し、一体どんな役者になりたいのか、どの役が一番楽しかったのかを検討し始めた。
そして三日が経ったとき。
福松は時代劇で活躍する役者になりたいという一つの結論を導き出したのだ。
彼が時代劇と言う答えに辿り着いたのには理由がある。
それは福松の学年の大学卒業記念公演のこと。六人いた同級生たちが演目を話し合っていた際にこの四年間で色々なジャンルの演劇をしたが、本格的な時代劇だけはやったことがないから最後にそれをやってみたい、と歴史学部の部員が言い出した。福松を含めた残りの四年生はその意見に満場一致で賛成し、江戸を舞台にした時代劇の公演を正式に決定させた。
しかし色々と問題は山済みだった。現代劇とは違い、用意すべきもののなんと多いことか。
衣装、かつら、時代考証、言葉遣い、小道具、殺陣などなど。クオリティを追求すればするほど予算が高くついてしまう。結局のところ妥協に妥協を重ね、発案当初の構想とは似ても似つかないような演劇とせざるを得なかったである。そして福松にはそれが何とも言えない、心のしこりとして残っていた。
だからこそ時代劇に心惹かれるのかも知れない。それを自覚しているのか否かは福松自身にも分からないが、少なくとも彼の中には時代劇は楽しいものだという思いはあった。
時代劇で活躍できるようになりたい。そんな指針が決まると次々に今の自分に足りないものが次々と浮き彫りになってきた。本格的に勉強をしようと思ったら独学や地方にたまにくるワークショップなどではとても賄えない。
もっともっと実践的に勉強をして時代劇で通用する役者になるには――。
福松は思った。
…。
そうだ、京都行こう、と。
思い立った福松はすぐに情報収集を始めた。京都が時代劇撮影のメッカであることはその通りだが、だからといって考えなしに京都に行っても何にもならない。そこで福松はかつてワークショップで一度だけお世話になったことのある、映画監督にダメ元で一通のメールを送った。
すると幸いなことにその日のうちに返信があった。メールに京都の映画撮影所で時代劇のこれからを担う人材を育成するためのスクールが開校されているという旨の事がつらつらと記されていた。
望んだ情報がすぐに手に入った事に福松は天命に似た何かしらを感じ取り、すぐにその時代劇専門のスクールを開催している撮影所に連絡をしてみると、あれよあれよと言う間に話が進んだ。案ずるより産むが易しとはこの事かと思うほどだ。そうして準備した書類の選考が終わり、最終面接のために仙台から京都まで片道十三時間のバスに揺られたという訳だ。
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